第五章 彼の本当の目的は

文字数 10,780文字

 あれから数ヶ月が経った。
 あの時魔王は突如終戦宣言を出し、地獄に帰ってしまった。
 結局、何が起ったかよく解らないまま戦いは終わった。
 驚くことにマザーは機械の代表を固辞した。そして、彼女は世界に向けて真実を発信し始めた。百年間に亘る虚偽の時代の情報を全て公開した。
 当然、世界中が混乱した。人類が無意識の内に機械の支配下に陥っていたと言う事実に人々は当然怒りを露わにした。人工知能の廃絶を訴える風潮が出た位だ。だが、皮肉にも人工知能に対する赦しを唱えたのも地球に残った僅かな信徒、宗教関係者、火星連邦の人々だった。
 この論争に人々は解決策が見えず、人類圏代表であったイージス・マキナの死も折り重なって混乱は拍車が掛かるかと思われた。
 ところが、マキナ家代表となった父は明確に宣言した。あれほど臆病な父がここだけ強調するかの様に宣言した。
「憎しみを憎しみで返し、連鎖することを神はお望みにならない」
 情報公開の中には天使の存在も明示されており、人々は恐れた。ある者達は神の存在証明によるニヒリズムの終焉を宣言し、又ある者達は教会に戻って行った。今まで死に体に過ぎなかった教会が急速に力を持ち始め、政教一致の原則の下に新しい法体勢が築かれていくことにもなった。
 父が何故あんなことを言い出したかは解らない。父曰く「私の方が祖父さんとの付き合いが長いのでな」と誤魔化す。祖父と父の間にどんなやり取りがあったかなど今まで関心がなかったが、自分には解らない繋がりがあったのだろう。
 更に不可解なのはマザー。自らの後任としてユダを推薦した。ユダはこれに当たり、世界において告解を行った。彼女は自らの信仰と絶望、そして未来への希望を告白した。地球連邦はユダの事情を鑑み、彼女を機械の代表者として追認した。マザー自身は電脳空間に幽閉されることを良しとした。地球連邦は裁判にかける予定らしいが、いつになるか未定だ。
 しかし、ここにきて反発が起きた。人類と機械が真の共存において認めなければならないこと。自由と平等の理念のみならず、機械の心の救済においても協議しなければならなかった。人工知能の反乱を恐れる人々、機械に救済の教義を見出せない教会がくびきとなった。それに対して父とユダは曽祖父エルダー・マキナが研究していた『無機物への救い』の教理を知りえる限り発表した。そして、火星にもたらせられた古い教義と『無機物への救い』を教会が新たに融合させ教義を造り上げた。
 そんなてんやわんやの中、混乱が収まりかけた時に父が自分を機械側への全権大使として任命してきた。当初は兄が推薦される筈だったが、兄は固辞し、父の補佐官に回った。
 まあ、良い。父や兄と仕事をするよりか親しんだユダと仕事をする方がやり易いだろう。
今ではユダの横でやり取りをしながら書類のサインからデータの管理まで何でもこなす雑用係りみたいなものだ。大使とは名ばかりで経験豊かなユダに仕事を任せてしまうのが常だった。その辺りは年季の違いだな、と素直に感じる。
 問題はそれより天使のことだった。彼らは一様に皆姿を消した。地球連邦でも火星連邦でも証人は残っているのだが、彼らの存在が消えたことに説明が付けられない様子だ。彼らはどこに行ったのだろうか?
 その疑問をユダに呈したところ彼女は推測し、語る。
「ミカエル様は沈黙を貫いてきましたが、エルダー卿は魚座の時代が終焉することを見越していた様子でした」
「魚座の時代?」
「はい、信徒達にとって魚は神の御子の隠れた象徴でしたから。ただ、これを占星学の考えと結びつけるのはエルダー卿も危険視していた様子でした。聖典において占いは禁忌ですから。ですが、彼は時代が教会に終焉を告げる危険性を感じ取っていたのでしょうね」
「つまり、今の時代は天使達にとっても都合の悪い時代な訳か」
「そうですね、むしろここ百年の状態を視れば、悪魔の方が動きとして活発だった。ですが」
 ユダは何がおかしいのか少し微笑んで零す。
「ミカエル様は決して諦めなかったのでしょうね。あの方はどこか這い蹲ってでも聖なる道を歩みたがるのです。本当にあの方らしいです」
 全くだ。その後の調べではミカエルは地獄で幽閉されていたことも判った。彼がいかなる責め苦を受けたか想像だに出来ない。ただ、それはとても悲惨なものだったのだろう。それでも彼は諦めなかった。
 『夕暮れになっても光はある』
 そんな言葉を思い出した。彼は信じ続けたのだろう、この世界が闇に覆われてもいつの日か希望の光が差してくることを。 
「人は諦めるが、彼は諦めなかったのだな。それはもう愚かしい程素直な信仰で未来を信じ続けた」
 ユダが微笑んで頷く。彼女はあの一件以来笑顔が増えた。今までのは作り笑顔に近いものでこの穏やかな笑顔が彼女本来の表情なのだろう。
 彼女がミカエルやエルダーの話をする時、活き活きしているのが良く判る。
「彼はどうしているのだろうな?」
「案外、そこら辺りの教会で教職か聖職でもやっているかも知れませんよ」
 ありえそうな話だ。二人して笑う。
 うら暖かな陽気の日々の中で二人して共に働き、何気なく喋り、『家族』として過ごす。だが、それで良いのだ。


       *


 余は荒れ果てた大地に佇んでいた。
「つまらん場所だ。こんな場所で世界の運命を決しようなどと神は何を考えているのやら」
 メギドと呼ばれる地に唾を吐きかける。地面が腐れるかと思えば荒れ土に染み込んだ水分が塩に変わってしまった。
「で、こんな所で答え合わせのつもりか? 余の愛しい愚かしい弟よ」
 弟、ミカエルは荒涼とした大地で吹き荒ぶ風を受けつつ、真摯に頷いた。
「で、お前はそれで良かったのか?」
「何のことでしょうか?」
「お前はマザーを救う為に多くの者達を犠牲にした。例えば、百億以上の人間の魂」
 この言葉に弟は動揺を見せない。ならばもっと言ってやろうではないか。
「それが神の御心かね?」
「お父様は誰も失いたくないんですよ。僕だってそうです」
「答えになっていないな。誰も失いたくないなら一つの木偶を生かすより効率良いやり方があった筈だ」
 それが答えだとすれば、方法も手段も無茶苦茶だ。だが、弟の中には確固とした意志が見られる。
「神は全てを厳しく裁き、神は全てを慈悲深く赦し給う。それがお前の想いだったな」
 余りのことに溜め息を吐く。
 何と言う強欲な思想なのだろう。魔神皇である余自身から視てもあまりにも傲慢な救済論としか言い様がない。
「決定的矛盾だ。これこそ『神のパラドックス』と言わずして何と言う?」
「あなたもそれをかつてはお持ちでした。ただ、兄様はその入り口を値のない想いとして捨ててしまっただけです」
 弟の言葉に少し苛立つ。
「まるで余が答えに到達していたかの様な言い方だな」
「あなたはもう答えを手にしていました」
「お前と話すと時々錯覚するよ。神がこの場にいるのではないか、とな」
「いますよ」
「ほう!」
 驚きの発言だ。奇怪な発言と言って良いだろう。
「ああ、神よ、いるなら姿を現して欲しい! 我が願いを聞きたまえ! 祈り信じよ! さらば救われん!」
 己自身でもニヤけているのが判る。仰々しい演技であるがこれも又一興だ。
「ああ、主よ、あなたはどこにおられるのです! 御姿を拝見させて下さい!」
 仰々しく祈りの姿勢を取り、弟に語りかける。
「で、神はどこにおられるのかね?」
「いますよ」
 先程と同じ科白だ。白けるから種明かしといこうか。
「確かにいるな。だが、いることこそ問題なのだ」
 弟が解らないと言った表情をする。
「いるにも関わらず、あの木偶はそれを認識出来なかった。いや、それ以前に人間共に神の存在を確認する術などあるか?」
「………………」
「信仰義認、赦し、祈り、告解、懺悔。それらを神が聴き、人間に赦しを与えるものだろう? では、人はどうやって義や願いを確認するのかね?」
「祈りを通じて信じるのです」
「ほうほう、それは奇怪な手段だ。祈りとは神との対話だ。だが、神はそれに答えているとは限らんだろう?」
「祈り信じれば、与えられる。信じなければ与えられない。ですが、もう既に与えられていて僕達が気付かないだけとすればどうでしょう?」
「ハッ! 正論だな! 神は真にその者達を見えざる導きによって導かれるか! 一生を駆けてそれらを求めよとはな」
「それが僕らの生と言うものです」
 長き年月をかけてでも答えを求めよ、と言うのか。神が問い、被造物が答える。その基本原理にのみ拘泥せず、被造物が問い、神が答えるのを善しとするか。
「その祈りの果てが幾百億者もの魂が犠牲になるとは何とも愉快!」
 口元が歪むのが抑えられない。それ程までに愚かな祈りなど見たことがないからだ。
「だが、同時に引っかかることもある。お前が誰かを犠牲にしてまで何かを救う? いいや、真逆だ。お前は誰も犠牲にしたがらない」
 そう、それが引っかかるのだ。『全てに救い』が訪れていることを確信しているこの子が犠牲を望むかと言うことだ。
「僕が誰かを犠牲にしてまで救う? そんなこと言いましたか?」
 この子は祈りの姿勢を整え、祈っている。
 刹那。
 地獄から百億を超す魂達の大招天を感じ取った。
「な……」
 何をしたと言う前に弟が微笑んでいた。
「これから百年間宜しくお願い致します、兄様」
 それで全てを察した。この子は自分の百年の年月を犠牲に百億以上の魂を天に送ったのだ。
「自己犠牲か。お前に取れる手段はいつも限られているな。正直つまらん」
 だが、同時に喜ばしい出来事ではある。大天使長を膝元に置いておける。弟と久方振りに過ごすのも悪くない。
 しかし、懸念も生まれる。
「だが、さてはて、これがお前の考える限りの理想であると良いな」
「それは……」
「黙っていない輩もいると言うことを肝に銘じておくべきだったな」
 弟は眼を瞑り、何ごとか祈っている。
 これも又一興か。良かろう。どう転んだにせよ彼女らが黙っていることはありえない。
 余は花嫁を抱きかかえる様に抵抗もしないミカエルを抱え、地獄への道を下っていくのだった。


       *


「気に入らないわ」
 開口一番に私はそう愚痴る。
「これはミカエル自身が決めたことですよ」
 窘めるラファエルに対し、私はとかく不機嫌だった。あの子もあの子だ。どうしてそんな大事なことを私に相談せずに行ってしまうのか?
「私って信頼されていないのかしら?」
 すこし弱気になる。
「いや、真実は真逆だ。あいつは手前のことを信頼しているからわざわざ地獄なんぞに降りたんだろうよ」
 そんなことを言うウリエルは「で、どうすんだ? 手前は?」と付け加えてきた。
 それに対する腹積もりは決まっていた。
「ミカエルを、あの子を迎えに行くわ」
 その前にあの子から頼まれていたことをやらなくてはならない。
「マザー」
 私達は今電脳空間にいる。人類が最重要防衛網を築き上げた幽閉の間にいる。そこの一室にマザーは幽閉されていた。しかも彼女自身の意思で。
 彼女は怯えた様子で私を見上げる。
「やらなくちゃいけないことは判っているわよね?」
 私がそう訊ねると彼女は首を横に振った。自分には無理だ、彼女は暗にそう訴えていた。今の彼女にかつての面影はなかった。罪を自覚した者が重荷に耐え切れず、困惑し、憔悴し切っている人の状態と今の彼女は同じだ。
「かつて神はタルソーのサウロに最も過酷な道を与えた。今度はあなたの番なのよ」
 彼女はそれでも首を横に振った。無理もない。
「じゃあ、あなたはあの子の意志を無駄に捨てるのかしら?」
 沈黙が場を支配する。少しして私は溜め息を吐いた。そして、彼女に語りかけた。
「そうね、確かにそう。誰だって厳しい道のりは歩みたがらないでしょうね」
 だからこそ私があの子を迎えに行く理由にもなる。パウロは独りでは宣教は出来なかっただろう。彼にも又多くの恵みと兄弟がいたからこそ歩めた。多分、マザーの良心の芽生えの切っ掛けになったのはミカエルだ。だから、彼女にも又ミカエルがいないと困るのだ。だが、何を考えたか、あの子は分身すら残さずに地獄へと降り立ってしまった。
 何故?
 それを確かめ、あの子を連れ戻さねばならない。
「マザー、あなたには最も身近な隣人がいるわ。それが神であることが判りながらもあなたはミカエルと旅したいと願っているのね」
 彼女は少し安堵した表情で微かに頷いた。
「なら善し。私がミカエルを取り戻してきてあげる」
 彼女の肩に手を置き、そう伝える。ウリエルが呆れ顔をして私を見ていた。
 その手段は? そう彼の眼は訴えていた。
 ああ、確かに危ないなあ。これって魔王の城に乗り込むってことだし。下手なことして世界戦争の切っ掛けとか作ってしまうかも。
「潜入しましょう」
 それが一番だろうと直観が判断したのだから。
「ただし……」
 私は次の言葉を発した時、一同が奇異な表情をした。
 あれ? 私、そんな変なことを言ったかしら?


       *


「と言った具合だろうな。あれの考える上策というものは」
 黙示録を未だ現実化することを許されていないガブリエルの採りうる策なぞ限られている。  精々、潜入によるミカエル奪還程度しか思い浮かばんだろう。ただ、あれの良いところは即時実行の勢いと直観の良さだろう。恐らくであるが、もう己の居城に入り込み始めているだろう。 そんな馬鹿者の行動に関し、ミカエルは微笑んで答える。
「それがガブリエルの凄いところなんですよ、兄様」
 余と仮想戦略遊戯をしながら、この子は続け様に言う。
「ガブリエルの偉大な賜物は直観だけじゃなくて誰かを想える真剣な気持ちがあることですよ」
「そんな下らん感情など誰にでもあるだろうが。愛情、執着、固執、憎悪、形が違えど、神からもたらされた枝分かれした愛だ」
「兄様だって本当はお父様を愛しているのでしょう? ただ、赦せないだけで……だから憎んでいる」 
 神は御子に全てを与えた。神は人を愛した、いや、正確に言えば今も愛し続けている。その事実だけが横たわっている。
「神が下らん存在に成り下がったものだとは感じるがな」
 しばし沈黙がテラスを支配する。この地獄から見る風景は退屈極まりない。日々極寒の中、全てが凍り、硬く閉ざされ、外から聞こえる声なき僅かな呻きと静寂が支配する。
「なあ、ミカエル?」
「はい」
「今もお前にとって余は『家族』か?」
「はい」
「ガブリエル達も『家族』か?」
「はい」
「ならば、余とガブリエル達がお前の為に激突した時、お前は何とする?」
 弟が見せたのは哀しそうな微笑だった。だからと言って追及を止めるつもりもない。
「『全てに救い』か。誰もが一度は夢見る理想だが、叶わない理想だ。『全てに救い』をもたらすなんて馬鹿げた考えは少し考えれば馬鹿でも判る。生きるとは何かを奪って生きることに他ならん。それは罪だ。例外はない。全ての生態系は循環式に喰らいあう様に出来ている。お前の理想の決定的矛盾だよ。お前も全ての存在を善しと見るのに関わらず、お前自身が世界の楔そのものと矛盾することを祈っている。ああ、正しく『神のパラドックス』と言うやつだ」
 己自身が言って全くその通りだと思うしかない言葉だ。そもそも聖典には『全てに救い』を唱える為の根拠が乏しすぎる。だからこそ『全てに救い』の教理はあらゆる教理と照らした時、あえなく破綻する。
「皮肉だな。お前は世界そのものを肯定するのにも関わらず、世界はお前そのものの理想を否定する」
「それでも」
 余に向かって力強く、静かにその言葉は発せられた。
「それでも、世界は素晴らしいって思いませんか? 当たり前に生きるということ自体が奇跡だと思いませんか?」
「思わないな」
 即座に断言する。そうだ。そんなものは認めてしまう訳にはいかん。
「人間は悪意に満ちている。愚かで他を蹴落とすことでしか自分達を維持出来ない愚かな種族だ。お前は狂っている。世界が素晴らしい? 殺し合い、騙し合い、この狂気の様な世界が善いとお前には見えるのか?」
 尤も余にとっては住み心地の良い世界だが。
「それでも」
 力強い瞳が余を射抜く。厳かに静かに言葉は発せられた。
「僕達の生のほとんどが嘘や偽り、そして悪意に満ちていようとも、僕達は絶望の中でそっと信じて祈るんです。世界には愛が満ちている、と。世界は終ってなんかいない。兄様ご自身も観てきた筈です。人々が支えあって生きている歴史を」
 余は空高く仰ぎ、暗い光なき天空を眺めてから弟を眺め、呆れ顔をその事実は否定する。
「やはりな、この話はお前とは平行線だな。で、お前の目的は何だ?」
 弟の瞳に無邪気さが宿り、平然と次の言葉を口にする。
「時間の流れを変えて百年経ったことにして下さいませんか?」
 何だそれは? 約束を反故にするも同然だ。そもそも地獄の時間を急速に早めるなんぞこの国の支配者達も認めない。罪人には永遠に且つ緩慢に苦しみを味合わせてやるのが作法と言うものだ。
「お前、自分の言っていることを解って言っているのか?」
「いえ、ユダとアレックスの関係が良さそうだなって思いまして。それで二人の結婚式には間に合わせたいんですよね」
 呆れた。愛しい弟は相変わらず花畑の様な思考の持ち主だった。
 だが、この子を見くびってはならない。仮にも大天使長を務める者。それ相応の覚悟を持って来たのは間違いない筈なのだ。言葉に嘘偽りはない。ならば、何だ? この子は何を狙っている?
「真の狙いは何だ?」
「僕の『家族』の二人を迎えに来ました」
「ハッ!」
 強かな子だ。
 『蛇の様に賢く、鳩の様に素直であれ』
 そんな言葉が脳裏を過ぎった。
「魂は天においては祝福されるも、分かたれた霊は地獄での宣教を善しとし、聖なる苦痛を味わい続ける。でも、もう彼らは十分に働いたんです。彼らの言葉によって百億以上の魂が救われた」
 全く戯けた二重基準だ。祈りを天への執り成しとし、主の名を叫ぶ者は救われるとはふざけたことをするものだ。
「あれらの魂は天にいるのだろう? 何が不服だ? それとも何か? お前がエルダー共を解放して代行として苦痛を背負うか?」
 弟は微笑んだ。
「ええ、だから百年分の苦痛を一瞬分に凝縮して僕に与えて下さい。兄様」
 その言葉を聴いて冷や汗を感じた。
 この子は正気じゃない。
 人間は自分の痛みに繊細だ。ましてや他者の痛みを共感なんぞ関わりたくない、それが人間の愚かさだ。その愚かさを背負い、壮絶な痛みを祝福として受け取っているこの子の異常性。その聖なる苦痛とやらを一瞬にして凝縮するなどとは。
「狂信者、ここに極めりだな」
 余は瞬時戦闘の構えを採った。
「凍えろ」
 そうだ。全ての量子も、物質も静寂の内に呑み込まれるが良い。そこまで痛みを求め、代わりに背負うなら凍死なんて軽いものだろう。
 弟は一瞬にして氷漬けになった。
 だが、それも一瞬だけ。
 煌々と燃える聖霊の炎が弟から発せられていた。それはこの地帯にありえない現象を引き起こす。
 虚無の地に灯りが点る様に瞬く間に氷結地獄を照らす。薄暗いこの地に暖かな陽光が差し込む。
 余は瞬時に周囲を侵食させ始める。放射能を好む生き物がいる様に神の炎を養分としている闇も又存在するのだ。暖気を奪い取り、ミカエルを包み込んでいく。
 だが、光を好む闇もいれば闇を好む光も存在するのも必定。
 瞬く間に闇は蝕られ、光が更に強大な陽光として輝く。


       *


「俺はたまに本気でお前が何考えているか判らん。あいつ程じゃねえけどな」
 ウリエルが真顔で語る。それにはいささか不快な感情、と言うより怒りが伴っていた。
「何よ。良いじゃない」
 私は先頭に立って暗い回廊を渡る。奇妙な回廊だ。陰湿な黒にも感じるし、無機質な白にも感じ取れる。外から差し込む僅かな氷柱の反射によって不気味な黄色にも感じる。
 なる程ねえ、陰湿なあいつらのやりそうなことだわ。こうやって地獄に墜ちてくる人々に不安感や差別感を持たせそうな風景を造り出す。氷の中に閉じ込められた人々は瞼を閉じることすら許されず、この嫌な景色を延々と見続けなければならない。
 それにしても随分と人の気配の少ない所だ。警備もざる同然で易々と侵入出来た。
或いは。
「誘われているかのどちらかよね」
 私が呟くとラファエルが辺りを見回して感想を語る。
「あまり油断しない方が良いかも知れませんね」
 皆が一様に彼を見遣る。彼は至極冷静に防御に専門家として見解を語り始めた。
「この城は不安感を与える以上に巧妙に要所要所に結界が張られています。しかも侵入者を拒んでいない。逆に奥の間に行く程に脱出は困難を極めるものになっています」
 私は首を傾げた。
「不思議ねえ? 何でそんな造りにしたのかしら?」
「設計者の趣味と言ってしまえばそれまでですが……案外サタンはこういった事態も想定して城を作成したとも考えられますね」
 まさか。ただミカエルを捕らえて逃がさない為だけにわざわざこんな設計にしたの? でも、あの魔王ならやりかねないか。
「うん?」
 何だか妙だ。自分が身を隠して進んでいる。身を隠す為に石柱に隠れている訳だけど、何だか変だ。
「何だか最近造られた様子ね」
 ウリエルが凝視して呟く。
「あの野郎、こんな趣味わりぃもん造ってやがった」
「まさか」
 私達は眼を合わせ、この石柱を凝視する。


       *


「光は闇なくして成り立たずだな」
 弟が放つ光を触媒にして余が闇を拡大すれば、弟もまた闇を触媒にして光を強める。
「だが、この地の制圧が目的ではあるまい」
 そう、これは共鳴現象に近い。同じ素体を探し出そうとする検索機能だ。人間が言語や五感で近い類縁種探そうとする行為に近い。それが人間の愚かなところでもある。遺伝子に組み込まれた量子機械による遺伝子による情報交換が可能になったのにも関わらず、倫理規範はそれを防いだ。我々にとってはそんな原始的な方法さえ禁則事項とする人間の愚かさに嘲笑いが止まらない。今弟がしているのはそれよりももっと原理的に単純だが、より高次元のことをやっている。それもまた皮肉だな。人間より高次元の存在なのにも関わらず基礎的技術で物事を推し進める。それがこの天使の愚かさであり、愛らしさでもあり、高潔さでもあるのだ。
「神の愚かさは天使の愚かさに勝るであろう。しかし、その愚かさを以って救いを成し遂げようこと自体が愚かしい」
 本当に愚かだ。誰も彼も見捨てることが出来ずにいることの出来ない弱さなぞ何の価値があろうか? そんなものに何の意味もない。
「果たしてそうかしら?」
 背後から声が聞こえた。ガブリエル達の到着か。少し振り向くと彼女らは石柱を抱えていた。
「ほう、見つけられたのか」
 少しだけミカエルのお仲間とやらに感心する。副大天使長の座を務めているだけある。
 ミカエルがホッとした様子で彼女に語りかける。
「良かった。見つけてくれたんだね」
「ええ」
 彼女が頷くとウリエルが石柱を砕く。中から出て来たのはエルダー夫妻だった。彼らは氷漬けになっており、霊の活動能力が著しく低下しており、青ざめた様子で眠りに就いていた。
ここにきた当初は拷問を受けながらここ百年間の人間共に救いを述べ伝えていた。こやつらはどんなに苦しかろうが「最期は皆救われるのです。ルシファーよ、あなたがたも例外ではない」と告白してくるのだ。それは皮肉にも在りし日に弟が夢見た狂想だった。
 癪に障ったのでここ数年は石柱にして閉じ込めておいたのだ。
 弟はエルダーの許に駆けつけ、神の炎で暖めた。見る見る間に死に掛けの霊が聖気を取り戻していく。
「みんな、ありがとう」
 ミカエルはそう言い、己に向き合う。そして、この子は言った。
「兄様、あなたの成すべきことを成して下さい」
 百年分の苦痛を、と言う意味だろう。
「判らんな。お前の『家族』である者達の婚姻式には是非出席したいと言うお前の気持ちが解らんよ。何故あんな無価値な者達に愛を注ぐ?」
 弟は優しく微笑んで諭した。
「愛するのに理由なんていりませんよ。兄様が僕を愛してくれている様に僕も『家族』を愛するだけです」
「その為なら百年分の凝縮された苦痛を受けることを厭わないのか?」
 弟ははにかんで無言の内に肯定した。つくづく狂っている。その狂気染みた愛こそかつての余の求めていたものには他ならないのだが。
「そうか、なら」
 余はこの子の頭に手を翳し、唱える。魔王の按手礼だ。
「刹那に地獄を味わうが善い」


 弟達が帰った後、余は暗き大獄堂で佇んでいた。神なき聖堂、即ち獄堂だ。
「あなた様がこれを御造りになった理由が良く解りませんな」
 ベリアルが背後から跪いて答える。その傍らに控えるアスモデウスが同じく跪いて訊ねる。
「盟主、いかがでしたでしょうか? この百年の成果は?」
 己は一本の長い白い髪の毛を二人に見せてやる。「おお」と言う感嘆が二人から漏れ出た。百億以上の魂を引き換えにもした訳だが、上出来な方だろう。
 これは我ら悪魔にとっても下等な人間にとっても宝だとすぐ判る。この美しい白く輝く絹の様な糸が神の秘密に迫りうる様々な膨大な情報量の欠片が入っている。
 人間共よ、お前達が今回の戦いで死者を出さず終えたのを奇跡だと讃え、神を讃美する方向に戻っていくだろう。
 だが、お前達の今回の戦争は茶番だ。現実的な闘争は心を磨耗させ、多くの屍を造り出す。お前達はこの現実を無視し、ただ理想の在り方にのみ帰結した。世界は再び歪むであろう。人間の他ならぬ不合理さによって。勝利したと思えば敗北している。実に奇妙な『神のパラドックス』だ。
 人間よ、勝利と思い込んでいる敗北の時代を精々謳歌しろ。又、暗黒の時代が到来する間の短い平和だ。ささやかな勝利を盛大な祝杯で喜び祝うが良い。次の暗黒時代はもうすぐだ。
 今回は果たしてどちらが勝利者だったろうか?

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