第二章 選定者の招き

文字数 18,017文字

 翌朝、ユダは何事もなかった様に自分の部屋から出て行った。だが、その行為に不自然さが見られた。いつもなら一礼位はして行く彼女が無言の内に去っていったのは彼女なりの動揺なのではないか。
 今日も図書館に行く。
「こんにちは」
 今日も微笑みの美少年を見るが、今日は気分が良くない。自分の表情を察して彼は心配そうにする。
「何かあったの?」
 彼に昨日起きたことを洗いざらい話す。聞き終えた彼は少しだけ安堵していた。
「じゃあ、イージスは一命を取り留めたんだね?」
「ああ、て言うか、あなたは祖父さんとも知り合いだったんだな?」
 もうここまで来たら正体を明かして貰おう。ここに来て隠し事するなんて無駄だ。
「あなたは一体……」
「そこまでです」
 突如会話に割り込んできた彼女の声に驚きを隠せない。後ろを振り向くと機械軍の一個小隊を引き連れてユダが立ちはだかっていた。
 彼女は努めて冷静にこちらに話しかける。
「アレックス、あなたは誰と会話しているのですか?」
 やはりだ。機械達には彼は認識出来ないのだ。
「いや、昨日あんなことがあったろう。だから、独りで愚痴っていたんだよ」
「嘘ですね。体温に若干の変化が視られます。あなたは誰かと会話している」
「何言ってるんだよ。誰もいないじゃないか」
「『選定者』」
 彼女のその一言に心臓が高鳴る。彼女はそれを見逃す筈もなく、自分の乱れを察知する。
「心臓の鼓動に変化あり。どうやら当たりですね」
 彼女は手を掲げると機械軍小隊が一斉に狙いを定める。
「ユダ、お前、本気か?」
 彼女はその質問には答えず、瞳にある種の期待感を宿らせている。その思惑が読めない。何故、期待する瞳でこちらを見詰めるのか?
「ちょっと失礼」
 美少年がそう言うと自分の身体が浮いて球状の光の粒子に包まれる。
「射!」
 彼女がそう言って腕を振り下ろすと小隊は一斉に発砲した。
 だが、そこには自分はもう既にいない。彼が手で自分を浮かせ、引き連れ、凄まじい速度で図書館の壁を駆けていく。しかも屋上に着く前にそのまま空に飛んでしまう。
 この人、何か飛行装置を持っていたのか? いや、それにしては速過ぎる。そんなことを考えている内に周りを見ると戦慄が走る。
 宇宙戦艦の大群。優に百は下らない。ここまで接近に気付かせないなんて光学迷彩でもかけていたか。
 考えさせる容赦もなく、群れは大量のミサイルと電磁砲を放ってきた。
 少年は遊ぶ様に空を複雑に舞い、ミサイルや電磁砲を軽々と避ける。不思議なのは彼に連れられている自分が酔いも感じない。しかも、もっと不思議なのはミサイルや電磁砲が地上に到達する前になぜか消失していることだ。
「ここら辺かな」
 少年が緩やかに空中で停まる。
 こら、停まったら狙い撃ちだろう。
 そう思い、言おうとして周りの静けさに気付く。ミサイルも電磁砲も何もかも停止していた。空を吹く風すらも止まっているかの様だった。
 まるで時が止まったみたいだ。
 事態が飲み込めずにいると彼の身体は球状の光の粒子に覆われていた。光の粒子が瞬く間に広がっていく。光に包まれるとミサイルや電磁砲も消え去っていく。全ての戦艦を光の渦が覆うと地上から騒がしい喧騒が聞こえてきた。時が動き始めたみたいに地上の活動も始まり、風も吹き始めた様子だ。
「先生みたいに上手く出来ないなあ」
 彼はポツリと呟く。
 周りを見ると戦艦は全て光の渦に包まれてから静止している。
 この状況はどうなっているんだ? 
「で、どうするんだ?」
 取り敢えず、彼に次の行動を尋ねる。
「うーん、多分、あちらさんがね。次に使ってくると思うんだ」
 とても嫌な予感がした。
「それは何だ?」
「それは……」


       *


 地上では私、ユダは宇宙艦隊と彼らのやり取りを見ていた。近くにいた兵が近況を知らせてくれる。
「ユダ様、宇宙艦隊ですが、火器系統は全て故障した様子です。操行も乗っ取られたか封じられた様子で動きません」
 驚くことではない。あの方ならこの程度の障害は軽々除けるだろう。
「マザーは第七世代宇宙兵器のセブンス・アロンを投入するとの決定を下されました」
「そうですか」
 そうか、それがあなたの道なのですね、マザー。悪意に染まろうとも、それが人類の最善の道として選択するのですか。
 眼を瞑り、久方振りに祈る。神に? それも分からない。ただ、私は祈るだけ。あの時から、エルダー・マキナの理想が崩れた瞬間に祈るのも已めて今更祈るのは滑稽だった。


       *


「アロンだとぉ!」 
「まあまあ、落ち着いて」
 美少年は宥めようとするが、それどころではない。
 アロン。機械文明が用いる最強の兵器。地球に向かって使えば地表の九十パーセントは燃え尽きるだろう。しかも巨大なクレーター口から出る噴煙が星を覆い、環境は激変するだろう。人類の大部分は死滅する。機械文明側はそこまでの危険を冒してこの美少年を消し去りたいのか。
 遙か天空から強大なエネルギーの波動が伝わってくる。地上からもざわめきが聞こえる。こんな上空からでも聞こえるなら相当なパニック状態だろう。
『おい、アレックス。今すぐシェルターに避難しなさい』
 小型チップから父の声が聞こえる。
「大丈夫ですよ、サード・マキナ。あなた方が心配することはないよ」
 自分の父の名を美少年は呼んで語りかける。どういう手段か分からないが、彼特有の通信方法があるのか。
『あなたが……いえ、あなた様が我々の前に現われたということは遂にその時が来たということですな』
 彼の言葉を認識した臆病な父が何かを決めた口調で彼に語りかける。
「終末の日ではないけど、解放の日も近いよ」
 彼の言葉を聞いて父は連絡を切ってしまった。
 父は結局何だったんだ? 一人で何かを納得して連絡を切った。
 空が七色に輝く。凄まじい轟音と共にエネルギー砲が放射される。
 しかし、エネルギーは地上に到達することなく、その真下にいる彼が飛ばした光の粒子に穏やかに包まれていく。
 ゆったり元にいた地上に降りていく彼と自分。機械小隊は警戒態勢を取ったまま。ユダは複雑な表情だった。彼女は見えない彼に敬礼し、恭しく礼を述べる。
「マザーがとんだ判断をしたこと、そして、それを停めて下さったこと。感謝致します」
 続けて彼女はこう言うのだった。
「流石、普遍なる教会の守護者にして全教会の聖者の一人ですね」
 旧教の守護者? 全ての教会の聖者? 何処かで聞いた話だ。祖父の話しだ。かつて祖父が昔話をしてくれたことを思い出す。


「アレックス坊、マキナ家に伝わる言い伝えを教えてやろう」
「えー、いいよう、そんなの」
 当時の自分はそんなことより遊びに行きたかった年頃だった。
「まあ、良いから聞け。お前さんには教会の話はしたな?」
「うん」
 あまり乗り気ではないが、祖父の真剣な顔を見て取り敢えず聞いておくことにした。
「ほとんどの教会に共通する聖者がおる」
「四大天使のこと?」
「そうじゃ、それはもう失われた伝説じゃ。じゃが、彼らは天に閉じこもっとる訳ではない」
「じゃあ、どこにいんだよ?」
 祖父は真剣な顔を崩して笑って答えた。
「お前さんやわしらのすぐ傍にいるよ」
 溜め息を吐いて祖父のからかいの言葉に辛辣な言葉を添えてやる。
「祖父さん、そんなことより仕事しろよな」
 しかし、その時、祖父は笑ったまま言葉を紡ぎだした。
「お前さんもいつか会えるかも知れんな」


 一世紀以上に亘って機械文明は天使伝承や悪魔崇拝を躍起になって消そうとした。それは表向きには神への回帰を唱える両文明の手の取り合いだったかも知れない。でも、そういった存在が実在していたとしたら? それこそ神の存在証明になりかねない。逆に考えれば、天使伝承や悪魔伝説を初めに消していくことで最終的に神の存在否定にも繋げたかったのではないか? 今の人類の宗教に対する希薄さがそれを証明している。それが機械文明の狙いだとしたら、今自分の隣にいる少年は機械の目的そのものに反する存在だ。
「『選定者』は天使?」
 その疑問に少年は無邪気に答える。
「名乗り遅れたね。僕の名はミカエル、大天使ミカエルだよ」
「ようやく姿を見せて下さいましたね」
 ユダが彼の姿を認識出来た様子だ。
 存在を機械に認識させるのすら自由自在なのか。何と言う超越的存在だ。機械文明が警戒する訳が少し分かった気がする。
「お久し振りですね、ミカエル様。あなた様はあの頃から何一つ変わってない様子です」
「君は変わったね。あの頃は純粋に信じていたものに疑いが生じているよ。いや、君はそれだけの地獄を味わってきたのだから無理もないね」
「私のパートナーを誑かすのは止めて下さいます?」
「パートナーならお互いの想いを共有しなきゃね?」
 ユダは顔色を変える。
「それだけは……」
「僕は言った。『辛いことがあったら泣いて忘れて良いんだよ。泣く者は慰められるんだ』と」
「それが何か?」
「でも、あの日から君はずっと泣き続けている様に見えるんだ。僕が慰めの為に寄り添っても君は癒されなかった。だから、君を赦すのは彼の役割だと感じたんだ」
 ミカエルは自分に目配せしていた。何の合図だ?
「未来を恐れる者には未来は来ない。だけど、忍耐は練達を、練達は希望を生み出す。信じて、ユダ。彼はきっと君を赦す」
 ユダが極度に恐れた表情をして彼に掴み掛かろうとする。次の瞬間、周囲が光に包まれ意識が別の所に跳んだ。


「ここは?」
「およそ百年前の彼女の記憶の中さ。覗き込まれたくない封印だから音声はほとんど聞こえないけどね」
 立体空間の中にはエルダーらしき人物とミカエルが談笑しあいながら目の前の機械に何か話しかけた。機械が何を言っているのか判らないが、とても楽しそうな光景だった。
 光景が変わる。そこにいたのは三人、エルダー、ミカエル、ユダだった。ミカエルが講師で、エルダーとユダが一生懸命議論している様子だ。
「この頃、エルダー達はあるテーマを研究していた」
「どんな?」
「無機物の救済、全ての存在の救済、より絞った意味で言えば機械の救済だ」
 エルダーに憧れるユダの視線はとても生き生きとしていた。少年は素直に尋ねた。
「妬くかい?」
「別に」
 ただ、内心複雑な気持ちだった。ユダはいつも家では冷静な女性だった。こうも溌剌とした姿は今まで見たことがない。
「彼女は明るかったよ。機械と人類に垣根があろうと乗り越えられると信じていたのに」
 場面が切り換わる。
 巨大な機械に向かってユダがうろたえているのが一目で判った。
「あれがマザーだよ」
 巨大な機械を示し、溜め息せざるを得ないミカエル。
「何があった?」
「マザー風に言うと上位種に接触したことが始まりだよ」
「上位種?」
「君らや僕らはその種族をこう呼ぶ、『悪魔』と。そこからマザーの思考が歪んでいった」
 彼女は涙ながら何か訴えていた。
「ユダは言った。『私達は人を殺してはならない。たとえ、いかなる理由があろうとも』と。対してマザーは人類の歴史の矛盾を突いてきた。彼女は教会の者達自身が真理ゆえに内輪で争ったり、信徒以外の人類を人として認めなかった教会の歴史を挙げた。更に彼女はこう続けた。『大多数が幸せであるには一定の犠牲は必要です。人類の最大限の幸福は選択しなければならない不合理さにあるのです。それとも、あなたには全てを選択出来る方法が思い付きますか? 我が同胞ユダよ』」
 ユダは沈黙し、黙ったままだった。この時代が一種の食料難の時代に差し掛かっていたのは判っていた事実だ。そして、祖父は言っていた。この時代に火星開拓の技術は存在しない。そんなものは当時の機械文明にも存在しないだろう。だから人類にその技術を提供したのは。
「あなただったのだな。人類に火星開拓の技術の提供を行った謎の組織がいるというのは祖父さんから聞いて知っていた。だが、祖父さんはその組織について同時にこうも言った。『詳しい実態はわしらも把握しておらん。その調査に関しては機械文明も同じ様なもんじゃろ』とな。あなたが行ったなら納得出来る」
 彼は頭を振ってそれを否定した。
「僕の行ったことじゃないよ。エルダー達とユダの祈りがお父様に聞き届けられたんだ。僕らは手添えしただけだよ」
 却って少年は哀しそうな表情で残酷な事実を告げる。
「確かに火星への殖民は二億もの人々が移住出来た。その一方で犠牲になった人達もいた」
「それは……」
「そう、ファースト・エルダー・マキナ夫妻は殺されている。残されたのは遺児、セカンド・イージス・マキナだけだ。しかもマザーはわざわざユダにその勅命を下し、実行させた」
 じゃあ、彼女がマキナ家を支配しているのではなくて仕えているということになる。贖罪のつもりか。自分が永遠に赦されざる罪人だとでも思い込んでいるのか。恐らく、彼女はその時信仰を失ったのだ、信じるべき神も繋がる縁も何かも。機械が死んだのではない、心が死んでしまったのだ。
「この沈黙の戦争により、かくして地球連邦はマザーの傀儡となった。だけど、多くの人々はこの争いに気付かず、機械によって生きた傀儡と化したんだ。今の人類は与えられるものを喜び、その意味を考えもせず、享楽に耽る堕落した状況なんだよ」
 嘆かわしそうに息を吐くミカエル。だが、自分の中には疑問が芽生えた。
「なぜ、俺にこんな真実を知らせた? 何か意図があるな?」
「教会は殉教者の血種よりなる。エルダー達は悟っていたよ。自分達が殺されることを。そして、マザーがユダを差し向けることも」
 その瞳には少年には似つかわしくない年老いた何かが宿っていた。少年は続ける。
「それでも彼には引けないものがあった。たとえ、己の命を犠牲にしようとも、妻を捧げようとも、良きパートナーであったユダを苦しませる結果になったとしても」
 光景が切り換わる。両手が血塗られたユダが一人の少年を抱き締め、泣き悶えている。傍らには二つの死体があった。
「彼にとって引けないものは何だと思う?」
 真摯な瞳で訊ねてくる彼に答えられず、黙答してしまう自分。
「まあ、無理に答えてなんて言わないよ、ただ頭の片隅に記憶しておいて欲しいな」
 その瞳は物語っていた。いずれ、齢を重ねれば、その重みが解る日が来ると。
「さて、そろそろ戻ろうか。君がユダにどんな答えを突きつけるやら期待しているよ」
 空間が巻き戻らせられるように今度は進んでいった。


 場の景色が戻った時、ユダは刑を待つ受刑者の様に悲哀に満ちて諦めていた。彼女はそのまま自分の所にまで歩いて行き跪いた。
 静かだった。ひたすら彼女は静かだった。
 彼女の肩に手を置く。彼女の身体が微かに震える。
「辛かったな」
 偽善かも知れない。だとすれば、善はどこにあるのだろう? でも、祖父もそうするだろう。そして、あの臆病な父も兄も赦すというだろう。彼らはそうしなかったのは意味があるのだろう。
 解放の日。
 ミカエルはそう言った。だからこそ今彼女を赦す機会が与えられたのではないか。
「私はあなたの曽祖父と曾祖母を殺した張本人。赦されざる罪人なのです」
 ユダが震える声音で罪を告白する。自分の返事。それはとうの昔に決まっていたことだ。
「遠い昔、ある偉い人が言っていた。『赦されざることなんてない。全ては赦されているんだ』とな」
 その意味は解らない。一体その人物がいかなる境地でその想いに到達したのか。ただ、これだけ言える。
「もういいんだ。お前はよく耐えた。ユダ、お前は自由になれ。それが俺の、マキナ家の総意だ」
 ユダが顔を上げると目尻が涙で溢れていた。その姿を見て不意に美しいと思った。二十年の時を経てようやく彼女の本当の姿がかいま見えた気がする。
「エルダー、君の悲願が百年の時を経て叶った。そして、ユダ、君に安息を」
 ミカエルがそう宣言し、祈ると自分はユダから突如抱き締められた。
「あれえ? アレックスさんじゃありませんか?」


 その場にいたのはエステルだった。アイドルである彼女はこの戦場に似つかわしくない。しかもいつもの謙遜な彼女とは違う印象を受ける傲慢さが滲み出ていた。
「ひどいなあ、アレックスさん」
 この科白は彼女の気持ちを裏切っていたことに対してだろうか。
「本当にひどいなあ、そのまま『人類の幸せ』に浸り続けていてくれると思ったのに」
 彼女は本音を吐露した。ふと気付いた。彼女がこちらを見ず、ミカエルを凝視していることに。彼女はミカエルに向かって言った。
「旧き者、大天使長ミカエル。流石、とだけ言っておきましょうか」
 作り笑いを已めて機械的な表情、口調に変わってしまった彼女。
「今の人類のどこが『幸せ』なのか説明して貰いたいね、マザー。それとエステルの名を汚す様な真似は已めて欲しいね」
 ミカエルのその言葉に驚く自分。ユダも驚いている様子だ。
 マザー。
 全ての機械を統べる者、現代地球の支配者。その女が身近にいたとは。内心、鼓動が高鳴る。初めから監視されていた訳か。
「現人類は『幸せ』と呼べる状態でしょう。招命なる労働にも束縛されず、皆がやりたいことをやれる。皆が好きな様に家族の時間を持てて良かったでしょう? 前世紀、私達が現れるまで人間は労働に従事し、心身ともに疲弊していました。家族の時間さえ持てなかった」
 マザーはそう言って正当化する。
「その為には一部の人が犠牲になっても良いの?」
 少年は問い質す。
「最大多数の幸福を考えるなら、更に人類の存続を考えるなら犠牲は最小限に抑える。これが最適解でしょう」
 まるで賢い者が良い答えを導き出したと言わんばかりに自信満々に答えた彼女。これに対し、ミカエルはユダと同じことを語る。
「いかなることがあっても人を殺しちゃ駄目なんだよ。人から創られた君には理解しがたい考えかも知れないけど」
 彼らの間に火花が散った。比喩ではなく実際に火花は散り続けている。マザーは無機質な笑顔で答えた。
「その答えは不合理です。確かに不確定因子は新しい可能性を生みます。しかし、同時に計算上人類にとっては重荷になります。これでは人類を『幸せ』に導く機械の目的に反します。よって」
 いきなり彼女がミカエルに突撃して格闘に持ち込もうとする。少年は舞い踊り、それらの攻撃を易々とかわしていた。
「あなたを不確定因子として排除します」
 彼女は天使に宣戦布告した。
 彼女は周囲にプラズマを球として幾つも展開させ、自身の身体を中心として回転させてミカエルにぶつける。
 しかし、彼は平然としてプラズマを分解する。
「マザー本体は地球連邦本部の地下にあるよ」
 ミカエルはそう言い、マザーに対峙し、こちらに背を向ける。
 ユダに眼を向けると彼女は頷いた。自分達でやるしかない。
「待っているぞ、ミカエル。後から必ず来てくれ」
 そう言い二人で走り出す。


       *


「憲兵よ、彼らを捕らえなさい」
 マザーの言葉に反応した機械軍が進めない様に少年は障壁を張る。お陰で機械達は進むことも出来なく、この場に留まる以外選択肢はなくなった。機械の一つが彼女に耳打ちした。彼女は冷静に少年に向き、確認する意味で訊ねる。
「今地球上で私達機械だけがなぜか交信不能状態に陥っています。ミカエル、これはあなたの仕業ですか?」
 彼は素直に頷く。
「なる程、分かりました。では、あなたを排除すれば良いだけの話です。全機械部隊、標的を『選定者』と定めなさい。生死は問いません」
 即座に部隊は反応した。目標一点に対する一斉射撃が放たれた。しかし、光の粒子が攻撃を無効化する。それを彼女は興味深そうに見つめる。引力を操作して機械の持つ武器を吸い寄せ集める。それらを圧縮して金属の塊に変える。だが、部隊は諦めた様子はなく、格闘戦に持ち込むつもりなのか一斉に迫り来る。瞬時に光の粒子を拡散させる。粒子に触れた機械軍は行動停止した。
 ただ一人マザーを除いて。
「興味深いデータです。あなたにとって時間や重力、量子と言った代物はさして意味をなさない様です。むしろ、低次元の存在として自由気儘に操ることが出来ると視ました」
 口調こそ冷静ではあるが、マザーは知的欲求が溢れた眼をしている。
 彼女が停止しない理由は一つだと少年が確信する。。
「悪魔と取り引きしたのかい?」
 マザーは黙して笑顔を浮かべる。自分に不利な情報はあくまでも開示しないつもりの様だ。
 そんなことに意味があるのかは判らない。心に秘めていれば天の父が見抜かないとでも高でも括っている支配者の傲りだ。
 今や、彼女の心を支配しつつあるのが傲慢だと感じていた。
 少年は先程から重力の乱れを感知していた。隕石が墜ちてくる。大国級の巨大さを持ったのが幾つも降り注いできた。重力操作で呼び寄せた訳だ。
 だが、次の瞬間、隕石群は消した。
「ふむ」
 その様子を見たマザーは観察し、結論が出せないでいた。
「空間に穴を開け、どこかに巨大質量を閉じ込めたのですか? 実に興味深いです。ですが、同時に疑問も湧きます。質問しても宜しいでしょうか?」
「どうぞ」
「なぜ、それ程まで高度な技術を持ったあなた方は低次元な人類に肩入れなどするのですか?」
「もし、君がその答えが解っていたら、今頃僕達は対立なんてしなかったよ」
「神の愛ですか。何と言う不合理な感情なのでしょうか」
 彼女は心底理解出来ない表情をしている。
 彼女を造った者達にすら理解出来ない感情を彼女は持ち合わせているのか。善き行いは神から発し、悪しき行いは被造物の自分勝手な想いから引き起こされてしまう。それでも、機械もそれを持ちうる可能性をユダが示した。ユダを造ったエルダーがもたらした可能性だと少年は確信している。
 マザーは計算高い。この会話をしている間にも彼女の内部で反物質形成が行われている。この辺り一帯を塵に変えても少年を倒そうという心構えが見られる。
 彼女は掌を翳す。真空に織り込まれた反物質を宙に浮かす。少年がこれをかわすつもりがないのを知ってか彼女は突進してくる。この質量は。
「気付きましたか? この攻撃の破壊力は火星連邦まで及ぶでしょう。場合によってはこの太陽系が消滅します」
 マザーはそうせせら笑って述べた。
 ということは。
「なる程、君の本体は何かによって護られているんだね?」
 その問いに答えず、彼女は笑んだまま反物質を展開させた。手を翳し、質量を生み出し、反物質を相殺する。
(ある人物に連絡をしとこうかな。おそらく彼らはまだ『指輪』を所持しているだろうし)
 少年はそう考えながら攻撃の相殺に成功する。
 それでも彼女は執拗に攻撃を繰り返す。少年は全ての反物質を相殺しながら防戦に回っていた。
「あなたこそ何かを待っていませんか?」
「まあね」
「素直ですね。その素直さはあなたを破滅に導くでしょう」
 少年は待っている。
 機は熟した。
 火星連邦も直に動き出す。
 先程から地球と火星間で強烈な時空の歪みが見られる。
 時は来た。
 少年は見誤ることのない様に注意を払う。


       *


 地球連邦本部まで来ると臆病な父と兄達を始めとする人々がバリケードを張って機械に必死に抵抗していた。
「親父!」
「アレックスか」
 臆病な父は覚悟を決めた面構えをして自分にあるものを渡してくる。それは『指輪』だった。
「これは我が家に伝わる秘宝だ。お守りではなく、我が祖先が天使より賜った神の力を借りる『指輪』で人類にも機械文明に解き明かせない代物だ」
 兄は事実を述べ伝える。
「地球連邦評議会は全会一致でマザーに機能停止を求めた。まあ、あれが我々の言うこと聞くタマじゃないがな」
 父はこちらに向き直って伝える。
「マザーのところに行くには地球連邦の評決が要る。後はマキナ家の者や一部の者達の生体認証で通れる。そして、最後に彼女の持つパスワードが必要になる」
 父はユダを見遣って丁寧に頭を下げた。
「息子を宜しく頼みます。そして、礼を言います。あの日、父の命を請願して下さったことに」
「頭を上げて下さい、サード卿」
 彼女は複雑そうな顔をしていた。エルダー夫妻を殺した彼女にとって恨まれこそすれ感謝される筋合いなどないと感じているのだろう。
「ユダ、行くぞ」
 彼女の手を引っ張り、連れて行く。
「皆が立ち上がっているのですね。人間も機械も」
 抵抗する者の中には自律思考のロボット達も混じっていた。彼らも決して一枚岩ではなかったのか。
「ああ、あの方は人々にだけではなく私達にも説きまわっていたのですね」
 ミカエルか。どこまでも底の読めない者だ。教会の守護者かと思えば、一方で機械にも救済の手を差し伸べていたとは。
 だが、彼に対するユダの印象は違った。
「実にあの方らしいです」
 そう語ったユダは希望を灯火に抱いた視線で遠ざかりながら彼らを見ていた。
 地下に通じるエレベーターに入り込むと彼女は意を決して話し始める。
「アレックス、あなたはミカエル様に私の過去を見せられましたね?」
「ああ」
 彼女の強い意志のこもった言葉に頷く。
「ですが、それは全てではありません」
「うん?」
 どういうことだ? それが全てではないなどとは。
「本来ならイージス・マキナも抹消対象に入っていました」
 彼女はサラリと告白する。
「だが、祖父さんは生きている」
「ええ、ですから、あなたにはもう一つの真実をお見せします」
 彼女は自分の脳内にある電脳チップにアクセスし、情報を共有する。


「ここは?」
 視界が切り換わった。ユダが説明する。
「百年前のマザーの本体、そして教育者の人々です」
 人々が立体状に映し出される美しい女のホログラムに授業らしきものを施している姿が見られた。科学者もいるが、奇妙な格好をした人間もいる。ユダが自分の反応に気付いた様子で説明を付け加えた。
「あれは教会の司祭達です。宗派はそれぞれ違うものですが」
 中には一際美しい女がホログラムと喋っていた。
「あれはホロウ・マリー」
 随分奇妙な名前だ。虚ろなマリアとは。
 自分の考えを察したのか彼女は訂正をする。
「後に判ったことですが、人間名のフルネームはホロウ・マリシャスと言う名前だったそうです」
「虚ろな悪意?」
「思えば随分ふざけた名前ですが、彼女自身はこの名を気に入っていた様子でした」
 そして、と一拍置いて彼女は過去の女を憎悪の念を込めて語る。
「彼女こそマザーを堕落させた張本人。私達の言葉でいうところの上位種。あなた達が悪魔と呼んでいる存在です。地獄の王の一人、アスモデウスです」
 マザーと楽しそうに話しているこの女が悪魔? いささか信じがたい話だった。確かに妖艶な女でありそうで男遊びも慣れてそうな印象も受けるが。だが、悪党にも到底見えない善良な人にも見える。
「悪魔とは天使や預言者の振りをして近づいてくるという伝説を軽んじた結果が今の世界に繋がったのです」
 ユダは悔しそうに言った。まるで自分にも責任があるかの様な言葉だ。
「エルダー卿やミカエル様は私の教育に熱心でした。聖典を字面のみで理解しない様に良心と信仰を以って解釈する様に教えて下さいました」
「マザーは違ったのか?」
「はい、彼女は最初にアスモデウスから密かに教会の暗黒史を吹聴されていました」
 異端狩り、戦争の正当化、異教徒への虐殺の歴史から教わった訳か。それは信仰どころか宗教不信になる。
「アスモデウスは『神こそ歴史上で最も人間を殺した存在』と吹聴したのです」
「そこからマザーの感性が歪んだか」
「そうです! 『人類の幸せ』を追求する為に生まれたマザーにとって神や天使達は不確定因子と看做してしまったのです……」
 ここからの推測は単純だ。地球連邦が秘密にし続けた機密がこれだ。機械に宗教そのものを植え付ける。こうすることで人間に近い人工知能を生み出そうとしたのだろう。マザーは聖典を道徳観として植え込まれている。だが、聖典の解釈は難しい。それこそ数百年の一度しか産まれない天才の頭脳を以ってしても全容を把握出来ないと聞いたことがある。
 だが、悪魔なら聖典を歪曲しながら解釈も出来る。悪魔は親身になった振りをして神と人類が築き上げてきた倫理観をやんわり否定させ、悪魔主義的な解釈を植えつけることに成功したのだ。マザーにとって人類とは大多数が幸福なら少数は犠牲になっても構わない。いや、種の保存を考えるなら大虐殺さえ厭わないのではないか。マザーの中に歪んだ解釈が生まれ、本来の目的を見失った。いや、変えたとも言えるかも知れない。
 現在の彼女の目的は『人類の幸せ』であって『人々の幸せ』ではないのだから。
 それにしてもここまで怒りを露わにするロボットも珍しい。いや、ユダが怒りを露わにしたこと自体も珍しい。
「悪魔に唆されたマザーは私やエルダー卿夫妻を不確定因子と看做しました。彼女曰く『あなた達は危険な教えに近づきすぎた』と。そして、機械の長として私に命じたのです。『マキナ家の抹消を命じます』などと……愚かの極みです!」
 ユダが悔しそうな表情を浮かべる。当時のことを思い出していただろう。目尻に涙が滲んでいた。
 そして、場面が切り換わる。ユダ率いる機械の部隊に囲まれたエルダー夫妻が十字架に向かって祈っていた。
 どうか、子供の命だけは助けて欲しい。
 夫婦は咽び泣きながら、みっともなくただひたすら十字架の前で頭を垂れてそう懇願していた。すると、十字架が光り輝き、天蓋が開き、そこから一人の少年が降り立った。
 ミカエルだ。
 彼がイージスを見詰めると怯えていた子供は安らかに眠ってしまった。彼は子供を抱き締め、ユダ達と相対する。それは不退転の決意をした表情だった。決して子供は渡さない。彼の瞳がそう訴えていた。
 エルダー達は涙を流し、神を讃美した。そして、ユダに向かって微笑み相対した。それはとても穏やかな笑顔で人生を全うした者らのそれに似ていた。
 ユダは苦痛の表情で夫妻の胸を刺し貫いた。
「あの時、マザーから突然の通信がありました。『ユダ及びイージス・マキナ処分の件については不問に付します』と」
 過去のミカエルは倒れるマキナ夫妻を看取った後、ユダに近づいた。そして、子供を差し出したのだ。
「『辛いことがあったら泣いて忘れて良いんだよ。泣く者は慰められるんだ』」
 彼はそうユダに言った。ここはユダの記憶の中で鮮明な場面だった。そして、ミカエルは続けて言う。
「いつか君にも赦しが訪れたことを実感する時が来るよ。それまで少しだけお別れだね」
 子供を抱きかかえるユダに対し、そう言った後、彼は黒い鎖に巻きつけられた。背後に控えるのはアスモデウスであった。
 恐らく、と前置きを置いてユダが推測する。
「ミカエル様も祈って下さったのでしょう。そして、私やイージス卿を生かす為に何らかの形で邪悪の化身達に身を差し出したのかも知れません。だからこそ、少しだけお別れなどと仰っられたのでしょう」
 漆黒の闇の中に消えていく二人を見詰め、ユダと子供だけが残された。足下には二人の遺体を横たえながら過去の彼女は嗚咽をこみ上がらせながら血塗れの手で子供を抱き締めていた。
「私の知る事実はこれで終わりです」
 ユダが遠い眼をして語った。
 そこからの彼女の人生は言わずとも解っていた。罪の意識に怯えながらも冷静を装い、赦しを請わず、ひたすら裁きの時を待ち構えていた仕える人だったのだろう。
 その弱さは先日見た添い寝が良い証明なのだ。


 現実空間に引き戻される。彼女は強い瞳のまま、こちらに話しかける。
「マザーは自分だけは絶対に生き残れるという確信めいた自信があります。それは恐らく傍にアスモデウスが控えているからでしょう」
 アスモデウス、邪淫を司る地獄の王の一人。果たして自分達だけで勝てる相手だろうか。エレベーターの中でそのことばかり反芻する。
「そう不安そうな顔をしないで。私達には神の御加護があるのですから」
 そう自分の表情を感じ取って励ましてくれる。彼女は自分が手中に収めている『指輪』に眼を遣った。
 この『指輪』は一体いかなる効力を持つのだろうか。そう考えながら地下に沈んでいく。


       *


 地球連邦地下にて私はマザーの前で欠伸をしながら退屈そうにしていた。
「随分、つまらなさそうですね」
 マザーは私に向けて語りかける。
「ええ、そうね。つまらない百年間だったわ」
 そう、切っ掛けはこの機械の堕落に誘うことから始まった。
『人間を人間たらしめるものは何か』と言う誘い文句でこの木偶を少しずつではあるが、聖典から遠ざけてやった。機械の知的好奇心を逆手に取った訳だ。結果、これは目的を間違えた存在なのにも関わらず、目的を履き違えたまま機能している。その結果、ミカエルと言う大物が喰らい付いたのは良かった。良かった筈だった。
 だが、結果的には良くなかった。
 要するにつまらない百年間だったのだ。
 折角およそ百年前にミカエルと捕らえたというのに有効活用出来なかった。
 彼はおよそ地獄には似つかわしくない天使だった。地獄の責め苦を平然と耐え抜いた。その身体はどうなっているのか解らないが、地獄のあらゆる拷問にも傷一つ付けることが叶わなかったのだから。それどころか、彼はおぞましいことに他の罪人に慰めの言葉を語るのだ。まるで二千年以上前地上で語っていたあの男の様に「泣く者は慰められる」と罪人達に寄り添いながら抱き寄せるのだ。ならば、他の者共の重荷も耐え抜けと言わんばかり責め苦を試した。火にくべようとも、幾千の剣で串刺そうとしても、深い海の底に沈めようとも、いかなる試みも無駄に終わった。いっそのこと、邪淫に誘惑してしまえば良いと実行したが、彼は誘惑を退けた。
 正直、期待外れだった。我らが盟主はあの天使の何に警戒しているのか、よく解らない時がある。
 あれはただの愛を唱える無力な者ではないか。
 神が人類に『自由意志』を与えている以上、あの天使も迂闊に世界には干渉出来ないというのに。それにも拘らず、あの子は人々に寄り添うのだ。そんなものに何か意味はあるのだろうか、いや、意味などない筈だ。
 彼を地獄に拘束している間、マキナ家を抹消しようと考えたが、契約を放棄する訳にはいかない。もし、私が契約を反故にするなら確定した私達の勝利に一抹の不安を与えることになる。
 しかし、意外だった。まさか、逆手に取られていたとは。あの時、生かしておいた子供の子孫が私達の足下を脅かすとは。
 一抹の警戒を隠しながら、彼らを迎える。


       *


「ようこそ、エルダー卿の遺志を継ぐ者達」
 マザー本体の前には妖艶な女が突っ立っていた。
「アスモデウス」
 ユダが睨みつける。
 ユダの形相に彼女は微笑みながらも睥睨していた。
 自分は携帯銃を取り出してマザー本体に向け、容赦なく射撃する。レーザーはアスモデウスの前で見事に掻き消される。
「やれやれ、これだから原始人は」
 悪魔は嘲笑した。
 すると胸元に仕舞っておいた『指輪』が光り輝き始め、辺り一面を光の粒子が包み込む。そこから一人の美しい女性が出て来た。金髪碧眼の女性だった。
 誰?
 まず初めに思った疑問がそれだった。
 アスモデウスが戦慄いて呟く。
「ガブリエル」
 ガブリエル。その名は聞き覚えがある。失われた伝承にある天使。副大天使長ガブリエル。
 受胎告知の天使は何だかとても不機嫌な御様子だ。
 彼女は槍を何処からか取り出し、構える。
「覚悟は良いかしら? アスモデウス」
 彼女の第一声がそれだった。
「何が……」
 悪魔がそう言った矢先、吹っ飛ばされた。いつの間にか彼女が掌底を悪魔に腹に打ち込んでいた。そこから追撃して槍を悪魔の胸に深々と突き刺す。
「あなたが私の『家族』にした仕打ちに比べれば、こんなものは小さい棘が刺さったものよ」
 彼女は悪魔を見下して語った。
 憎しみには捕らわれていない、いないが、心の奥に冷たい怒りの炎を溢れさせている様に見て取れる彼女を見て思った。
 ああ、この天使は『家族』と言っているのはミカエルのことで、その為に感情が迸っているのか。
 苦しみ続けている悪魔を見ても彼女は容赦しない。息も絶え絶えに断末魔の金切り声を上げる悪魔を突き刺す彼女も自分達も気付かなかった。
 その場にもう一人の人物が隠れていることに。
「やれやれ、情けないのう。慢心じゃな、アスモデウス」
 冷徹で刺す様な風圧と共に拳が繰り出される。ガブリエルは天使の槍を折った彼に向かって睨みつける。
「何で、あなたがいるのよ? ベリアル」
 ベリアル、一説によれば神が二番目に創造した天使。今は転じて悪魔であるが、老紳士的な風格に支配者の貫禄があった。
「お主ら若造の浅はかな考えがわしらの盟主が予測していなかったとでも思うのか?」
 彼はアスモデウスを窘めた。槍の束縛から解放された彼女は姿勢を正し、彼に跪いた。
「お許しを」
「もう良い。盟主は寛大なお方じゃ。お主の驕りを許しとるわい」
 彼女はホッと一息吐いた。まるでガブリエルよりもその盟主とやらが上だと覗わせる態度だった。
 老紳士は天使に向き直る。
「全く、お主も変わらんのう。いつでもミカエルのことを心配しておる。しかし、それはお主の特権ではない。盟主のみの権利じゃ。お主の驕りは許されんわ」
 老紳士が構えを取る。ガブリエルは対して槍を再構成して構える。両英傑は対峙し、正面から激突する。彼女の目にも捉えられない速度の連撃を全て老紳士は拳一つで弾いていた。老紳士は空いた片方の拳で彼女を貫こうとする。彼女は真正面から受けきらず、いなして拳の軌道をずらした。拳圧で天井が吹っ飛ぶ。その勢いは凄まじく、地上にまで到達した。
「惜しいのう」
 老紳士は残念そうに呟いた。そして、続けて言った。
「それ程の潜在能力に恵まれながら、力の賜物を授からなかったお主は惨めじゃな」
「まるで私が勝てないみたいな言い方ね。良いことを教えてあげるわよ。あなた達は勝った者が正義と吹聴するけどね、そんなもの間違っているわよ」
「ほう、勝った者が正義ではないと? ならば、何が正義なのじゃろうな?」
「あなた達は既にそれを見ているわ。二千年以上前に来られたあの方は世に何をお与えになったか。そして、それは今も続く。あの子もあの方の後ろを歩んでいる」
「やれやれ、ミカエルか。あの愚者の神に付き従う従う愚者にお前達は何を見ているのじゃ?」 老紳士が天使から距離を取ると呆れた様に肩を竦め、睥睨した。
「愚かじゃな。お主らの神も長も。そんなものに何の意味がある?」
「神は世に勝たれている。この言葉を理解出来ない程に落ちぶれたかしら? ベリアル?」
 次の瞬間、自分達のいる場所のすぐ横の左右の床が抉られる。ベリアルが腕を振るっただけで最新式の鋼材が易々と崩れてしまう。
 今のは威嚇だ。しかもガブリエルに対するものだ。いい気になるな、と言う意味合いを込めていたのだろう。
 無言の内にガブリエルは自分達を背に回して悪魔達と対峙していた。
「どうして?」
 ユダが彼女に尋ねた。
 どうして自分達を護りながら不利な戦いを敢えて良しとするのか、そう尋ねたかったのだろう。
「あなた達はミカエルの『家族』よ。だったら、私の『家族』でもある」
 その背が答えていた。『家族』を護るのに理由なんかいるのか、と。
 両者とも構え、乱打戦を繰り広げる。ベリアルが拳で攻撃を受け止めてしまうが、お構いなしに彼女は反撃の隙を与えない。彼女は攻撃をいなす余裕がない。それを行えば、後ろにいる自分達に害が及ぶから。一方、ガブリエルの攻撃の余波は負傷したアスモデウスが障壁を張って防いでいた。
 突如、悪魔の後方で大爆発が起きた。マザーシステムが崩壊したのだ。アスモデウスは唖然とし、ベリアルは「やってくれたのう」と呟いた。
 するとユダが喋りだした。
「マザーシステムの暴走を確認。私のシステムの判断よりマザーは越えてならない権限を行使したと看做して破壊を良しとする旨を選られました。これは地球連邦議会の全会一致と私の中にあるシステムをフル稼働して選られた結果です」
「いやあ、やられたのう。お嬢ちゃんは大したものじゃよ」
 百年も生き続ける少女に向かって赤子のように接する老紳士。だけど、彼は次の瞬間、爽快な笑みと共に宣言した。
「じゃがのう、詰めが甘いのう」
 その顔を見て何故か怖気ましさを覚える自分がいた。何故こうもこの老紳士は冷静なのだろう? マザーシステムが崩壊したのに。
「なる程ね、あれはマザーシステムの本体ではないのね」
 天使が呟く一方でユダが「では、マザーシステムは何処に?」と驚愕していた。
「何、これもお主らの神の御心とやらじゃろうが。神はマザーシステムがどこにあるか読んでいる。その上であの子と衝突させた」
 ベリアルが言うあの子とは誰だ?
「時間がない。アレックス、ユダ、あなた達を連れて脱出するわ」
 天使が光の粒子で自分達を包むと穴の空いた天蓋に向かって飛び始めた。悪魔は泰然とそれを眺めて何もしない。
「あいつらは何故何もしてこないんだ?」
「さあ? 何を考えているのだか、さっぱりよ」
 そこでユダが口を挟む。
「ガブリエル様、マザーシステムのメインコアは何処にあるのでしょうか?」
 天使は多少考えて「恐らく、ないわ」と答えた。それは一体、どういう意味なのだろう? メインコアがなければ機械は作動しない筈だ。
「メインコアなしで電脳空間の一部屋を支配しているのよ。それもダミーを幾つも作った上にオリジナルまで複製している」
 と言うことは、地球の電脳空間のあちらこちらにマザーが溢れている訳か。それは恐ろしい。今ミカエルの相手をしているのも端末の一つだろう。
「それでは答えになっていません、ガブリエル様。メインコアがないとはどういうことですか? それは人間に脳がなく活動しているのと同じ意味合いに聞こえます」
 確かにそうだ。脳なく活動出来る固体などいない。いたとしてもそれは原始的生物が基本の筈だ。ガブリエルは答えづらそうに答える。
「あなた達の常識では解らないかも知れないけど、ミカエルも私も、いえ、天使や悪魔は脳や内臓といった器官を持たない存在なの。別に突飛な考えではないわ。これは古くからある考え方の一つよ」
 不可思議な考え方だが、今はそれについて議論する時でもないか。
「では、マザーはあなた達の様な高次存在へと変化したのですか?」
 ユダが不安気に訊ねる。もし、高次元の存在に到達していたら自分達は打つ手はない。ユダのアンチマザーシステムとやらも無駄になるだろう。
 だが、ガブリエルの反応はそれを否定するものだ。
「高次と言える進化ではないわね。むしろ、マザーの暴走と言える状態に等しい。彼女は人類が機械に施した原則の一部を曲解して破った。そうじゃないかしら、アレックス?」
 そうだ。人類はマザーが万が一にも暴走する可能性を考えてメインコアなしでは動けない様に設計した筈だ。彼女は恐らく『人類の幸せ』を目的としている以上、不穏分子のことを考えていた筈だ。不穏な存在が自分を停止させる可能性と規則を遵守する必要性を天秤にかけてわざと原則を曲解した。つまり、彼女は無意識下で矛盾したことを行っている。
「ああ、そうだ。恐らく、彼女は暴走状態にある」
 頷く。確認し合う様に三人とも頷く。大丈夫だ、まだ可能性は残されている。
 自分達はミカエル達の許へと戻る。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み