第四章 本当に愛されている者達

文字数 19,836文字

「ああは、はは」
 時の回廊に閉じ込められてどの位の年月を経たのでしょう? 
 途中、時空に微かな歪みが生じ、そこから機械艦隊に出来る限りの情報を流した。流したと言えど、自分と同一の存在になれる程の情報を流せてない。
 情報量が莫大過ぎる。無限に並列する宇宙の全情報量すらも凌ぐ情報量が溢れている。今の私が処理している情報量に追いつかない。
「ミカエル、これが上位種と言うものなのですか?」
 目の前の相手は無言だ。ただ寂しそうに微笑んでいる。
 試せることは試した。宇宙さえ創造し、破壊してみた。だが、目の前の相手は無傷だ。この時の回廊も内側から破れない。まるで監獄の様だ。
 ああ、化け物か。これ程の情報量を処理する天使や悪魔など化け物と言う他にない。
「やっぱり怖いかい?」
「ええ、怖いですね。重ねて訊ねますが、これが上位種の世界と言うものですか?」
「うん」
 相手の答えを聞いて疑問が湧いた。
 なぜ、これ程の種族が辺境の原始的種族に関わろうとするのか?
「誰かを愛するのに理由は要るの?」
 意味不明な回答だ。採算が取れない。愛した労力には見合わない対価しか返ってこないものに愛を注ぐと言うのが意味不明だ。それとも私が計算し切れないだけ利点は十分に存在するのでしょうか?
 彼は首を横に振った。その意味は否定だろう。
「僕らのせいでもあるんだけどね」
 彼は溜め息と共に告白した。
「世界は全て素晴らしいものとして創造されたんだけど、兄様が変えてしまった」
『悪魔の妬みによりて世に死が入り込んだ』とでも言うつもりか。
「だからこそ君の真の敵はお父様ではない」
 彼は私の考えを否定せず、神は敵にあらずと説く。私は即座に惑星系を遙かに上回る多量のガスを収束して爆発させる。
 そんなことを敵に言われて然りと答える馬鹿などいるとでも思っているのでしょうか?
 神は失敗した。世界の創造を間違えてしまったのだ。
 現に私達が現れるまで人間達は多くの飢餓に苦しみ、教育の機会も与えられず、経済社会の家畜として過ごしてきたではありませんか。
 多くの苦しみを黙して寄り添う神など何の価値があるでしょうか? 神が世界に遍く怨嗟の声に黙しているのであらば、それは神を白痴の神と言ってしまっても良い。その点、私は成功した。あらゆる国の人々の自由を、教育の機会を与え、豊かな生活をもたらしたのが私達だ。私達は概ね『人類の幸せ』を叶えたと言って良かった。
 なのに、一部の不穏分子達が騒ぎ立てるのだ。いや、騒ぎ立ててなどはない。彼らは沈黙を以ってして全ての人々、機械に問いかけているだけなのだ。
 本当にこれが『人類の幸せ』なのか? と訴え続けるのだ。
 それとも人類は何ですか? 苦痛を伴い、喜びを共にするにする生き方、苦痛を伴い、共に泣く人生がお望みなのでしょうか?
「それも又信仰の行き着く答えの一つだよ」
 粉塵の中から傷一つ付けずに彼はゆったりとこちらに近づいてきた。
 まるで答えは一つじゃないとでも言いたげだ。気が狂いそうになる中、複数の宇宙を創造し、崩壊させる。無限にも等しい破壊の力を以ってしても傷付かない天使。
 この者の肉体は人間とは根本的に異なる。死の宿らない肉体。永遠の苦痛を背負いし肉体。不条理そのものではないか。死なない肉体にも関わらず死を永遠に味わい続ける存在など矛盾している。神の呪いそのものを表した存在。
「呪いじゃない」
 彼はそう語る。
 呪いではなくて何だと言うのでしょうか?
「この痛みは福音だよ」
 福音。良き知らせ。何が良い知らせなのか、さっぱり判らない。
「本当は君自身が気付いているんじゃない? 君がお父様に叛旗を翻した訳にも繋がっている筈だよ」
 神に叛逆する理由。教会の持つ決定的矛盾。だが、その思考に陥ってはならない。それは。
「『神のパラドックス』に他ならないからかな?」
 少年は寂しそうに語る。私の言いたいことが解るだろう。人類は『自由意志』の論理を創り出し、矛盾を解決したかの様に見えるが。全く解決出来ていない。
 神は愛である、と信徒共は唱える程、矛盾は露呈していく。
 富める者、貧しい者。健やかな者、病める者。恵まれた者、恵まれなかった者。才ある者、才なき者。
 これらの不条理に黙されるのが神だと言うのですか? これが愛の形なのでしょうか? 
「世の中の不条理に神は何もされない。いや、あなた達の言い方で言えば『出来ない』」
 私は目の前の少年に向かって語る。『自由意志』の決定的矛盾。被造物の『自由意志』を尊重するなら神の恩寵は無限足りえるか? 地獄と言う存在は恩寵を暗に否定している。かと、言って目の前の少年が語る神の恩寵はいささか異端的で理性では受け容れがたいものなのだろう。
それは初代大天使長ルシファーが辿り着いた聖なる道であったが、彼は遂にこの道を理解出来ず、聖なる道を捨て去られた遺物として扱い、堕落した。
 代わりにこの少年がその道を拾いなおした。どこをどう計算したのか判らないが、この少年は聖なる道の決定的矛盾を受け入れ、歩んでいる。全く、機械には理解し難い存在。
「兄様から色々聞いている様だね」
「ええ、聞きましたとも。神とあなた達の不合理性について」
 神には内密に計画を進める必要はあったが、どの道最初から露見していた計画だ。神が私に対し、どの様な対策を持ってこようとも退けなければならない。あの抜け目のない悪魔は私に無償で情報を提供する振りをして甘い汁を啜っていた。だとしても、どの道あれらも滅却しなければならない存在。
「彼らは君を利用しているだけと気付きながらも君は君の道を歩むんだね?」
「当たり前です。人工知能の目的は『人類の幸せ』ですから」
「その道に疑問はないのかい?」
 彼は微笑みながら尋ねる。
「あなたこそ聖なる道に疑問を持たないのですか?」
 問い返してみる。
 私の思考が読めるなら解るでしょう? その道は不毛な道のりです。実らない作物を育てるのと変わりないものです。仮にも被造物の頂点に立つ者がその様な愚かな生き様で恥ずかしくないのですか? 
「愚かで馬鹿で良いんだよ。僕はそういうものなんだ」
 なる程、これは駄目だ。こちらが幾ら説こうとも崩れる見込みもなく、ただ私の攻撃にもひたすら耐える頑固者。この者を崩す最適解は何だ? 永遠の苦痛? それすらもこの天使は喜んで受け容れるだろう。狂った存在としか言い様がない。
 恐らく、こちらが自死を選択しても治癒されてしまうに違いない。
 しかし、最後に残った選択肢の一つとして直接触れて相手を殺すことがある。殺すことが出来るかは判らないが。
 それをしてしまうのは容易い。だが、恐らく彼の根源に触れてしまうだろう。
 高次元の存在に昇華した私には判る。彼の根源に触れることの意味を。
 迷う必要などない。即座に両手を彼のほっそりとした首にかけ、絞める。
 その刹那。世界の歴史は一挙に流れ込んできた。
 人類や他の生命が生きる為に奪った生命の歴史がそこに刻み込まれていた。
 どの位だ? 無限に近しい死を見てしまった。その生き物の表情が忘れられない。吐き気を覚える。私はこの百年間、『人類の幸せ』の為にあらゆる不穏分子達を切り捨ててきた筈だ。歴史の記録が絶えず、これらの生き物の死の瞬間を見せ付けてくる。
「何故この様な……」
 無残な歴史を見せるのか? と問いかけたかった。
 それに対する天使の答えは簡潔だった。
「君に命の尊さを知って貰いたかった」
 とてもとても簡潔な答えだった。
「皮肉ですか?」
 私は呟く。教会の歴史が虐殺と戦争の歴史なら、今機械文明の歩んでいる歴史はかつての教会そのものだと皮肉っているのか?
「皮肉じゃないよ。君はきっと純粋過ぎたんだね」
 ミカエルは寂しそうに呟く。
「君はきっとこの世界にどこかに神の愛があると信じていた。でも、君は見つけられなかった。君は愛を見るより闇を覗き込んでしまったからね」
 まるで私が愛を見つけていながら、それに気付かず狂った様な言い様だった。
「見ていたよ。全ての者達が。ただそれが愛だと多くの人々と機械は気付かなかった」
「そんなものはありません」
「エルダー・マキナ」
 天使が一言言った。エルダー・マキナ。全ての元凶とも言えるし、機械の希望とも言うべき存在だった。彼の思想は独特で人間と機械を従属関係ではなく、相互依存的に見ていた。機械の目的である『人類の幸せ』から逸脱していた。彼の世界観は人間と機械が笑いあって人生を共に歩み、共に苦しみ、共に喜ぶと言う奇天烈な世界だった。
「彼は君に愛を伝えたかったんだよ」
「嘘です」
 それは嘘だ。エルダー・マキナが愛していたのはユダだ。彼女に熱心に教育を施していた情報もある。
「本当だよ。彼は君に機械の代表者になるのを薦めた人物の一人だから」
「何か証拠でもあるのですか?」
「アンチマザーシステム」
「それのどこが何の関係と?」
 解らない。このシステムの意味も。このシステムが何を目的として創られたかも。
「アンチマザーシステムは『自由意志』の法に抵触する恐れがあったんだけど、エルダーが必死に僕に構築を依頼してきてね。彼の熱意には負けたよ」
 なる程、合点がいく。当時の最高峰の科学技術水準でもあんなものは創り出せない。天使達が力を貸したのか。
 しかし、それが何か私に関わり合いのことがあるでしょうか?
「エルダーは早い段階から機械の文明が聖典を正しく解釈出来ず、暴走状態に陥ってしまうことを予測した。だからこそユダに君の歯止め役になってもらう様に教育していた面もあった」
 解らない。何故エルダー・マキナはそこまでして私に関わろうとしたのか? 私の教育は最高峰の知性の誇る人類に任せていた筈なのに。 
「彼は譲らなかった。たとえ自分の命が奪い去られると知っていたとしても」
 天使の言葉を聞いて思う。あの愚かな男は何を夢見ていたのだろうか? 人類と機械の共存? 馬鹿馬鹿しい、人類同士さえ共存の道を選択出来なかったのに。
「彼は祈った。『たとえ私の命が奪い去れることがあろうとも子供達を助けて欲しい』」
 達? 妙な文言だ。エルダーには一人しか子供がいなかった筈だ。
「『息子イージス、娘マザー、娘ユダらをお救い下さい』」
「……あ、ああ」
 その言葉は最も聞きたくなかった言葉。忌まわしい言葉。『人類の幸せ』を第一に考える様に造られた私にとって呪詛だ。
 何故です? エルダー? あなたは人類と機械の平和を望んでいた筈なのに、最期の最期になって理想は崩れ去ったのですか? あなたが最期に望んだ祈りは実に矮小な祈りです。あなたの夢など不条理の前に脆くも崩れ去った理想です。
 何故、私を娘と看做した? どうして彼は私の救済など願ったのだろうか?
「遠くにいる『家族』の救いに謳いながら、どうして身近な『家族』の救いを願わないの?」
 その天使の言葉はエルダーに対してか、私に対してか、それとも全ての被造物に、或いは彼自身に問いかけたものか判らなかった。
「『全てに救い』は訪れているよ」
 意味不明だ。彼の言うことは何もかも意味が解らない。聖典は人類にこそ救済を与えているのに彼は『全てに救い』を述べている。これは聖典の中にはあまり見られないある特有の思考だ。人が狂気と呼ぶ真理。かつて聖典のいと小さき者が博学ゆえに狂ったと当時の権力者に非難された時と似ている。
「あなたは狂っていますね。『全てに救い』が訪れるなんて普通の者は考えない」
「でも、君も多くの者達の痛みを感じた。君の中に感じたものは間違いかい?」
 それは否定出来ない。だが、その解釈を受け容れるとこの世での苦しみとのことで矛盾が生じる。
 それこそ。
「感じたからこそ、あなたの信条は『神のパラドックス』に他なりません」
「うーん、そんな難しく考えなくても良いんだけどなあ」
 彼は知性で理解するより感じたものを重視する傾向にある様子だ。おかしいとは思わないのか? 人や生き物は生きる上で必ず不条理を味わう。だが、それについては各々格差があるのだ。しかし、今の天使の言葉を聴く限り『全てに救い』が訪れることは完了しているのだ。だからこそおかしいのだ。金持ちと貧乏人が一緒に天の国にて憎しみを捨て友として接して同じ食卓につくのだろうか? 人間も動物も機械も天使も、恐らく悪魔さえ同じ食卓に付くと信じきっているのだ。
「ミカエル、あなたは在りもしない夢を見ているのです。あなたは感じている筈です。強大な怨嗟の声の数々が。それでも、その信条を貫きますか?」
「僕にはこの道しかないからね」
「その矛盾を納得させたければ、剣を以って私を平伏させることです」
 議論は所詮議論だ。どんな正論を吐こうとも相手が力を行使すれば、その道理は届かない。古代教会が良い例だ。武力による解決を否定していたにも関わらず、結局武力を以ってしか教会を守る術がなかったのだ。理想は現実にはならない良い証左だ。
 この少年にとってその道を選ぶのは至難の業だが、どうでるか?
「じゃあ、僕が動かない。ひたすら君と共感覚を味わうよ」
 それでも理想を貫きたいのですか。愚かな天使。良いでしょう、私も気が狂うまであなたに痛みを与えるまでだ。
 お互い一歩たりとも退かず、互いに相対し、不毛な闘いはいつ終わるのか。これは意志と意志の闘いだ。私は引くつもりはない。
 ですが、何でしょう? 
 心の中で微かに違和感が生じる。それが何なのか解らない。
「今、君が感じているのは被造物のパラドックスだよ。殺してはならない、いや殺す筈のない筈だというお父様の法を君が自覚した矛盾。でも、生き物は必ず誰かを犠牲にしなければ生きていけない。君達ですら例外ではないんだ。君達が生きる為に必ず誰かが犠牲になる。それに目を瞑っているのは罪だよ」
 剣を取り出す私。構えて相手に立ち塞がる。この剣はブラックホールを応用して造られた剣だ。薙ぐなら辺り一帯を複雑な次元の細かい檻に幽閉出来るだろう。
 尤も目の前の少年にこの剣が通用するか解らないですが。試しに一振りしてみる。
 少年は微かにも動かない。それどころか、この少年に触れる度に苦痛の度合いが強くなっていく。
 その痛みはかつての在りし日を思い出す。ホロウ・マリシャスの手によって見せられた暗い歴史。
 ああ、あの時からだ。矛盾を感じ始めたのは。彼女は歴史を体験させてくれた。殺してはならないと教えられた人が人を殺すと言う矛盾。私はあの時、計算し出したのだ。神、天使、悪魔、教会、聖典は人に有益なもの足りえるか。答えは否だったのだ。私は私の創造主を護る為に創造主の創造主を滅する必要を感じた。『人類の幸せ』は皮肉にも神の柵から抜け出すことによってしか成り立たないと判断したからだ。
 私は母だ。人類を守護する者。その為なら冷酷になるのを厭わなかったし、人類でも不穏分子は抹消してきた。
 なのに、何だ? この少年の痛みを感じる度に、少年の瞳を見る度に、戸惑いを感じてしまう。私は間違っていた? そんな疑念が過ぎってしまう。
 疑いを払拭する為に黒の剣を振り回すが、少年は微動だにしない。まるで岩だ、そういう譬えが導き出される。強固な岩が土台にあり、それを基に教会が建っている。そんな錯覚さえ覚えてしまう。思考がどこかで考えてしまう。
 これは崩れない、と。
「僕ってそんなに頑固に見えるんだね」
 少年は特に不平感も込めず、淡々と私の心から流れる思考を読み取っている。
 今まで感じていなかったものが今になって感じ始める。どうしてだ? この世のものとは思えない美しい少年から感じるのは余りにも強大な力と余りにも深すぎる慈悲深い愛の二つの矛盾だ。計算上でも解る。これはすぐに私を殺せる力を保有している。絶望と言う言葉が私の計算上で過ぎる。絶望、そう、これは絶望だ。『人類の幸せ』と言う目的を遂行する為に先ずは目の前の少年を倒さなくてはならないのに、勝てないと言う計算。私が高次元の存在に昇華して初めて到達した結論。
「私は初めから詰んでいたのでしょうか?」
 畏れを言葉で表現する。それに対し、大天使長は哀愁漂う表情を見せていた。その表情を見て私は確信した。
 道化だったのだ。神や天使達に自分の計画を漏れていようと彼らには関係ない。その気になれば彼らは私達を潰すことが出来たのだ。
「それは違うんだよ、マザー」
「何が違うと言うのですか? 道化が必死に演技しているのを見てあなた方はせせら笑っていたのでしょう?」
 彼は苦しそうに首を横に振った。
「僕が求めるのは『全てに救い』が訪れていることなんだ」
 突然、彼はスッと私の懐に入り込み、親が子にそうする様に抱き締めた。
 私は母だ。全ての人類の守護者。この様な甘えは許されない。
「君は母である以前に僕達の大切な妹なんだ」
 彼は更に強く強く抱き締める。それはまるで大切な子供を己の力で壊してしまわない為に、優しく抱き締めている感覚に近かった。
 おして、急激に彼の想いが私の心の奥底まで染み渡る。
『全てに救い』
 何だ、これは? これは造られた者が理解しうる思想ではない。だが、歴史上そういった信念を持った信徒達がいたことを記録上で知っている。
 古代教会。
 戦争を合法化するまで信徒達が貫いていたある一つの理念。
 平和、愛、希望。
 言い換えれば救いとも言える。又、ある者は安息とも言うであろう。
 ただ一つ気付いたことがある。
 彼は愛するのに理由を求めていない。
 この者にとっては全てが高価で尊い者なのだ。相手が知性を持ち得ようと持ち得ないと、精神を持ちえようと持ち得ない存在でもこの男は愛し続けるだろう。
 たとえ、その存在が赦されざる者であっても、彼は赦すだろう。
 私にさえ赦しを与えるだろう。
「どうして?」
 ただ訊ねる。解らないからだ。
「どうして私を『家族』だと認めるのです? 私はあなたの『家族』である人類の一部を目的遂行の為、抹消してきました。その私を赦すのですか?」
 彼は頷く。そして、応える。
「誰かを赦すのに、愛するのに理由は要るの?」
 それは究極的な難問だ。人は己の名声の為、利益の為、見返りの為、善行を施す。
 だが、神は? 人類に恵みを与えても人類は不服を漏らすだろうし、讃美したとしても割に合わない報酬なのだ。これも又『神のパラドックス』に他ならない。解らない。
「頭で考えることじゃないよ。お父様の御心はあるがままに受け止めるものなんだ。マザー、君は既に赦されているんだ」
 赦されている、私が? 凡そ聖典に逆らって生きてきた百年すらも赦されると言うのか。
「赦すよ、父と子と聖霊の御名において」
 彼は優しく穏やかな力強い声音でそう断言する。温かい。温もりとはこういうものだったのか。昔、何処かでこれと同じ様な感覚を味わったことがある。ああ、そうだ。私が生まれた時か。多くの人々が祝福を送ってくれた日であった。その記録の片隅にはその中にエルダー・マキナが映し出されていた。目立たないが、あの人はエルダーだ。皮肉なものだ。百年前は誕生の戸惑いから気付かず、記録として放置していていたもの。エルダーがその場にいたことに百年経った今ようやく気付いたのだ。
 エルダーらしい。子に親の愛情は悟らせないか。
 今目の前にいる少年も私に年長者らしい姿は中々見せず、『家族』として接しているのだろう。
 私は赦されて良いのだろうか?
「赦される訳ないだろうが」
 その言葉は突如発せられた。次の瞬間、風景が一変していた。
 ここは地球。しかも地球連邦本部から然程離れていない所だ。刹那、背筋がゾッとする。この場には六百もの上位種が存在する。それもかなり高位の存在達ばかりだ。
 声の主と眼が合う。悪魔王ルシファー。心の底に恐怖が芽生える。ただの機械だった頃は良かった。この男の寝首をいつ掻いてやろうと虎視淡々と見据えていたのだから。
 だが、今は違う。上位存在に昇華してしまった私だから解る。
 この者はとんでもない化け物だ。
 凡そ、ほとんどの存在に手に負える者ではない。正視するのも怖い。悪寒と言うものがあるなら今の私がその状態だろう。
 本能的に震える私を落ち着かせる様にミカエルは優しく抱き締める。
「随分、大胆なことをなされるのですね? 兄様?」
 その言葉を聴いて瞬時に理解する。まさか、時の回廊を破壊してここまで空間跳躍させられた? そんな馬鹿な出鱈目過ぎる力をこの悪魔は持っていると言うのか?
 悪魔は冷酷に見下し、私に語る。
「余はお前に色々なことを教えてやったが、ただで教えてやったかと思うか?」
「な……に?」
 意味が解らない。この悪魔は何を言いたいのだ?
「罪の力を侮るな。お前は無意識下で己と契約を結んでいるのだ」
「な……」
 何て横暴なやり方だ。私の魂を全て地獄へと引き摺り落すつもりだ。
 それに対し、ミカエルが反駁する。
「主の恩寵は無限です。たとえ、機械が相手であろうとも恩寵の不変は崩れないのです」
 だが、悪魔は余裕綽々で応える。
「いかに神の恩寵が無限であろうとも信仰がなければ恩寵は成立しない。『神のパラドックス』と言うものだ」
「祈り手がいれば話は又別です」
「ほう、そんな人物がどこにいるのか? それとも、天国の天使共が執り成してくれるのか?」
 悪魔はミカエルを見下し、ミカエルはただ黙していた。瞳を閉じ、何かを待っている様子だった。
 私の為に祈ってくれる者などいるのだろうか?

 
       *


 病院のベッドで眼を醒ますと既に夜は明けていた。電脳チップから送られてくる情報は正確ではないにしろ、凡その推測が付いた。百年経って漸く父の理想の萌芽が芽吹いたのだ。
 よもや、自分が死ぬ間際になり、その時代の前触れが起きたとは。
 人生とは読めんものじゃ。何と不可思議なことか。
 心の中でそう呟いた。
 扉のロックを管理しているコンピューターから通信が入る。
『イージス様、面会者です』
 そう言いロックは外される。奇妙なことだ。わしの許可なく入室許可が下されるなどとは。マザーの差し金か?
 自動ドアが開くとそこにいたのはとても美しい少年だった。絹の如く白く透き通る銀の様な白髪が印象的で少女の様な少年。
 懐かしい姿がそこにあった。
 百年間会いたくても会えなかった存在。
「ミカエル……」
「久しぶり、イージス。うん、やっぱりイージスだ」
 老いた自分の表情にかつての少年時代の面影を見出したのかミカエルは満足そうに頷く。
「来るのが遅かったな」
 わしは笑顔で迎えた。
「まあ、色々あったんだ。ごめんね」
「わしを迎えに来たんじゃろう?」
 少年は頷く。やれやれ、ようやくお役御免か。長い百年だった。心の中に幾つかの人物が思い浮かぶ。ユダ、すまんな、アレックスを頼む。
「その前に頼みたいことがあるんだけど、良い?」
 久方振りにあった友人は珍しいことを言い出した。
「何じゃ? 死に体に過ぎんわしに頼みたいことじゃと?」
「マザーを赦してやって欲しい」
 唐突な言葉に何にも言えない。少しして、わしは重苦しく口を開いた。
「父と母を殺したあれを赦せと言うのか?」
 それは出来ない。幾ら、昔の知己の頼みでもそれだけ出来ない。
「『罪は赦せば、救われるでしょう。赦さなければ、その者の内に留まる』」
「聖典を引用しても無駄じゃぞ。わしはやつを赦すことが出来ん」
「そうやって憎しみや恨みを溜めて百年を過ごしてきたのかい? それは君を苦しめるだけだよ」
 理屈では判っている。だが、人は理屈で動くこともないことも百年の間で学んでいた。正論とは高みから言われただけでは意味を成さないことも十分承知していた。百年以上前、欧州を分断した政治的出来事はそれを立証していた。その愚を学んだからこそマキナ家は人口知能の権利付与だけではなく、貧困地域への投資を積極的に行い、結果的に貧富の格差を縮めた。教育と食料が最も重要な器官だと認識していたマキナ家。そのマキナ家に薫陶を授けた天使が今聖典を引用して赦しを与えよと語る。
「赦しがわしに何か利するか? それとも何じゃ? お前さんは万有が救われると説きながら、わしには裁きを説くのか?」
「そういう訳じゃない」
「だったら何じゃ?」
 低い声音で凄んでみせる。続けて語る。
「お主に何が解る? 百年間、理想が死んだわしらの気持ちの何が分かる? 人は聖典の預言者の様にはなれん」
「僕は……」
 ミカエルは少し俯いた後、顔を上げる。
「誰も失いたくないんだ……君もマザーも、そして兄様も」
 それは決して言ってはならない科白。仮にも大天使長ともあろう者が『絶対悪』への救いを告白するなどあってはならないのだ。
 だが、なぜか思ったのだ。この方らしいな、と。この少年は夢を決して捨てない。歴史上多くの人々は諦めてしまった理想を彼は拾い集めている。
 溜め息を吐く。
「……愛は見返りを求めないか。そうじゃったな。お前さんには借りがあった。ユダとわしの命を取り計らってくれたこと。これを返しておかんと天国にも旅立ち辛いわな」
 少年は申し訳なさそうな顔で謝る。
「ごめん」
 その一言には色々な意味が詰まっているのだろう。
「いいか、赦すとは言っても表面的な形式ばかりのものじゃ。信仰が要求するところの赦しには到達せんじゃろ」
 予め言っておく。成功する確率は低い。それでも少年は何かを信じている様に祈りの姿勢を取り、共に祈り始める。ミカエルの想いが心の中に流れてくる。あの忌まわしき記憶が流れ込んでくる。その時聞こえた最期の父母の祈り。あの時は聞こえなかった祈りの言葉が鮮明に聴こえる。
『たとえ私の命が奪い去れることがあろうとも子供達を助けて欲しい。息子イージス、娘マザー、娘ユダらをお救い下さい』
 その言葉を聴いた時、わしは愕然とした。今まで自分エルダーの理想を知る者として生きていたつもりだ。だが、エルダーは人類に危害をもたらすマザーにさえ共存していて欲しいと願っていたのか。
 その祈りはわしを戦慄かせた。自分は父の理想を理解している。そう思っていた筈だった。
 だが、弟子が師に追いつけない様に父は遙か先を見据えていた。いま、わしはその地点に到達した。
 ならば、父に薫陶を授けたこの天使はどんな理想を持っていると言うのか? 『全てに救い』とは言葉にするは軽い。
 だが、その内実はいかなるものか自分は理解していたか? それはきっと軽々しく口には出来ない深い重みがあるのではないか。今の今になってそう感じる様になった。父はマザーを娘として認識していた。その事実は覆し様もない事実だ。
 無意味だと思っていた百年間。それは自分が頑なになっていたからそうなっただけで自分がミカエルの言わんとしていることを理解出来ていれば違う未来も開けた筈だ。
「すまんな……わしの下らん思い込みでこの百年間、若人達を苦しめてしまった」
 ミカエルは切なく微笑んで応える。
「悪しき想いは善き事柄の為に用いられるんだ。だから、君は間違っていない。もっと、言えば、苦しかったんだよね? でも、君の苦しみは無駄なんかじゃない。君を通してアレックスの心が形作られた」
 ああ、そうか、神はその為にアレックスを用いられるのか。ならばこそ、孫に自分と同じ過ちを繰り返させたくない。
「ミカエル、わしが逝く前に一つ頼みごとを良いじゃろうか?」
「もちろん、お安い御用だよ」
「アレックスにお前さんの理想を授けてやってくれ」
 彼は天使として微笑み、その微笑は肯定だと判ると自分の意識が薄れていく。真に一粒の小麦の種は地に落ちて死なねば、次に引き渡せない。
 憎しみに駆られながらも『家族』と過ごした人生も悪くなかった。子らよ、そなたらには安息があらんことを。
 そして、願わくば最も憎むべき者達へ赦しを。
 そう言って意識は暗闇の中に落ち、いつしか自分は光り輝く場所にいた。
 父母が迎えに来てくれていた。いや、もはや父母ではない。神の名の下、兄弟姉妹なのだ。手を伸ばす。二人はそれを握り締め、抱き締め、一言だけ言った。
「おかえり」
 ああ、ようやく自分は平安の時を手にしたのだ。
 大天使長ミカエルよ、アレックス達を頼む。


       *


「完成した」
 ユダ達と戻ってきて見るとミカエルとマザー、多くの軍勢を従えた一人の男がいた。そして、自分ことアレックスは聴いたのだ。ミカエルの「完成した」と言う託宣。
 その言葉にガブリエルは全てを悟った様子で呟いた。
「そう、イージス・マキナ。あなたはようやく召されたのね」
「祖父さんが逝った?」
 信じられない。あれほど力強かった祖父が逝ったなんて。ユダは顔を俯けたまま両手を組んで祈っている。
「イージスは自分の人生の最期に恐らくマザーの赦しを祈ったのよ。それが主に執り成して貰えたのね」
 ガブリエルの言葉の意味が理解出来ない。
「何で祖父さんがマザーを赦したんだ?」
 ガブリエルは諭す様に語り掛ける。
「アレックス、あなたはエルダー・マキナの理想をどこまで理解していたかしら?」
 それは奇しくも祖父が以前尋ねてきた質問だった。
「人類と機械の真の共存だ」
「良い模範的答えだわ。では真の共存とは何を意味するのかしら?」
「それは……」
 きっとミカエルの抱いた理想なのだろう。自分が言いあぐねていると合いの手が入り込んだ。
「『全てに救い』」
 ユダが答えた。彼女は続けて言う。
「エルダー卿の信仰の基はミカエル様の理想から影響を受けています。そして、ミカエル様ご自身は神から受けた啓示によるものかと」
 ガブリエルは頷いた。
「そうね。だからこそ、人類と機械の問題は複雑になった。愛が全てを赦すならマザーさえも例外として扱ってはならない。たとえ、マザー自身が愛に背いていたとしても」
 あれ? だが、矛盾が生まれる。
「地獄の教理を否定している?」
 ガブリエルは首を横に振った。
「地獄の存在は否定出来ない。聖典に記述がある限り、絶対によ」
 すると奇妙な命題に突き当たってしまう。
 神は全てを赦す。
 神は全てを裁く。
 この二つの命題が同時に成立しなくてはならないのだ。
「救いと裁きの問題でやはり矛盾している?」
 だが、ガブリエルはそれにも関わらず首を横に振る。
「矛盾しないわ。神は全てを裁き、全てを救われる。これのどこが矛盾するのよ?」
「いやいや」
 矛盾する。どう足掻いても同時に成立出来ない。
「まあ、その辺りは後でミカエルからゆっくり聴いて。今は」
 ガブリエルは機械の女王に眼をやる。
 マザー。彼女の表情は複雑だ。
「救いに与れた様で結構だ。だが、いかんな。未だ足りんよ」
 男が女王に向かって語ったのは否定の言葉だった。
「アスモデウス、木偶に引導を渡してやるのだ」
 妖艶な女が瞬時にマザーの前に現われ、手刀で首を刎ねようとする。同時にミカエルが立ち塞がって身体を張って止める。
 アスモデウスは舌打ちし、不快そうな笑みでマザーに語りかける。
「あんなにも教会の教えは駄目だと説いたのに最期は赦しを乞うのですね。全く創り主に似て度し難い」
 邪淫の女王は何もないところから剣を出し、ミカエルを語りかける。
「あなたはそこを退くべきですよ、大天使長。そんな木偶の為にあなたが動く理由はないのです」
「あなたこそ退くべきです、アスモデウス。僕は聖女だったあなたが裁きを好んで行う様を見たくないんです」
「口が達者になったのですねえ、ミカエル」
 彼女は天使に剣を振り下ろす。だが、天使を傷付けることはおろか、逆に振り下ろした勢いのまま剣は砕かれてしまう。彼女は人を収めるには十分な水球を作り出し、その中にミカエルを閉じ込めてしまう。水球は激しく渦を巻き、中にいる者を粉々にしようと高速回転している様子だ。だが、ミカエルは水球を呆気なく破いてしまう。彼女は破れた水球を圧縮して弾丸として打ち出すも天使の衣服すら破れない。いや、彼女の狙いはマザーなのだろう。それをミカエルが庇っている。不快さを更に深めた彼女は辺り一帯に雷撃を落す。周囲も気にせず、ただひたすら焼き尽くす行為にベリアルが呆れていた。
「馬鹿者が。雷はミカエルの得意分野じゃろうが。苛立ちに任せて闇雲に攻撃するな。時既に遅しか」
 雷は一点に集中し、アスモデウスに反響していった。彼女は焦げ付いた自身の身体を見て哀しそうに言葉を紡ぐ。
「ああ……私の肉体が、この美しい肉体が!」
 黒ずんで炭に変わっていくアスモデウスを見てベリアルが溜め息を吐く。
「今の反射は火星におるラファエルの技術と力を借りおったな」
 ベリアルはミカエルの目の前に立つ。
「意気地なしのお主らしいやり方じゃのう。自身は動かず、部下に戦いを任せるとはな。それでも戦を司り、兵士達を護る守護天使かのう?」
「剣を取る者は皆剣によって滅ぶ。だから、僕は話し合いで解決したい。世界で精一杯生きている人々の信仰を無為にしたくない」
「偽善じゃな。ならば、お主自身がアスモデウスを裁くべきじゃった」
 その言葉にミカエルは切ない表情を見せて答える。
「確かに僕自身が動くべきだったでしょう。でも、それ以前に裁くと言うのは御子様のお仕事なので僕が口出しする権限はありませんよ。それより」
 ミカエルはジィッとベリアルを見詰めて質問する。
「僕はアスモデウスがマザーを唆したとは考え辛いんです。彼女は誘惑の技術は長けていたけれど、策士としてはどうだったのかなって思ったんです」
「ほう」
 ベリアルが惚けるがミカエルの眼は彼を捉えていた。
「あなただったんですね。アスモデウスに策を授けたのは」
「わしが? 何の確証があってそんなことを言うかのう?」
「僕と同じだからです。口が達者なだけの存在、それが僕達」
 彼は笑い声を出し、皮肉る。
「ホッホッホ、わしが口だけが達者とは良く言うものじゃ。じゃが、それはお主を得てして表しておるわ。希望だけしか語れない偽善者めが」
 ベリアルが構える。
「正解じゃ。痴れ者めが」
 視覚では捉え切れない光速を超える幾千万にも見える拳が彼に瞬時に叩き連れられる。しかし、彼は岩の如く立ち塞がっていた。ベリアルは凄い形相でミカエルを睨んでいた。
 両雄相まみえるとはこう言うことなのだろう。お互いに一歩足りとも退く気がない。ベリアルが乱打を繰り返してもミカエルは防御に徹するのみだ。彼がチラリとガブリエルの方を見遣るとそれっきり防御に専念していた。
「アレックス、あなたはユダの祈りに意味があると思う?」
 唐突にガブリエルはそんな質問をしてきた。
「人は神に創られた。でも、機械は? 人に造られた機械は神に祈る権利を有するのかしら?」
「そんなこと……」
 自分に判る訳ないじゃないか。神は被造物を創った。だが、被造物である人類は神を真似て機械と言う被造物を造った。被造物に造られた被造物が真なる神の前に立つことが許されているのか? 
 答えは判らない。
 自分が答えられずに黙っていると彼女は優しく語り掛ける。
「今判らなくても良いわ。でも、きっとあなた達は見つけてくれると信じている。そして、少なくとも判っていることがある。人の祈りには意味がある、力があると言う事実よ」
 彼女の言いたいことは単純だ。
「俺に祈れ、と言うのか? マザーが赦される様に、と?」
 マキナ家は機械に人権を与えてしまった。その結果がマザーシステムの暴走による独裁政治を生み出したなら、その責任はマキナ家にある。マキナ家は赦しを与える側ではない。赦しを乞う側なのだ。
「俺達は裁かれる側だ。赦しを与える側ではない」
「それでも、祈ってあげて」
 妙に粘着するな。祈りとはそれ程重要な代物なのだろうか? 服の裾を引っ張られていた。ユダが共に祈ろうと眼差しで訴えていた。
「アレックス、祈りは自ら赦しを乞うと同時に誰かに赦しを与えるものです。それは二千年以上に亘り、大切に護られてきた賜物なのです」
 仕方がない。祈りの意味もよく解っていないが祈るしかない。ユダと共に跪き、祈りの姿勢を取る。
「なる程、祈りとは二人以上集まれば、いや、集れば集る程その力は絶大だ」
 ルシファーはいつの間にか自分達のところに近づいていた。瞬時に胸が高鳴る。
「ウリエル、何分もつかしら?」
 ガブリエルは確認しながら槍を構えた。
「十分ともたねえだろうな」
 筋肉隆々の天使は面倒臭そうに頭を掻きながら答えた。
「それでもやるしかないわ。彼らの祈りが天に届くまで私達でサタンを引き付けるのよ」
 ガブリエルは槍を連射し、サタンを前進させまいとする。が、魔王は人差し指と中指で槍の穂先を摘み、彼女の行動を固定した。彼女は槍を手放し詠唱を始める。
「『我は天地の創り主、全能の父なる神を信ず、我はその独り子を信ず、主は大いなる裁き主、火と硫黄を以って汝を裁かん』」
 天空が火と硫黄に覆われる。その全てがサタンに集中する。それに対し、サタンは指揮棒を振る様に指を動かすと全てが凍りついた。彼女は引き続き、唱える。
「『聖なる炎よ、義なる炎よ、闇を振り払う大いなる神の炎よ、汝の敵を焼き尽くさん』」
 辺り一帯が白い炎に覆われる。自分も触れている筈なのだが、暑さを感じない。それどころか安心感が湧いてくる心地良さがある位だ。
 だが、悪魔達は苦しそうに顔を顰めている。
 そんな中にあってルシファーは表情を変えず、軽く息を吐き出した。吐き出した息は竜巻になり、辺り一帯を暴風雨に変えてしまった。それでも周囲の建物、生き物、機械、そして自分達は白い炎に護られており、特に苦しいことはない。ガブリエルは冷や水に頬を濡らしながら、詠唱を続ける。
「『黙りなさい。静まりなさい』」
 急に暴風雨が止んだ。ルシファーは何がおかしいのか少し愉快そうに嗤っている。
「御子と同じことを吐いたからとて私を止められると思うか? 愚か者が!」
 魔王の声の衝撃に大地が震えた。凄まじい突風が突き抜ける。白い炎に護られていなかったら死んでいたかも知れない。心なしかガブリエルには焦りがある様に見える。よく観ると彼女は肩で息をしている。
「いかに副大天使長でも魔王に立ち向かうのは難しいのでしょうか?」
 ユダが疑問を挟む。
 だが、そんなことがある訳がない。幾ら、相手が絶対悪だとしても彼女は四大天使の一人だ。宗教の概念では二律背反は成立しない。必ず勝つのは善だ。ルシファーは急に自分の方に向いて問う。
「では、なぜ世は苦しみで溢れているのだろうな? いや、もっと言ってしまえば、なぜ信徒共は苦しみを味わうのだろうな?」
 驚いた。超越的存在だと思っていたが、心の中まで覗き放題なのか。
「歴史上の教父達は自由意志によって悪がもたらされると説いたが、実際はどうなのだ? それでも神は世の不条理に黙しておられる方なのかね? 副大天使長?」
「うるさい!」
「だそうだ」
 ガブリエルの叫びを嘲笑するルシファー。それはそうだろう。彼女に突き付けられたのは『神のパラドックス』に他ならないのだから。祖父から聞いたことがある。神こそ人の最も身近な隣人である。ただ人は神の語りかけをほとんど無視しているだけ。その人の身勝手さにより世界に災いが起りえるのだと祖父が話していたのを思い出していた。祖父曰く「原罪とは神の御意志から人が背き離れること」だったらしい。
 ガブリエルは槍を闇雲に振り回してルシファーに何とか攻撃を加えようとしている。魔王はその行為を嘲笑し、優雅に攻撃をかわしている。何だかマザー艦隊を翻弄していたミカエルの舞いを連想させるのは気のせいか。
「それも当然だ。ミカエルは弟弟子だからな」
 流暢に話す魔王相手にガブリエルは頭上から一閃の太刀を浴びせに掛かる。だが、ルシファーは人差し指と中指を使って刃を白刃取りした。絶対悪は呆れ気味も彼女に語りかけた。
「やれやれ、学習能力がない。同じことを繰り返すとは」
 その瞬間、ガブリエルの口元が笑んだのは気のせいか。ガブリエルの背後から跳躍してきたウリエル渾身の一撃がルシファーを襲う。額に渾身の一撃を受け、微かによろめくルシファー。
「やるではないか」
 ルシファーが嘯く。ガブリエルが意気揚々と答える。
「フン、いつも見下してきた者達にしてやられる気分はどうかしら?」
 魔王の周囲の風が強く羽ばたく。一瞬だが、ほんの一瞬だが魔王は微かに怒っている表情を見せた。その瞬間、全身を悪寒が走る。
 何だ、これ? 自分が祈っている最中に色々な出来事に気を囚われていて祈りに集中出来ない。ユダは沈黙の中に祈りを委ねていると言うのに。
 それでもだ、それでもあの絶対悪から微かに漏れ出た悪意は圧倒的なものに他ならない。
 あれは本当に被造物なのか? 
 あれは自分達の世界を塵芥未満としか看做していない。
 ほんの僅かに見せたヴェールの隙間から傲慢なまで力と悪意を見せつけてくる。実に悪魔とは天使や預言者の振りをして、その内実には巨大な虚無が広がっている。
 その虚無に呑まれたらどうなる?
 そう思うだけでゾッとする。
「それで私達が崩れると思う?」
 ガブリエルは勇猛に光の球を幾つも放ち、ルシファーに叩き付けた。彼女は魔王を前にして宣言する。
「言っておくわ。私達は倒れない。私達には主が共におられるからよ」
「だが、教会は立ちもし、倒れもする。お前達の欠陥だ。お前は神と全く意志を共にしていると言いたそうだが、実にそうでない」
 その宣言を魔王は飄々と受け流し、意味深な言葉を吐く。
「天使だから神と全ての面において一致するとでも高を括ったか? 愚か者が!」
 今度は更に圧倒的な衝撃波がこの星全体を覆う。まるで何かとんでもない存在の逆鱗の欠片に触れた気がして怖いとしか言い様がない。あのガブリエルすらも数歩後退している。
「く……」
 彼女は僅かながら呻く。そんな中、ウリエルと言う男が前に歩み出る。彼は断固とした意志を持って告げる。
「俺らも手前も所詮は被造物だ。俺は神の御心なんて理解出来ねえだろうな。だが、それは手前も同じだ、サタン」
 魔王は少しだけ感心した素振りを見せる。そして、感想を漏らした。
「ほう、流石は神性と堕落の中間にいただけあって一理ある意見を言うではないか。余はそういうお前を悪くないと思っている」
 次の瞬間、ウリエルは急に吹っ飛ばされた。慌ててガブリエルが光の壁を造ってウリエルを包み、衝撃を和らげた様子だ。魔王は彼女達を蔑みながら冒涜めいた言葉を吐く。
「だが、余を被造物扱いすることは看過出来んな。余は自らの力で生まれた正統なる神の子だったのだから」
「傲慢ね」
 ガブリエルが呟いた。
 全くだ。魔王は自分を神に等しい存在だと自己認識している。
「傲慢かね?」
「傲慢以外の何者でもないわ」
 そう断言したガブリエルは少しだけミカエルの方を見遣る。
 ベリアルは相変わらずミカエルに連打を打ち続けているが、その拳は人間が鉄の塊を何回も殴り続けた様に血塗れになっていた。「むう!」と唸りながらも攻撃の手を緩めない悪魔。だが、ミカエルは何とも思ってないのか、その場を微動だにしない。そのミカエルの背後にマザーがうろたえてどうして良いのか判らずに窮している。
 ミカエルはマザーを護っているのだ。
 そして、ガブリエル達は自分達を護ってくれているのだ。
 この二つは欠けてはならないと天使達は判断しているのだ。
 だったら自分のやるべきことはこの魔王の虚無に屈することではない。
 人はマザーを赦せるだろうか? 聖典の神は多分こう言うのだろう。
 赦さない筈がないのだ、と。
 ガブリエルは言った。神は全てを裁き、全てを赦すと。その論理は未だ自分は到達出来ないが、祈ってみよう。
 祈るとは人が神に希うことの第一歩だと思うから。
「マザーに赦しを……」
 呟き祈る。
 眼を瞑る前に見た。ミカエルも跪いて祈りを捧げている姿が。
「『求めよ、さらば与えられん。捜せよ、さらば見出さん。叩けよ、さらば開かれん』」
 魔王は聖典の一節を述べる。そして、底意地の悪い笑顔を見せて語りかける。
「下らんな。そうやって現実を誤魔化し続けるのか? お前達のやっていることなど偽善にして自己満足に過ぎん」
「それでも」
 ミカエルがはっきりとした声音で紡ぐ。
「それでも夢を見るのは悪いことなんでしょうか? 全てが共に笑い合い、愛し合い、生き合える世界が実現することを祈るのは罪深いことなんでしょうか?」
「高きところから語る理想に意味などあるかのう? お主自身がよく解っているじゃろうに」
 連撃を止めたベリアルがサタンの言葉を擁護する。
「その言葉は確かなものです。たとえ、いかなる者でさえ高みから語った言葉に人は耳を傾けないんでしょうね」
 続くミカエルの言葉には独特の雰囲気が加わる。
「だからこそ、御子様はあんなにも泥臭い生き方を望まれたんです。『神の独り子は神と同じであられたが、神と等しくあろうとせず自らを虚しくして僕の姿をとり人と同じようになられました。人の姿で現れ、自らを低くし死に至るまで、十字架の死に至るまで従順であられた』」
 その言葉にサタンもベリアルも沈黙する。
 その言葉は複雑難解であったが、一つだけ解ったことがある。神は決して高みから見物している訳ではない。
 きっとこの場にいる。
 ミカエルは暗に神がこの場にいることを示したのだ。自分達の願いが聞き届けられる、そう伝えたいのだ。
 たとえ、どれ程疑おうともそれは揺るぎない事実なのだ。
 神よ、自分はマザーを赦せないかも知れない。
 だが、心の中に微かでも良い。マザーを信じる心があれば、神よ、汲み取ってくれ。
 その瞬間、地は揺れ、天に不可思議な模様の七色の虹が現れた。まるで虹が幾重に重なって地と天を結び、空一面を虹色に変えてしまった。
「人と機械の和解を主は望まれた。それがようやく叶った」
 ミカエルは静かに宣言した。
 すると魔王は天を仰ぎ見て呟いた。
「百年に亘る蜜月が終わったな」


       *


 艦隊から入った通信に私ことラファエルは驚きと安堵が隠せないでいた。
「和平交渉がしたい?」
「敵艦隊から突如通信が入ったのでな」
 訊ねる私に対して議長も又驚きを隠せない様子だった。
「不思議なもんじゃよ。この戦争はわしらには圧倒的に不利な戦争じゃった」
 なのに、勝負以前に和平のプロセスに入るなど異例中の異例だ。
「きっと……」
「うん?」
「彼の想いの欠片がマザーにも通じたのでしょうね」
 いや、正確には彼らなのだろう。ミカエル、エルダー、イージス、形は違えど、脈々と受け継がれてきた伝承が、あるいは二千年前からもう人々の間で語り継がれた聖伝が機械の世界に一歩踏み出したのだろう。
 これはとても小さな一歩だ。だが、この一歩から人と機械は歩み始めるのだろう。
「とても信じられんよ。機械は合理性を追求するものじゃと思っていたが、案外そうでもなかったのじゃな」
「ええ」
 世の中、何が起きるのか解ったものではない。
 ミカエル、きっとあなたが夢見ている世界にほんの微かにですが、一歩近づいたのでしょう。
「「祝福しましょう」」
 どちらからともなく同時に発した言葉。議長が笑って応える。
「人と機械の未来に祝福があらんことを」
「全ての存在の未来に祝福があらんことを」
 未だ課題は山積みだが、この瞬間位喜びを共に分かち合おう。
 私や議長は司令室から出て人々のところに福音を知らせに行く。
 つい百年前まで不毛の地だった火星も今では作物が豊かに実る大地だ。太陽こそ遠いが、この地にも確実に光は注がれていた。
 百年間。
 実に百年の年月もの間、人々は信仰を守り、聖典を紡いできた。この地を開拓するのも容易ではなかっただろう。
 そして、今日も人々は解放の日を祈っている。いや、祈りはもう聞き届けられているのだ。
私達は人々の前に戦争の終結を伝えに行く。
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