第4話:里見敬之がケイティー結婚し2人の子供誕生

文字数 1,652文字

 1876年、里見敬之が20歳を超えた頃、ジャーディン・マセソン商会横浜支店で受付していた英国人美女ケイティーに一目ぼれ。その後、天涯孤独だった里見と同じ年のケイティーは、でデートを重ねて、里見のプロポーズを受諾して1876年10月1日結婚し横浜に大きな借家を借りた。 その後、里見とケイティーの2人の間には、2人子供が誕生。

 1877年6月7日生まれの長男の里見一郎と1879年4月17日生まれの次男の里見二郎が誕生。この頃、野沢屋では、里見が世話になった初代、茂木惣兵衛が隠居。その後、自分を育ててくれた2代目、茂木惣兵衛も大政治家になり遠い人になった。そのため1878年1月、里見は、生糸セールスで稼いで大金を手にし辞職。

 その後1878年3月、ジャーディン・マセソン商会から里見に吉田健三が警察に睨まれ東京追放になったと連絡が入った。そして現在、横浜に戻ってると知らされた。1878年4月に吉田健三を訪ねると懐かしそうに元気かと言ってくれた。里見が、どうしたのですかと聞くと
「イギリスで学んできた事を東京で始めると日本人金持ちの商売仇が増えた」。
「そして、お上に訴えられ、所払いになったと豪快に笑った」。

それでは帰りますと里見が言うと、お前の銀行口座を教えろと言った。なぜですかと聞くと、
「俺が死ぬ前に、お前に大仕事をさせたいから資金を提供すると豪華に笑った」。
「気持ちだけで結構ですと言っても紙に書けというので銀行口座番号を渡した」。

 秩父は山に囲まれた地形で稲作に向かないことから養蚕業が盛んだった。その後、秩父の織物は「秩父銘仙」と名前を変えた。そして、ほぐし捺染技術の開発により大胆で華やかなデザインの織物になった。里見敬之は、その秩父の織物に、一目ぼれした。そして、秩父銘仙は女性の間で手軽なおしゃれ着として全国的な人気を誇った。

「もし俺が死んでも、お前を見ているからケイティーと仲良くやれよと言い肩をたたいた」。
「気にかけていただき、本当にありがとうと言い横浜の吉田邸を後にした」。
「その後、毎月1万円、吉田さんが里見の銀行口座に入金してくれた」。
そして1878年秋から秩父の山間部へ泊まり込みで行き、質の良い秩父銘仙を探しに行った。


秩父「銘仙」の語源については諸説あるが1887年「明治20年」ころから太織は「めいせん」の名前で販売されはじめた。1889年、突然、吉田健三が亡くなったと訃報が入った。
「吉田健三と別れる時、言われた言葉を思い出し涙が止まらなくなった」。
「しばらく自分の机に突っ伏して、気が済むまで、泣き続けた」。

 後日、吉田健三さんの葬儀の情報を調べ横浜駅から近い久保山斎場での盛大な葬式に参列。自由党の名だたる政治家や総理団人も列席する中、里見敬之は、焼香を済ませ亡き恩人、吉田健三に哀悼の意を捧げ斎場を後にした。

 その後、1897年「明治30年」初期に秩父銘仙は、東京三越で販売された。この織物の商売で、里見敬之は、何回も秩父に足を運び、安く秩父銘仙を買って八王子や東京、横浜へ行って高値で売りさばいて稼いだ。その後、長女の里見二郎も兄と同じ慶應義塾で英語とフランス語、経済の勉強をして1900年に卒業し三井物産に入社。

 そして、里見一郎は、ジャーディン・マセソン商会に勤める同じ年のフランス人女性、カトリーヌと1898年4月11日結婚。しかし、里見一郎も二郎も小学校からセント、ジョゼフに通い、外人さんとの付き合いが多く、住んでいた横浜元町で外人さんの友達ばかりで日本人の友達がいなかった。そして、日本人社会の男尊女卑と外国人のレディーファーストのギャップがあった。

 里見二郎も兄と同じようで、ジャーディン・マセソン商会の明るくグラマーな米国人女性、1899年5月17日シンディーと結婚。里見一郎には、1899年5月22日、長男の正一1901年10月7日に長女の峰子が誕生。里見二郎には、1901年6月11日、長男の賢一と1903年9月7日に次男の富子が誕生。
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