第5話:日露戦争と米騒動勃発

文字数 1,584文字

 1904年2月から1905年9月にかけ日露戦争が勃発。これは朝鮮半島と満州の権益をめぐる争いが原因となって引き起こされた戦い。その戦争では、満州南部と遼東半島が主戦場となったほか、日本近海でも大規模な艦隊戦が繰り広げられた。最終的に両国はアメリカ合衆国の仲介の下で調印されたポーツマス条約により講和した。

 講和条約の中で日本は、朝鮮半島における権益を認めさせロシア領であった樺太の南半分を割譲させロシアが清国から受領していた大連と旅順の租借権を獲得。同様に東清鉄道の旅順から長春間支線の租借権も得た。しかし交渉の末、賠償金を得るには至らず戦後外務省に対する不満が軍民などから高まった。

 これによって日本は、大国ロシアを倒し世界の一等国の仲間入りをした。その頃、里見一郎の長男の正一と次男の二郎は、慶應義塾に入学。その後、1914年6月28日、ユーゴスラヴィア民族主義者の青年ガヴリロ・プリンツィプが、サラエヴォへの視察に訪れていたオーストリア・ハンガリー帝国の帝位継承者フランツ・フェルディナント大公を暗殺する事件「サラエボ事件」が起こった。

 これによりオーストリア・ハンガリーはセルビア王国に最後通牒を発するという七月危機が起こった。各国政府および君主は開戦を避けるため力を尽くしたが、戦争計画の連鎖的発動を止めることができず、瞬く間に世界大戦へと発展したとされる。そして、それまでの数十年間に構築されていた欧州各国間の同盟網が一気に発動された結果、数週間で主要な欧州列強が全て参戦する事となった。

 もしヨーロッパの戦争が広がれば、陸軍力と共に海軍力の強い国、有利になると考えた。そして、日本で船は、引っ張りだこになるはずだと予想。それを見込んで、船株を買おうと考えた。日本郵船と大阪商船、東洋汽船の株を大量に買おうと言うと里見敬之も賛成した。第一次世界大戦が始まると民間の船舶は軍用として徴発されたため大戦の長期化により船舶不足が深刻化。

 これにより海上運賃と船価が暴騰し船主や商船会社は巨利をあげ船成金を生んだ。老朽化した船でさえ引く手あまたの状態であり大戦前1トンあたり3円ほどであった船舶のチャーター料金は1917年には40円以上に高騰。船の建造価格もトンあたり50円位から最高1000円近くまで上昇。日本郵船会社は、1914年の純益484万円が1918年には8631万円に達した。

 同年下半期には11割「1回の配当金が株価の110%」と株価以上の配当。現代では、夢の様な配当を出した。しかし、1920年「大正9年」にこの好景気が終了。この船会社への投資の成功で1920年当時、里見家の資産が100万円、現在の価値で20億円となった。しかし日本国内では、1918年米騒動が起こった。

 肉や魚などの摂取が少なかった当時、日本人の食生活は穀物類が主体だった。特に肉体労働者は激務のため1日に1升もの米を消費したといい、米価の高騰は家計を圧迫し、人々の生活を困窮させていた。現・富山市では、1918年7月上旬から、256人の女仲仕たちが移出米商高松へ積出し停止要求に日参する行動が始まってた。

 7月22日の昼には、富山市中長江町ほかで富豪浅田家の施米にもれた2百名の女房連達が市役所に押しかけた。記事には、「昨今の米高が如何に細民をして生活難に陥らしめているが窺われる」と記されている。同日夜間、富山県下新川郡魚津町の魚津港には、北海道への米の輸送を行う「伊吹丸」が寄航していたという。

 この時、巡回中の警官の説得で解散させられたが住民らは米商店を歴訪するなど窮状を訴えた。荷積みを行っていたのは十二銀行「北陸銀行の前身」であった。その倉庫前には「魚津市の自然と文化財を守る市民の会」により記念碑が建立されている。*この情報は、当時の新聞から抜粋し記載しました。
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