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文字数 2,705文字

 


 ──空気の抜ける音と共に開けられた缶の蓋。むすくれたような顔のジルは、ベナンが買ってくれた『イエス☆マシュマロベイベー』という意味のわからない名前のジュースを一口飲む。
 マシュマロの味はしなかった。かわりに彼の舌が感じたのは爽やかなパイナップルの味だ。マシュマロもベイベーも関係ないが、まあこれはこれで美味しいので良しとしよう。

「ご、ごめんごめん。なんかつい面白くなっちゃって……」

「面白くなったで溺死させられかけたら警察はいりません」

「そ、そうね。あはは……」

 ジルがここまで怒るのは珍しい。まあ死にかけたのだから無理もないだろう。
 さすがに反省の色を見せるベナンは、彼の様子に内心焦る。このままでは、自分を助けに来てくれたことや、二ルディーを連れ戻してくれたことへの感謝の言葉が伝えられないではないか!(自業自得)

 どうしたものかと途方にくれたベナンは、やがて助けを求めるように壁際にて佇むオルラッドへ視線を向けた。大振りのジェスチャーでなんとかしてくれと頼む彼女に、助けを求められた彼は悩ましげな顔をする。

 こんな時、なんと言葉をかければいいものか……。

「……あ、そういえば、ベナン嬢。ここに俺たち以外の人物は宿泊しているかい?」

「え? いや、宿泊してるのはあなたたちだけよ。まあ、私と二ルディーもいるけど……」

 突拍子もなく突き付けられた衝撃の事実に、ジルは缶に口をつけたまま、器用にパイナップル味のジュースを噴き出した。そして噎せる。

「のっ、べっ、はあっ!?」

 上手い言葉が見つからない。そもそも言葉とはなんだったか、それすら忘れそうな程に強い衝撃を受けた少年は、口元を拭うことすら忘れてベナンに詰め寄る。

「お、女の子は? 黒髪の、白い服着た子は!?」

「へ? い、いないけど、そんな子……」

「正直に言っていいのよッ!!?」

 必死の形相でそう言うも現実は変わらない。
 絶望と共に白く燃え尽きてしまった少年にわかりやすく引きながら、ベナンは問う。

「い、一応聞くけど、その子どんな子だったの……?」

「……とても、綺麗な、黒髪が綺麗な、女の子。白い服着てた……顔は見えなかったけど、美少女であることを、俺は期待する……」

「うん、やっぱり知らないわね」

「ぬぅぉおおおお」

 頭を抱えて叫ぶ。
 やはり自分は呪われたのだ。この先の人生ではその呪いと共に生きていかねばならないのだ。何たる試練。なんたる絶望!

「神は俺を見殺しにするというのか……!」

「……ねえ、この子どうしたの?」

 さすがに暴走しすぎだと不安がるベナンだが、オルラッドの「いつもと同じだと思うが……」の一言で考えるのを放棄した。
 これがいつも通りだと言うなら、もはや何も言うまい。ベナンは一度咳払いすると、この微妙な空気を変えるように話題を変更する。

「そういえばさ、話は変わるんだけど、その、お礼……」

「へ?」

「……とりあえず口拭いて」

 そっとハンカチを取り出す。シルクのそれを有難く受け取り、ジルは言われたままに口元を拭った。

「それで、まあ、お礼なんだけどさ……」

 顔面に水をぶっかけられたお陰で髪と服は濡れたままだが、口元の汚れはどうにかなった。シルクのハンカチは今度返すと約束してくれるジルに、貰ってくれて構わないと微笑み、ベナンは膝の上にて両手を合わせる。手持ち無沙汰なのか、合わせられる指先に、恥じらう乙女を垣間見た気がする。

「二ルディーから話は聞いたんだけど、なんか大変だったみたいね。助けるつもりが逆に助けられちゃったし、暴走する二ルディーも助けてくれるし……いやぁ、自分が情けなくて恥ずかしいわ」

「安心してくれ、ベナンさん。ベナンさんのかっこいい勇姿はちゃっかりきっちり俺のマイ、ビデオレコーダー(心の中ver)に録画されてる。恥じることなんてないですぜ」

「その録画記録を今すぐ消去してくれたら嬉しいんだけど……いや、とにかく、その、ありがとね。それが言いたかっただけよ。そこのイケメンさんも。助けてくれたこと、感謝してるわ」

 ベナンの感謝に、オルラッドは一瞬目を見開いてから、微笑みだけを返す。その仕草に、ベナンの心臓に音を立てて天から放たれた矢が突き刺さったのを、ジルは確かに耳にした。

「ま、まあ、あの、で、その……そ、そういえば、予知夢だっけ!? なんかそ、そういうの使えるんでしょ!?」

「語彙力」

 凄まじい動揺に流石のジルも汗を流す。

 あからさますぎる反応もどうかと思うが、まあ、これはこれで面白いし良しとしよう。
 ニヤけそうになる口元を片手で覆い隠しながら、ジルは頷く。

「凄いわね! 二ルディーからは死亡フラグがなんとかって聞いたけど、それってつまり……」

 言いかけて、ベナンは何かに気づいたように言葉を止めた。その視線はジルを見ているはずなのに、見てはいない。

「……あ、そっか」

 彼女の様子に、その過去を断片的にだが垣間見たジルは、なるほど、と頷いた。

 ジルの記憶が正しければ、ベナンは何らかの病を持っていたはずだ。他者の顔を見ることができない、そんな病だった気がする。
 夢の中では治ったと言っていた病。しかし、あの時の様子と、今現在のこの様子から察するに、彼女はまた、別の病を発症しているに違いない。そしてその病は恐らく……。

「……見えるの、か」

 二重の意味で言った言葉なんだろうな、なんて今更ながら理解し、少年は缶に口をつけ、それを傾けた。爽やかな果実の味を堪能する彼の前、ベナンは視線を泳がせる。言葉が見つからない。まさにそういう感じだ。

「あー、その……つ、辛くないの? そういう、いろいろ、見ちゃうのって……」

 口には出さない、心の奥底に存在する少年の感情。
『助けてくれ』と泣き叫ぶ彼の心から目をそらすように、ベナンは視線を己の手元へ。眉尻を下げ、口を噤んで、瞳を閉じる。

 夢とはいえ、血塗られた、その生々しくも凄惨な現場。なんの前兆もなく突然目の前に突きつけられる『死の情景』には、どんな人間でも、きっと嫌悪感を抱くはずだ。それが身内に関係していることなら、尚のこと。

「……辛くないのかと言われたら、多分辛いとは思うけど……でも、これのお陰で助かった命があるのは確かだし……五分五分って感じかな?」

 辛さ半分、有り難さ半分。
 笑う少年に、ベナンはなんとも言えない表情になる。

 これは少年の強さなのか。それとも、抗えず、捨てきれないがために、歪めてしまった心情なのか……。

「……無理しないように、がんばりなさい。応援してあげるから」

 それは無情なる死を突きつけられる少年への、彼女から贈る、精一杯の励ましだった。
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