第3話

文字数 2,210文字

 ある日soleilのメンバーで慰労会という名の飲み会が居酒屋で催された。
 朋子は生活のスケジュールが狂う事を嫌がり不参加となった。スタッフから人望を得始めている百合恵は 
「朋ちゃん来ないの? 」
と心配して声をかけた。
「行かない。寝る時間が変わるから」
「うん、無理言わないわ。このグレープフルーツ私お昼に食べなかったの。朋ちゃん良かったらこれ食べて」
と百合恵は朋子に仲間だという意志を込めてグレープフルーツを1個渡した。
「ありがとう」
めを合わす事が苦手な朋子は百合恵の顔を見ずに礼を言って受け取った。
 そんな光景を貴久が温かく見守って居た。百合恵は貴久に手作りの弁当を手渡し、心を委ねて微笑みで返した。

 会場の居酒屋にsoleilのスタッフが集まり始めた。若い女性スタッフが 
「結城さんと百合恵ちゃんはここに座ってよー」と2人が並んで座れる様にセッティングしてひやかした。貴久と百合恵は照れながら並んで座り、テーブルの下の見えない所で手を繋いだ。
 終始盛り上がる中で2時間があっという間に過ぎ、店長夫妻は支払いを済ませた。
「2次会やるのかい? 」
「やりますよ! 」
若い女性スタッフの美幸が店長に答えると
「じゃあ、これ足しにしてくれ」
と店長夫婦は3万円を置いた。
「ありがとうございます! 」
スタッフ一同は2次会のバーに向かった。
 バーでそれぞれ飲み物を注文し終えると、それぞれカラオケの曲を選び始めた。いつもの仕事仲間が歌い段々盛り上がる中で
「百合恵ちゃん、何か歌いなよー」
と美幸が声を掛けた。百合恵は誘われるがまま曲を選んで歌った。
 百合恵の響く歌声は、バーの中の他の客も振り向く程魅力的な物だった。歌い終わると客の殆どが拍手し、
「お姉ちゃん、もっと歌ってー! 」
と百合恵をスター化した。
 貴久は最初め、百合恵の歌に心地良く聞き入って居たが、百合恵に親しげにしてくる数人の酔っ払いの客の行動を見てソワソワし始めた。
 百合恵は自分の歌でチヤホヤされる事の気持ち良さを初めて知った。しかし、貴久のソワソワを察して席に戻って貴久の脚に自分の脚を絡ませた。貴久はテーブルの下で百合恵の手を強く握り返した。

 飲み会の数日後、百合恵はあのバーで客達に自分がチヤホヤされた雰囲気を忘れられずに居た。貴久に『高校の友達と飲みに行って来る』と嘘を付いて、あのバーに行った。
「お姉ちゃん、絶対また来てくれると思ったよー! 」
客の1人のお洒落な身なりの男性が声を掛けた。
 百合恵は首輪を外された犬の様に、歌いまくった。歌えば歌う程チヤホヤされる…。この上無い快感だった。
 そして夜ふかしして次の日、勤務が体力の負担となった。
 貴久とあんなに毎日幸せに過ごして居たのに…貴久と顔を合わせる事が、まるで飼い主に『外した首輪を付けてください』とお願いしにいく様な気持ちになった。
またバーに行って注目を浴びたい…。そんな百合恵の心ここに在らずな様子に貴久は直ぐに気付いた。必死に百合恵を大切にして、プレゼントを贈り愛情表現をした。しかし貴久の必死の行動は、百合恵の貴久に対する愛情を冷まし
『私には彼氏が居る』と言うステータスとしてしか貴久の価値を見出せなくなった。
 百合恵のsoleilでの仕事は夜バーに行く為の資金稼ぎに変わり、仕事が雑になった。
 貴久はそんな百合恵を見ていて、自分達の関係よりも百合恵自身の事が心配になった。
 ある日、仕事の始まる前の休憩室で百合恵と2人きりとなった時に
「百合恵、どうしたんだ?百合恵らしく無いぞ」と声を掛けた。
「そんな事ないわよ」
と百合恵は貴久にキスをして作業場に行った。
 百合恵の仕上げるパンは雑さに拍車が掛かった。以前の技を必死で身に付けようとして居た様子は薄れて、決められた個数出来上がれば良いと、出来上がったパンがが物語っていた。百合恵の身体はsoleilに居ても心はバーに行っていた。
 
 ある日の夜11時頃、貴久は小腹が減りコンビニに行った。コーラとポテトチップスを購入して店を出ると、洒落た身なりの男性と百合恵が腕を組んで歩いているのを見かけた。2人の足は近くのビジネスホテルに向かって居た。
「ゆり…」
購入したばかりのビニール袋に入ったコーラとポテトチャプスが、貴久の手から滑り落ちてトソッと音がした。貴久は百合恵の方に手を伸ばす事が精一杯で、動く事も買った物を拾う気力も無くした。
 百合恵は貴久に気付き一瞬目を見開いたが、男とホテルに入って行った。
 貴久は自分のアパートにトボトボと歩いて帰るとベッドに静かに座って項垂れた首のまま数時間動かずに居た。暫くしてやっとの思いで心と頭を整理した。
 百合恵を心から愛して幸せにしたかった…。だから、百合恵には嘘を付かずに誠実で居て…ありのままの自分を…。
様々な思いが巡った。思いを巡らせているうちに何かに辿り着いた。
 百合恵を幸せにするつもりでして居た事って…百合恵が求めた物では無かったのかも知れない…。僕が勝ってに、そうすれば幸せになると思ってた事なのかも知れない…。
 今の貴久には『独りよがり』と思う事が、唯一現状を納得出来る材料だった。

 一方、百合恵は洒落た男との一夜を過ごしながら『私は憎んでいた母と同じ事を求めてしまう人間なのかも知れない…』と頭に過ぎったのを感じた。それを慌てて全否定し、
「貴久がつまらない男だったの‼︎ 」
と心の中で叫んだ。
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