14曲 Sekitou/(認知的不協和)
文字数 4,383文字
後ろを振り返ると、薫は歩くのを止めて立ち止まっている。
自分の意思で呼び寄せている訳じゃないんだから、咎めるような事を言われても困る。
できる事なら私だって身の危険を感じずに平穏に過ごして居たいだけなのに。
でも知ってしまったから。何も知らないふりをした所で、何かが解決する訳じゃないから仕方なく動いているだけなんだよ。
もやもやとした気持ちが波のように押し寄せてきたので、なんて言い返そうか考えていたのに。
予想だにしていなかった掛け声に、心を荒立てていた波がさざなみへと移り変わりっていく。
態とらしく大きな溜め息を吐き出した後、睨めつけるように視線を投げよこしてきた。
やっぱり性格悪いなぁ。やられっぱなしも癪なので一石投じてみる事にした。
つまらない回答。でも顔を観察してみると、瞳が少しだけ見開かれて唇が小さく震えている。
まぁ、そういうことにしておこう。もう目の前は家だし。
朝に家を出てから大して時間が経っていないはずなのに、玄関の扉を見ると何年振りかに帰ってきたんじゃないかと思うほどの懐かしさと安堵感が押し寄せてきた。それほどまでに私の心は張り詰めていたって事かな。
家の中に入ると、玄関土間に置き忘れたままの私の上靴が見えた。洗うのはもちろん、持って行く事すら忘れ去ってしまった事に気がついた。
改めて注意を向けてみると、靴底から白くて細い根っ子の様なものが無数に這い出ており、くるぶし位の高さまで伸びていた。
私が取るよりも先に薫の手が伸びて、汚染された上履きを摘んで外に置いてくれた。
薫を玄関に待たせたまま、使い捨てマスクと救急セットを取りに居間に向かった。
居室に入って目に飛び込んできたのは、椅子から転げ落ちたのか、フローリングで横たわって苦しそうにしている母親の姿。背中を丸めて浅い呼吸を何度も繰り返しているけど、何があったの?
母親は目元に力を込める様に瞑り、小さな息遣いが聞こえる呼吸を短い間隔でしているだけ。
私の動揺も他所に、母親の左腕を掴んで脈を測り始めてくれた薫。
薫はお母さんをおぶって居間から出て行く。
咄嗟の出来事に瞬時に対応できるのってほんとに頼りになるけど、私にも今できることがあるはずだ。私が今するべきことは……救急車を呼ぶことしかない。
バッグから携帯を取り出して緊急連絡先に繋いだら、落ち着いた声音の男性が応答してくれた。
『事故ですか? 事件ですか?』
『どこにお住まいですか?』
『あなたのお名…』
突然、相手の呼び声が聞こえなくなり左手で持っていた携帯電話が消えてしまった。
隣には寝室から戻ってきた薫が私の携帯を握りしめて、不愉快そうな顔をしている。
突然癇癪を起こしてきた薫は露骨な舌打ちまでしてきた。
最低な性格に言動だなと思っていたら、視界が一瞬ぐらついて歪んで見えた。
一瞬の隙に頬をビンタされたのか、じんわりとした痛みが頬にあり、じりじりとした熱を帯びている。
手がまた近づいてきたので、反射的に身構えたけど頬を叩かれることはなかった。
伸びてきた両手は私の両肩を掴んで離さないようにしている。
真正面で向き合う形になっている私たち。
薫の腕を掴んで引き剥がした。その場から抜け出して、寝室に移動させられたお母さんの元に駆け付けるも、先ほどと変わらない容態で脂汗を額から垂れ流している。
濡らしてきたタオルで、母親の顔を拭いてあげた。
来訪者を告げる呼び鈴の音が聞こえてきたので、急ぎ足で玄関まで駆けつけてドアを開け放った。
白い医療用の作業服とガスマスクを身につけた男性達が担架を携えて立っていた。
薫が後ろからやって来ては、私の声に被せるように大声で事実とは違うことを言い出した。
ほんとなんなのこの人? ありえなさすぎる。
改めて言い直したら、救急隊員は担架を担いで奥の部屋へと急いで行く。
ボソッと呟いた薫の表情を見ると、先程までの怒りは消えたのか苦渋に満ちていた。
私の問いかけに素っ気ない返事をよこしただけ。
それ以上の会話に発展する気はなさそうで、口を閉ざしたまま開け放たれた玄関の方に目を向けている。
そんな態度を表している薫に構うことを止めて、お母さんの元へと向かった。
タイミングよく担架に乗せられて部屋から出てきた救急隊員と鉢合わせた。
『今から搬送いたしますが、ご家族の方にもご一緒にお越し頂きたいのですが宜しいでしょうか?』
迷う必要は微塵もないから即答した。
門扉を抜け出た所に、リアハッチを開けたまま停車している緊急車両。車の様子を伺うように舐め回しながら歩いている姿の薫が目に入る。
その時に薫の背中に目がいき、負傷していたことを思い出したけど構う余裕を持ち合わせていなかった。車両の中に運び込まれていくお母さんを見届けたあと、私も続いて車内に入ろうとした所で、強い力で右腕を引っ張られた。
咄嗟に振り返って見ると、険しい顔をした薫が私の腕を掴んでいる。
腕を振りほどこうとするよりも早く、薫に思いっきり引っ張られた。
その弾みで私は体制を崩して倒れそうになった所を、後ろから抱きとめられた。
後ろを見遣ると、少し見上げた位置に薫の顔が目と鼻の先に迫っていた。
眉根は寄って怒りに満ちている様なのに目元は潤んでおり、口元は何かを堪えるように固く結ばれた、なんとも言い表しがたい表情。こんな複雑な表情を前にも見たな。
芳樹が似た様な顔をしていたっけ。あの時の私は話を聞くだけで何もしてやれなかったな。
それに忽然と行方をくらました大事な友達、円の事をすっかり忘れていた事に驚きを隠せなかった。予期せぬ事態だからといって目先の事ばかり気にかけていた。
更に私の一言で連行されていった元クラスメイトの事まで浮かんできて、蓋をしていた訳じゃないけど片隅に追いやっていた負い目までもが再燃してきた始末。
私は。私は……。
今、何を優先させるべきなんだろう。
誰の元に行けばいいんだろう。
たった一人の掛け替えのないおかあさん? いつも側にいてくれて他愛のない話でも気楽に過ごす事のできる親友? 私が吐き出した呪詛の様な言葉で、身を滅ぼしそうになっている元級友?
もうこの世には存在していないであろう幼馴染?
今、目の前に居る何度も窮地から助けてくれた口の悪い人?
抑えられていた葛藤が芽吹き始めて、今までの出来事が走馬灯のように呼び起こされて私に問いかけてくる。どうする? どうするのが正解?
いい加減にしていたつもりは全くなかったのに、なおざりな対応をしていたのは間違いなくて。
私自身がはっきりしてなくて、場の空気に流されて判断しているからよくないんだ。
『どうかなされましたか? 早く乗っていただけないと出発できないのですが』
車中から救急隊員の一人が咎める様に声をかけてくるも、私はまだ判断ができずにいた。
頭の中で様々な思いがぐるぐると掻き乱れる様に渦巻いているから、整理が追いついていない。
なのに刻一刻と状況は変化を遂げていく。私の意志とは関係無しに。
私が答えを出すよりも早く、薫が勝手に返事をしてしまった。
また、自分の意志でなくて誰かの考えに流されたままでいいの?
『いいんですね?』
救急隊員の射るような視線を浴びながらも、私は改めて答えを出す事にした。
今の私がするべき事を。誰といるべきなのかを天秤にかけて。
自分の意志で決めたんだ。
助けを求めているかもしれない円を探さないと。
私が行かなくたって、お母さんならこの人たちに任せておけばなんとかなるだろうし。
動き始めようとする緊急車両の後ろ姿を眺めていたら、先ほどまで開いていたリアハッチが閉じられた事により、ドア部に軍の所有物を示す甲のマークが入っている事に気がついた。
驚きのあまり甲高い声が出てしまった。
私の思いも他所に、徐々にスピードをあげて遠ざかっていく緊急車両。
薫の方を見遣ると、何かを否定する様に頭を左右に小さく振るだけだった。