一乃章ノ壱

文字数 6,014文字

 高沢(たかざわ)真弓(まゆみ)はいつもの帰り道を右に外れると、夜の公園へと足を踏み入れた。残業で遅くなったため、近道をしようというのだ。

「課長のヤツいきなり残業なんて」

 足早に歩きながら、つい悪態をついてしまう。今日は金曜日。定時で上がって今夜から彼氏と二人、のんびりと真弓(まゆみ)の部屋で過ごす予定だったのだ。それが、突然の残業で大きく予定がずれてしまった。
 遅れることをLINEで連絡し、彼から了承の返信も来ている。可愛らしいスタンプで「りょ」の返信だが、本心ではどこまで許してくれているかは分からない。
 なぜなら、彼女からの予定変更はこれが最初ではないのだから。

 就職し、この街で一人暮らしを始めて三年目。ようやくできた理想の彼氏だ。ここで逃すわけにはいかない。少しでも早く帰って、フォローしておくに限る。今からでも会うのに支障はない。明日は二人とも休日だし、なにより夜は長い。

 ――ガサッ。

 その音が聞こえたのは、真弓が公園の森を抜ける遊歩道に入ったときだった。
 思わず体が震えた。外から見ても分かるほど、大きく驚いている。

「……なによ」

 足を止めて辺りを見回す。だが、真弓の目には市中の公園にしては多い木の群れに、なんらおかしな点は見い出せなかった。
 人間とはおかしなもので、一度気になると妙に神経質になってしまう。今まで近道をすることしか頭になかった彼女の心に、初めて不用心だったという後悔が浮かんでいた。

 この公園は比較的大きな部類に属する。真弓の住むアパートに帰るには、この公園を横切って別の道に出たほうが、信号も踏みきりもなく早くつくのだ。朝の通勤で必ず通うルートだった。
 だがいまは夜だ。規模が大きな公園は夜になると別の顔を見せる。あまり通りたくない場所だった。事実、真弓は今まで、暗くなってからこの公園の中を通ったことはなかった。

 いまから引き返していつもの道を通ろうかとも思う。しかしそれでは、家に帰りつくのに十分以上の差がついてしまう。今夜の真弓にとって、時間は一秒でも惜しいのだ。
 真弓は意を決して歩き始めた。公園の美観を損なわないようにと備え付けられた街灯の光ではあまりにも心細い。それが、林に毛がはえた程度とはいえ森の中となればなおさらだった。
 何も考えないようにして無心で真弓は歩き続けた。走りこそしないものの、その歩みは競歩選手のように早い。
 そんな真弓の強がりも、次に「ガサッ」という音を聞いたときにあっさりと崩れてしまった。
 途端に足が止まる。恐怖が体を支配しはじめたのだ。

「な、なによ……」

 先程と同じ言葉を呟く。しかし言葉は同じでも声の震えが違った。
 現在、この公園に浮浪者はいないはずだった。半年前に少年グループが浮浪者狩りをやって、警察に捕まったばかりだ。
 それ以来、警察の巡回もあってか、少年たちが溜ることもなければ浮浪者がねぐらを求めてこの公園に姿を見せることもなかった。
 少なくとも、思い当たるような危険はいまの公園にはないはずだ。

「……そういえば、連続失踪事件ってこの近くじゃなかったけっけ」

 呟いて、真弓はしまったと思った。思い出さなくてもいいことを思い出してしまったからだ。この公園に入る前ならまだしも、こんな状態でそんなことを思い出してたらいたずらに恐怖心を煽るだけだ。
 だが、もう遅い。よけいな妄想だけが真弓の頭の中で繰り広げられる。

 若い女性だけが謎の失踪をとげる事件。マスコミは家族のことを考えて「失踪」の二文字にとどめているが、ほとんどの人間は「殺人」事件だと思っている。理由は単純。女性が失踪した場所に、大量の血が流れたと覚しき血痕があったからだ。ただ遺体が見つかっていないだけだと。

 ネットが発達した現在、警察やマスコミがどんなに隠そうとしても誰かが事件現場の写真を撮ってネットに上げる。あるいはマスコミから漏れる。野外で起こった事件なら尚更だ。
 最初の女性が失踪してから一ヶ月。輸血でも受けてなければ、生きているはずがない。
 真弓は想像力など小学校の卒業と同時に忘れて来たはずだが、なぜか今は取り戻していた。何が起こったかのかはっきりしない分、恐怖は増した。

「そうだ通話!」

 恐怖に支配された頭で、真弓はそれでもなんとか気を紛らわせる方法を思いつく。電話をすればいいのだ。誰かに電話をして、話しながら帰ればいいのだ。相手は誰でもいい。けどちょうどいいことに、真弓がどうしても電話をかけたい相手が一人だけいた。

 彼女はバッグからスマートフォンを慌てて取り出した。LINEを開いて彼氏とのトークルームを見る。最後にあるのは会社を出るときに真弓から送ったメッセージ。それに既読はついていない。
 忙しくてまだ見ていないのか、敢えて無視しているのか。それを見て真弓はため息をつく。既読スルーされていないだけましかもしれない。
 そして右上の通話アイコンを押そうとした時、目の前に人影が現れた。

「ひっ!」

 突然のことに、真弓は驚いてスマートフォンを落した。
 暗がりに立つ人影は随分と大きなものに思えた。それに細部が少々変だ。
 真弓は後ずさった。根をはやしたように動かない足をむりやり引きずって、ゆっくりと。それに合わせるように人影が進んで来る。
 頼りない街灯の明かりが人影の姿を浮き彫りにした。

 二メートル近くある筋骨隆々の体躯は、腕が妙に長く足は逆に短い。シルエットはゴリラに近いが、体に毛はなく青白い肌をしていた。体にのっている頭は体の割に小さく、頭部には一本の角が見える。

「いやぁぁぁぁ!」

 悲鳴が、真弓の口をついて出た。腰が抜けて地面に座りこむ。動くこともできず、目の前に現れた化物をただただ見つめる。助けを求めることなど、理性を失いかけた真弓には考えられないことだった。
 真弓は麻痺しかけた思考の片隅で、目の前の化物を〈鬼〉と認識した。彼女の知っているかぎり、頭に角の生えた人型の動物は確認されていない。いるとすればそれは〈鬼〉と呼ばれている架空の生き物だけだ。

 そこまでが真弓にとっては限界だった。現実にあり得ないものを認識してしまった真弓の本能は、人間に備わる防衛機構のうちの一つを働かせた。本能が危険に遭遇したときにとる選択肢は三つ。
 一つ目は対象への攻撃。二つ目は対象からの逃亡。そのどちらも叶わないとと分かったとき、本能は三つ目の選択肢を選ぶ。
 すなわち意識を閉じ込め気絶する、という選択肢を。
 真弓の体から力が抜けた。座りこんだ姿勢から、そのまま仰向けに倒れる。

 〈鬼〉はそんな真弓の様子を意に介したふうもなく、ゆっくりと近づいていく。
 気絶したことは真弓にとって逃げる手段を完全に失ったということにおいては不運だった。だが、これから自分の身に起こることを知らないですむという点においては幸運かもしれなかった。
 大きな〈鬼〉の手が、真弓に伸びる。

「困るんだよな、アンタみたいなのがいると」

 だが、その手は真弓(まゆみ)に触れる前に止まってしまった。背後から聞こえた声に、〈鬼〉が思わず振り向く。
 少年が立っていた。癖のない髪の毛に痩せた顔立ち。そこそこの長身だが、はっそりとした体つきをしてるためパッと見は小柄に見えた。学校帰りなのか、制服とおぼしき紺色のブレザー姿に身を包んでいる。

「この世界に干渉したいんなら、ちゃんと手続きを踏んで出てこいよ。〈世界法則(プロヴィデンス)〉を無視してこの世界に現れるのが許されないことぐらい、知ってるよな。
 アンタさぁ、誰にも召喚されてないんだろ?」
「……キサマ、護法師(ゴホウシ)カ」

 耳ざわりな音を立て〈鬼〉が喋った。その言葉は不明瞭だ。

「ご名答。賞品は滅殺と封殺があるけど、どっちがいい?」

 少年は、皮肉な笑みを浮かべた。

「若造ガ」

 〈鬼〉が動いた。僅かな予備動作の後に跳んで、少年との間合いを一気に詰める。下からの突き上げるようなひと薙が少年を襲った。
 少年はそれに驚いたふうもなく、右足を軽く後ろに引いて体を左半身(ひだりはんみ)にする。紙一重の間隔で〈鬼〉の右腕が過ぎ去っていく。

「図体の割に、素早いのは認めてやるよ」

 少年が言い終わるのと同時に、振り上げた〈鬼〉の腕が少年めがけて迫って来る。
 〈鬼〉の腕の動きに合わせ受けるように、少年は左手を上げた。強烈な衝撃が少年を襲おうとした瞬間、〈鬼〉の腕の下潜るように体を反時計回りに回す。そして〈鬼〉の腕に擦りつけるように、左腕を振りおろした。

「ヌオ……!」

 少年の腕は触れているだけなのに〈鬼〉はそれに引っ張られるようにして一回転。そのまま宙を舞った。何もできずに地面に激突する。
 〈鬼〉はすぐさま立ち上がった。再び跳躍して間合いを詰める。今度は左右の腕を使ったコンビネーションで、少年を襲った。
 だが少年はすべてそれを紙一重で躱す。

〈鬼〉は焦り始めていた。攻撃が次第に大振りに、そしてぞんさいになっていく。〈鬼〉の攻撃に隙ができた。大振りのあまり体勢に無理が生じ、下半身(かはんしん)ががらあきになっていた。
 少年は突如体を沈めると左足で地面に弧を描いた。それは〈鬼〉の足がある場所を刈り、化物の体を宙に浮かせる。

 そこから少年は左足ごと体を半回転させ〈鬼〉に背を向けた。今度は左に軸足を移しながら立ち上がろうとする。そして前屈みの姿勢から、そのまま右足を背後に蹴りあげた。
 刹那、右足が微かな光を纏った。
 右の踵が燐光の軌跡を残しながら、〈鬼〉の胸板にのめり込む。どのような力が働いたのか〈鬼〉の巨体は背後に吹っ飛んだ。

「クッ……ハッ」

 〈鬼〉は苦しそうに呻いて地面にへばり付いた姿勢で少年を睨む。
 対する少年は、何事もなかったかのような出で立ちで〈鬼〉を見据えていた。

「どうした、そんなものか? ならそろそろ終わりにしよう」少年はゆっくりと歩き出した。「お前は調子に乗り過ぎた。〈世界法則(プロヴィデンス)〉を無視してこの世界に具現したばかりか、殺しまで犯した。護法(ごほう)周防(すおう)の名において、お前を滅殺する」
「ヌヌヌヌヌヌヌォォォォォォォォォ!」

 突如、〈鬼〉が吠えた。その声は重く低い。同時に人間の可聴域をはるかに下回る低周波音が生まれ、物理的な圧力を作り出し少年を襲った。

「くっ!」

 内臓を揺さぶられるような感覚に、思わず少年の足が止まる。このまま〈鬼〉の咆哮を受け続ければ振動により体は揺さぶられ、内蔵は破壊されるだろう。
 少年は背後に倒れている女性のことを思った。自分だけならこの中でも動けるが、一般人に長くは耐えられまい。

 少年は〈鬼〉を見据えたまま、ゆっくりと鼻から息を吸った。長く静かに吸い、同じだけの時間をかけて吐き出す。そして下腹部の丹田に収めた自らの内氣と、呼吸で吸いこんだ外氣を練り合わせ両手に伝えた。

()っ!」

 ――ぱんっ!

 突き抜けるような音が、少年の打ち合わせた両手から響いた。気を込めた一拍手の音が〈鬼〉の咆哮を打ち消す。
 少年の体が揺れた。一気に気を放出した反動に加え、思いのほか〈鬼〉の咆哮が効いていたらしい。思わず膝をつく。

 咆哮を打ち消され〈鬼〉は驚いていたが、少年に生まれた隙を見逃すようなことはなかった。しゃがんだ姿勢から力を振り絞り、最後とばかり間合いを詰める。そして反応の遅れた少年に向かって渾身の一撃を放った。
 それは、少年には決して避けられないタイミングでの一撃だった。遅いと知りつつも少年は防御姿勢を取った。

「――?」

 だが、〈鬼〉の一撃は少年に届くことはなかった。少年の背後から突き出された腕に、がっちりと止められていた。

「ツメが甘ェンだよ」

 少年の背後から声が聞こえる。

「余計なことをするな〈牙影(がえい)〉」

 堅い声で少年が言う。
 〈鬼〉は少年の背後に突然あらわれたものを、驚いたように見つめた。

 背は〈鬼〉を頭半個分ほど下回るくらい。西洋の甲胄を思わせる外観をしている。だが、実際の甲胄に比べ、繊細な印象を受ける。顔はSF映画に出で来るロボットのようであり、黒く艶のあるボディがそれを印象付けていた。
 人間の顔の条件を満たしているが目のみで口や鼻はなく、仮面をつけているような印象を与える。両目は横長の楕円で、縦に筋の入ったガラスのようなもので覆われていた。それが、仮面であるという印象に拍車をかけている。

 そして〈牙影〉と呼ばれた黒い甲胄もどきの足は、地面に半ば埋まっており、少年の影から生えていた。街灯の光量では作りえないほど、濃い影の中から。
 いや、生えているというよりは影が起き上がったと見る方が正しいのかもしれない。その証拠に少年の影には上半身(じょうはんしん)がなかった。

 〈牙影〉が〈鬼〉を殴った。繊細な印象からは想像できないような力が〈鬼〉の顔面に炸裂する。だが、〈鬼〉は力学に則って吹っ飛ばない。〈牙影〉が腕を掴んでいるからだ。
 〈鬼〉の腕は太く〈牙影〉の手で握り込むことは不可能だ。しかし〈牙影〉の指がめり込むことで〈鬼〉の腕を掴んでいた。

「とっとと片付けろ。それとも俺を纏うか?」

 〈牙影〉の声にはからかうような響きがあった。

「必要ない」

 少年は立ち上がると呼吸を瞬時に整えた。内氣が体内をかけめぐり精錬されていく。
 少年の準備が整ったのを見届けて〈牙影〉は〈鬼〉を放した。〈牙影〉の一撃を受けた〈鬼〉は、思うように動けない。

 少年が動いた。右足を大きく踏み出し左右の爪先を軸に足を九十度回転させる。同時に腰を落とし、右足の踵が強く地面を踏んだ。踏み込んだ力の反作用が右足を通じて迫り上がって来る。
 その動作に遅れること僅か、少年の上半身(じょうはんしん)も右腕を突き出す感じで回転した。回転で生み出された力と反作用で生み出された力。それが内氣と合わさって、螺旋のようなうねりを持った力を生みだす。
 その力は少年の肩を通って、剣印を結んだ右手へと向かった。

「哈っ!」

 掌底のように繰り出された剣印が〈鬼〉の体に触れる。刹那、剣印を中心に光輪が生まれた。光が〈鬼〉の体を包み体を分解していく。数瞬後には、〈鬼〉は跡形もなく消え去っていた。

「礼は言わないぞ」

 少年は背中越しに言った。完全に実体化した〈牙影〉が、軽く肩をすくめてみせる。

「期待なんかしてねェよ。で、あの女はどうするよ?」
「近くの交番にでも届けてやれ」

 そう言って、少年はそのまま立ち去ろうとする。街灯の下を歩く少年に影はなかった。

「おい、オレがか!?
「そうだ。置くだけならお前でもできるだろ」

 それ以上は何も言わず、少年は去っていった。

「ケッ。ホント可愛いくねェガキだぜ」

 〈牙影〉は真弓が倒れている場所までくると、そっと彼女を抱きあげた。そして何を思ったのか辺りを見回す。

「あれの方が楽か」

 そう言うと、〈牙影〉は木が作り出す影の中へ真弓ごと入っいった。文字通り地面を突き抜けて。
 誰もいなくなった公園の遊歩道に、真弓のスマートフォンだけがポツリと落ちていた。
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