この世界は、本物のディストピア

文字数 2,031文字

 ある時、足の不自由な人がバスに乗っていた。
 後から車椅子で乗車する人が居た。自分では車椅子を動かせないくらい、重い障碍の有る人の様だった。
 足の不自由な人が座っていた座りやすい席は、車椅子を固定する為の場所だったから、杖を突いた人が席を動く事になった。それも、既に乗客が増えていた分に、タイヤ付近の足場の悪い席へ。しかもそのバスは窒息しそうなほど混雑する時間のバスで、健康な人でも危ないくらいの時間帯だった。車椅子の隣に立っている人が倒れ込む事だって有り得ないわけでは無いし、そうなれば健康な人だって怪我をする。勿論、介護タクシーは有るはずだけど、バスの方が安いからなのか、タクシーの方が高すぎるからなのか、それとも社会参加の為なのかは分からないが、とにかくそうした物は役に立っていなかった。
 なにより、世の中は優しくない上に、こうもバスに詰め込まれる人間には余裕など無い。ただ、黙っているだけで。
 そう、世界は優しくないし、世の中に本当のバリアフリーなど無いのだ。誰もが何処かで折り合いを付けて少し我慢するしかないし、障壁を取り除く事によって生じる危険にも目を向けて行動しなければならない。結局のところ、なんとなく共生してそれとなく協力する、それが今の世の中の限界であり、おそらくそれが現状の最適解なのである。
 ……すし詰めのバスの四席が一人の乗客の為に用意され、その為に少し不自由なだけならとしわ寄せが起こる。おそらくその光景が私の疑念を爆発させ、ディストピアを描く事を揺るぎない物にさせたのかもしれない。

 私がエクストリームメタルを聴く様になったのは、ユートピアの担い手を育てるはずの学校に通いながら、ディストピアを見た事がきっかけだったのだ。やり場のない感情の塊を溶かしてくれる、傍から聞けば騒音の様な激情に身を委ねていたかった、ただそれだけが始まりだった。
 そしてそれは、真面目に勉強すればするほど厭になる学業の数少ない慰めだった。手のひらに収まる小さなオーディオとイヤホンが有れば、一握りの中に無数の音楽を持ち運べた。
 だが、そんなのは若気の至りの序の口に過ぎなかった。
 本物のディストピアを、不条理を、私はまざまざと目撃したのだから。

 全ての人間に優しい世界など存在しない事の証明を突き付けられていた頃、私は一通の手紙を書いた。差出人はその時の私、宛先は卒業式の日の私。だが、その手紙は遂に届かなかった。
 その手紙を書いた講義を担当していたのは、その当時一番偉い立場に居た先生の教え子の先生。だけど、その先生は学期の半ばから体調を崩しており、臨時で講義を受け持つ事になった偉い先生からは、出勤しておらず困惑しているし心配していると言った旨の発言が出ていた。その学期の後、暫く私も学校に行っていないので詳しい事情は分からない。だが、その年の夏休みの終わりに発行された学校の会報誌の片隅に、その先生が退職した事を告げる人事異動の告知が掲載されていた。
 心理的な健康が如何に大事かという事を説いていた先生が何の挨拶も無く、突然に退職した。欠員を埋めるべく新しく任命された先生は居たが、急な人事異動に困惑していたのは、多分この先生だったのだろう。なにより、人と人のつながりによる援助という物を説いていたはずの先生の教え子が、こんな不義理な形で突然に職場を去ったというのが、途轍もなく皮肉な話だった。
 そして、良き教え子である事と良き指導者である事を両立させようとする事が如何に困難であるか、まざまざと見せつけられた様な気分になった。
 今となっては、あの時の手紙がどうなったかを知る術は無く、あの時の私が何を書いたのかも分からない。ただ、その当時あれこれと書き殴っていたブログ記事の残骸だけが、今も何処かのサーバーに格納されていて、私だけが知るパスワードの向こう側に残されている。私の本心の、本物の激情の残骸が。

 ……思い返せば、一年生初っ端の研修の日だってそうだった。ただちょっとしたアレルギーがあるだけで、私一人だけが弁当を持って行く事になっていた。手間も予算も学校が負担してくれる昼食のはずが、私には有難くなかったし、それどころか、周りの皆が一斉にエビフライを食べていると、流石にアレルギーの誘発を心配した。つまり、世の中は全ての人間に優しくないし、そんな理想論は存在しないのだ、あの帰宅ラッシュのバスの中の様に。
 それでも教師が理想論を語るなら、教え子はそれを実践しなければならない。その矛盾を埋める術が見つからなければ、ただ無力に陥るとしても。
 しかし、私は幸か不幸かそういう立派な恩師を持たなかった。それどころか、この反骨精神と無駄な器用さだけで学業を生き抜いた。
 私にとっての大学生活とは、インテリによる知識と技術によるサバイバルだったのかもしれない。
 だが、それでも構わない。良き教え子である事が苦痛である位なら、悪しき教え子で結構なのだ。
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