第6話 たとえ話

文字数 2,646文字

 取材中に、たとえ話の難しさを実感したことがある。

 学生向けの冊子に、研究職の仕事を紹介する記事を書くために、取材をさせてもらったときのことだ。
取材の相手は、製薬会社で薬の研究開発をしている研究者だった。研究者さんはとても協力的で、学生にわかりやすいようにと、たとえ話を使って仕事内容の説明をしてくれた。が、ちょっとピントがズレていたため、かえって話がわかりづらくなってしまった。

 わたしはまず始めに、研究者さんに「どんな仕事をしていますか?」という質問をした。これに対し、研究者さんの第一声は「カレーのレシピづくりのようなことです」だった。カレーとな? 困惑するわたしをよそに、カレーのレシピの話がしばらく続いた。

 研究者さんの話をまとめると、家庭用の鍋を使って家でカレーを作るときと、キャンプ場で大きい鍋を使って作るときでは作り方が違うように、薬も、実験室で少量だけ開発するときと、工場で量産するときでは作り方が違うということだった。単に新しい薬を開発するだけでなく、工場で量産できるよう考えながら開発することが研究者さんの仕事だそうで、それをわかりやすく伝えるために「カレーのレシピづくり」と表現したというのだが……。

 うーん、ちとわかりにくい。わたしは尋ねた。

「薬のレシピは具体的にどう作りますか。たとえば具を変えてカレーを作るように、A、B、Cと作っていきますか。それとも、具は同じで味のパターンを変えるように、1種類を何パターンか作っていきますか」

 研究者さんの回答は、そのどちらでもなかった。薬の開発というのは、何万種類もある薬のなかから候補となる一つを見つけ出すことから始まるそうで、その“見つけ出す”ことが研究者さんの仕事ということだった。

 わたしは、もう1つ質問した。

「開発した薬を工場で量産するとき、研究者さんはその場にいませんよね?」

 研究者さんの回答は「いや、そばで見守ってますよ」だった。「実験室で上手くいっても、実際に作れなければ意味がないので、工場へ行って最後まで見届けます」とのこと。しかも、現場の人に、注意点などの指示を出すこともあるという。

 ぜんぜんカレーのレシピと違うがね、とわたしは思った。家庭でカレーを作るときと、キャンプ場でカレーを作るときの違いは、鍋の大きさと材料の分量だけである。作り方も簡単で、プロのカレー屋さんに見守ってもらわなくても、カレールーの箱に書いてあるとおりに作っていけば完成する。

 研究者にしかできない薬の開発を、誰でも手軽に作れるカレーのレシピにたとえるのは、わたしにはどうもピンと来なかった。だから丁重にお願いして、カレーづくりにたとえるのは却下させていただき、「薬のレシピ」という言葉を原稿に使わせてもらうことにした。

 たとえ話を効果的に使うのは、なかなか難しいもんなんだな、と思った。このときのわたしは、たとえ話をされる側だったが、する側として難しさを実感した経験もある。いや、する側ではなく、できなかった側かな。

 それは、知り合いのカメラマンに頼まれて、子どもの空手大会の撮影を手伝ったときのことだ。手伝ったといっても、わたしがカメラを構えたわけではない。撮影したのは知人で、撮った写真をすぐにノートパソコンに落としてスライドショーで見せたいから、その管理をしてほしいと頼まれた。要するに、パソコンの番人である。

 わたしがパソコンの番をしていると、兄弟の応援に来たらしき3、4歳ぐらいの女の子が近づいてきた。
パソコンの真ん前に立って、しばらく写真を眺めていたのだが、退屈になったようで、ふいにパソコンに触れて「あちッ!」と手を引っ込めた。わたしが「危ないから触らないでね」と注意すると、彼女は言った。

「ねぇねぇ、これ、なんで熱いの?」

 わたしは固まった。モーターが動いて熱を持っている、などという説明を未就学児にするわけにはいかない。が、わたしは子を産んだ経験も育てた経験もなく、保育士でもないので、子ども向けの説明の仕方がわからない。とっさに出た言葉は、

「こッ、こッ、こッ、ここのところに機械が入っててね、その機械が動くと熱くなっちゃうんだよ」

 わたしゃニワトリか、情けない……。彼女は真顔でわたしを見つめていた。純真な無言の圧に耐えながら、頼むからもうどっかへ行ってくれ……と念じていると、近くにいた道着を着た小学校高学年ぐらいの少年が、彼女の前にしゃがんで言った。

「人間ってさ、空手やったりとか走ったりとかすると、心臓がドキドキして体が熱くなるじゃんか。パソコンもおんなじで、一生懸命動くと熱くなるんだよ」

 わたしは再び固まった。少年のたとえ話が的確すぎて、自分が不甲斐なさすぎて、ぼうぜんとした。女の子は納得がいったのか「ふぅン」と言って小走りで去っていき、少年は「じゃッあねー」とスキップしながら去っていった。残されたわたしは「すごいな……」と腕組みをした。

 わたしは考えた。はたしてノートパソコンを開発したエンジニアが、パソコンがなぜ熱くなるのかを、
少年のようにわかりやすいたとえ話で説明することができるだろうか? と。わたしほどはひどくないにしても、カレーのレシピ程度にはピントがズレてしまうのではなかろうか。知識に頼りすぎると、柔軟に発想することができない。知識に頼らなすぎると、つかみどころがなくなる。いいあんばいで、たとえ話をするのはなかなか難しい。

 空手少年にあのたとえ話ができたのは、子どもだからなのか、生まれ持った才能なのかはわからない。ただ、今からでも得られるものなら、わたしも少年のような能力を得たいと思う。

 発達心理学者の麻生武(あさおたけし)氏の著書『「見る」と「書く」との出会い ―フィールド観察学入門』(新曜社)という本に、こんなことが書かれている。

<子どもの世界で起こっていることの重要な点あるいは本質にふれるのは、おとなの側で、動きのイメージによってとらえることが必要になる。それは、言語以前の精神機能であり、視覚よりもむしろ、触覚運動感覚に負うところが大きい。それ故に、子どもと一緒に走り、手を動かし、体を動かすことにより、子どもと体験を共有することが、子どもの世界をとらえるのに役立つ。>

 つまり、少年と同じことを体験し、同じ感覚を共有すれば、少年と同じ能力を得られるかもしれないということだろうか? だったら、わたしも空手を習ってみる……のは無理だから、せめて道着でも着てみようかな。


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