後半43分

文字数 2,585文字

 グリニッジFCのディフェンダーであるトーマスが「しまった」と思った瞬間にはもう手遅れだった。ストックポート・ユナイテッドのブラジル人フォワードがピッチに叩きつけられる前に一瞬、「しめた」という顔をしたのを見て、体中の血が逆流するような思いに駆られた。トーマスがゴールキーパーに出そうとしたバックパスをさらおうとしたフォワードを、ペナルテイエリア内でタックルを引っ掛けてしまい、PKを相手に献上してしまったのだ。
 強面の主審がトーマスにレッドカードを突き付けた。試合終了も近い後半43分にピッチを去ることなど、今のトーマスには全くもって関係なかった。それよりもスコアレスドローと勝ち点1を持ってロンドンに帰れそうだったのが、全て水の泡になりそうなのだ。2部降格の危機に瀕しているグリニッジにとっては虎の子の勝ち点1だった。
 誰にも視線を合わさぬよう俯いたままピッチを離れる。悪い想像ばかりが引き起こされた。もしも今日敗れたのが尾を引いてクラブが降格すれば、戦犯である自分は間違いなく首を切られる。トーマスのグリニッジとの契約は今季末までだった。「降格の戦犯」という不名誉な称号を抱えながら新たな所属先を探すころには、妻が初めての子を出産する予定である。
 トーマスは誰もいないロッカールームで柄にもなく天に祈った。彼に今出来ることはそれだけであった。主よ、我が罪業(trespass)を、いや、我がバックパス(back pass)を赦し給え。


 店の壁に設置された36インチ・テレビのなかで、トーマスが犯したバックパスからファウルまでのリプレーが繰り返し流れる。サッカーに不得手らしい、ブリジットという栗毛の女にアンソニーがPKについて説明する。2人と同じ卓で飲んでいるニックは、アンソニーが説明の最後に「でも案外こういう切羽詰まった時に限って入らないんだ」と言ったすぐ後に、こちらに視線を向けたのを見逃さなかった。間違いない。アンソニーは確実にストックポートが均衡を破るほうに賭けている。いつもアンソニーが自分が思惑と反対のことを言うのは、彼なりの験担ぎなのかもしれない。
 ハイスクールに入学したその日に意気投合した二人は、常にともに行動し、毎日サッカーから女の好みに至るまで語り明かした。そしてアンソニーはニックから口喧嘩を、ニックはアンソニーから拳の喧嘩の指南し合い、学校の片隅で息を潜めていた2人は卒業するころには学校の全員を片隅に2人で追いやった。
 「いや、こういう時はちゃんとゴールネットに収まるよ。PKなんて90パーセント入る。状況なんて関係ないさ」
 ニックが気の置けないアンソニーに手の内を明かすことになんの躊躇は無かったが、一つの問題が浮上した。アンソニーが明らかにブリジットを口説こうとしていることだった。なにを隠そう、ニックもそうだからだ。2人とも喧嘩は負け知らずになった今でも、女に関しては勝ち知らずだった。女をとるか、相棒に華を持たせるべきか。それが問題だった。だがニックに妙案が浮かんだ。
 「俺この試合にいくらか賭けてるんだけど、当たっても今日は一人でさっさと帰ろうと思う」
 「なんだニックも張ってたのか。俺も当たっても今日は帰るかな」
 サッカーもギャンブルも分からないブリジットであったが、自分を挟む男2人の間に何かが交わされたことは、直ぐに察しがついた。 
 

 店の奥でテレビとその手前のテーブルに就く3人を、ダニエルは素面のまま静かに見つめていた。きっと赤毛のガキがストックポートの勝ちで、痩せっぽちがドローにベットしているのだろう。そして2人の間に居る女を勝ったほうが口説くのだろう。
 ストックポートの勝ちとドロー、双方に賭けているダニエルにとって、それは実に滑稽な様子だった。イングランドのプールズ(英ではサッカーくじをこう呼ぶ。トトカルチョは大陸での呼び方)では、試合ごとに「ホームクラブの勝ち」、「ドロー」、「アウェイクラブの勝ち」という3つの結果に分けて賭けるのがオーソドックスだが、決して1つに絞らなくてはいけない規則は無く、「アウェイのグリニッジの勝ちだけは無い」と踏んだダニエルは当然のようにホーム勝利をしめす「1」と、ドローを意味する「X」にマークしてくじを購入した。確実性のない賭け方を知らない2人は甘ちゃんに思えた。
 そもそも友達や女をギャンブルに巻き込むやつは、ギャンブラー失格だとダニエルは考えていた。ダニエルはサッカーくじで仕事も女房も友人も全てを失った。俺はどうしてこんな酔狂に身をやつし、孤独を好むのだろうかと聞かれれば、配当からビールを買うためだった。
 試合が終了して20分ほど胴元が不正が無いかを確認すれば、取扱店のレジで配当を得ることが出来る。そこで手にした現金で、その場で買って飲むビールは、遥かエルドラドで注がれたかの如く黄金色に輝き、桃源郷に旅立てるかのようなのど越しを自らに与えた。
 勝敗と無関係のダニエルは早く試合が終わることだけを願って、テレビを見つめていた。そして今日久しぶりにありつける、全てを捨てて得た味を夢想した。


 25年以上スポーツバーで店主をしているマイケルにとって、客の顔さえ見ればどんな予想内容のサッカーくじを買っているかなど、手を取るように分かった。そしてサッカーくじを買う人間は一概に皆馬鹿だと思った。当たれば祝い酒を浴び、外せばやけ酒をあおる。どのみちこの店で観戦するくじ購入者は同じようの酒にありついて、同じように酔うのだ。そんな連中に酒さえ出せば勝敗に関わらず銭にありつける商売をしている自分が、この試合の一番の勝利者だと確信した。
 急いでジョッキを準備した。このあとどっさり注文が来るはずなのだ。あとは「あんたはいいクラブを応援してるな。間違いなくあと5年以内にビッグイヤー(欧州チャンピオンズリーグのトロフィー)を掴むね」や「たかがサッカーの1試合さ。君のように一喜一憂できるファンがいてサッカーも幸せだろう」と、勝者敗者どっちにも良い顔をするだけだった。
 店内から歓喜と悲鳴が飛び交う。とうとうストックポートのキッカーが蹴ったようだが、マイケルにとっては結末などどうでも良かった。ひとつ思うのは今日の試合のような最後まで勝敗が分からないような試合がもっと生まれれば、更にレジが潤うのにという願望だった。
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