イチローの日の思い出

文字数 2,194文字


 57、58、59…。秒針が時計のてっぺんを通過して、日付を跨いだ。2019年5月1日、義晴が生まれた時代の年号が終わった。もうこれからは確実に「次世代」になる。そう思って日めくりのカレンダーをめくると月の「5」と日の「1」に目が行った。…51。今日は日本の象徴たる天皇陛下が退位される日であったが、「51」は義晴の少年時代を象徴する人物が背負った番号だった。

他愛の無い記憶が蘇る。小学校に登校すると、友達が興奮気味に義晴に話しかけてきた。
 「義晴、大変だ!イチローが佐々木のいるシアトル・マリナーズのスプリングキャンプに参加するんだって!」
 1999年の冬だった。1年生の教室の野球少年たちはその話題で持ちきりだった。
 「イチローなら野手だけど、通用するかもしれないね」
 当時大リーグに挑戦した日本人野手は皆無だった。しかし、既に6回首位打者に輝いていたイチローは国内では敵無しで、イチローの事だから「もっと強い奴とやりたい」くらいのことは言いそうだと思った。イチローが海を渡ったのは、その2年後の春だった。結果は「通用」なんて言葉は遥かに凌駕していた。MVP・新人王・首位打者・盗塁王・シルバースラッガー賞・ゴールドクラブ賞を獲得した。この時点でイチローは我々野球少年を未知の領域に連れて行った「野球の神」となり、打席上でバットを突き立てるルーティンを真似ては、イチローへの「帰依」を示した。もはや野球は「イチロー紀元前」と「イチロー紀元後」に分かつ偉大な存在になったのだ。


 イチローがスプリングトレーニングに初めて参加した年から10年の歳月が経過し、中学生になった義晴の目の前ににわかには信じがたい姿がテレビに広がっていた。イチローが世界の選手を相手に苦戦しているのだ。常に「神」として我々迷える子羊のために魔法のバットで数々の安打を放ったイチローの姿が第二回ワールド・ベースボール・クラシックには無かった。チームメイトはイチローを励ますべく、イチローと同じようにズボンのソックスを上げ、無言のエールを送るような状態だった。
 「イチローが苦しむなんて」
 中にはそんなイチローの姿を見たくないという声もちらほら聞こえた。きっとイチローという「神」が苦しんでいる、衰えているという現実を受け入れられなかったのだ。いわばイチローの「人間宣言」だった。これだけでも信じられないのだが、このWBC決勝でさらに義春は我が目を疑う光景を目の当たりにする。10回の表、二死一・三塁という場面でイチローに回ってきたのだ。今までの不振はすべて今日のこの場面の前段であり、全てをチャラにするべく、俺はここで打つ。そんな意思を持った目だった。いくつかのファウルを挟むとイチローは「バッティングの基本はセンター返しさ」と、世界中の野球少年に見本をみせるようなタイムリーを放ち、2人の走者を生還させた。義春は運命や巡り合わせといったものを基本的には信じない性格だったが、この時ばかりはそうしたものを感じた。イチローの新たな「神話」がまた生まれた瞬間だった。


 イチローが決勝で起死回生の適時打を打ってからさらに10年後の2019年、東京にイチローの所属するマリナーズがやって来た。アスレチックスとの開幕2連戦を東京ドームで行うのだが、イチローのヒットはここまでわずかに2本だった。白髪は増え、明らかに筋肉の落ちたイチローは、ヒット1本さえ放つのが難しい状態だった。それでも懸命に球を見極め、腕の力の限りスイングをした。社会人になり親元を離れた義晴はタブレットでそんなイチローを見つめていた。「神」だったイチローが、我々に最後のメッセージを送っているように見えた。必死で食らいつくことに意味がある、全ての栄光より、次の安打ひとつに価値がある。走馬灯のようにイチローとの思い出が駆け巡った。震災に苦しんだ神戸の街を元気づけたイチロー。もうオリックスブルーウェーブも、イチローと名付けた仰木監督も、今は亡き者だ。『古畑任三郎』では殺人者を演じたイチローを”逮捕”した田村正和はもう引退した。レーザービーム、エリア51、シスラーの年間安打記録を超えた日、川崎宗則との友情、サンフランシスコでのランニングホームラン、イチロ・ニッサン、ユンケル、とんがりコーンをはじめとする数々のCM。そのすべてが義晴の少年時代の思い出であり、象徴だった。そんな楽しかった時代が終わる。ファンと選手という差はあれど、野球を通じてイチローと交流した蜜月が終わる。イチローがグラウンドを去る。天皇が変わる。時代が変わる。義晴の子供時代が終わる。時の流れに義晴の目から涙がこぼれた。

 義晴は週末地元である所沢に帰り、ドーム球場で試合を観戦した。義晴が初めてかつ唯一イチローと「邂逅」した場所だった。当時は屋根は無く、屋外球場だったこのドームも、屋根以外にも様々に改修され、テラスや、フィールドビューシートなどが追加されている。しかし、「野球」は当時から変わっていなかった。相変わらず、投手が投げ、打者が打ち、野手が守り、走者が走り、審判が判定を下す。イチローと共有したものと同じ「野球」がそこにはあった。義晴がイチローと初めて出会ったころのような子供達の姿も多い。出来ることなら彼らにも「神」がこのスタジアムから現れてほしいと切に思った。
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