二十二

文字数 3,313文字

 頬を叩かれて目を覚ました。見た顔だ。ハダケンゴだった。
「タザキの旦那、酷い顔してますぜ、全く」
 起き上がり、顎の辺りに手をやる。首が軋む。
「まあ、そう言うな、牛のような男に殴られたんだ」
「ちょっと耳塞いでくれ」
 ハダがショウの手錠の鎖を撃ち切った。
「随分と手荒な再会だな、牛は死んだのか?」
「ああ、俺が撃った」
「可哀想な奴だったよ」
「敵に同情は無しだぜ、旦那」
「わかってる」
 ショウが板ハシゴを登り、機械室を出た。人の気配がした。懐かしい気配。顔を上げずとも誰なのかわかる。頬が緩む。
「よう、兄キ」
 ショウが顔を上げる。後ろにいたハダケンゴが苦笑する。
「二十年ぶりに会う兄貴に、よう! とはな、たいした弟だぜ」
 ショウがリュウを見つめる。
「元気そうだな」
 リュウがプッと噴出す。美玲がそのあどけない表情を見て、照れ笑いを浮かべる。
「兄キ、酷い顔してるぜ」
 ショウが頬を触る。
「牛みたいな男がいてな、ちょいと殴られた」
「よく言うよ兄キ、こっちも兄キのおかげで危うく死ぬところだったぜ。美玲がいなかったら、この再会も有り得なかった」
 リュウが真顔になった。
「美玲さんというのか、有難う」
 ショウが深々と頭を下げた。
「オ兄サン、ヤメテ下サイヨ、私、当然ノコトヲシタマデデスカラ」
 顔を真っ赤にした。
「リュウ、やっと会えたな」
「ああ、そうだな兄キ」
 後ろで美玲が泣いている。
「お前が泣いてどうする」
「ダッテ、ダッテ・・・・・・」
「リュウ、良い彼女を持ったな」
 二人はその日、夜を明かして語り合った。これまでのこと。これからのこと。時間は幾らあっても足りなかった。けれども、互いの今の境遇については、聞くことも話すこともなかった。久しぶりの再会に水を差すような気がしたのだ。それは相反する立場にいることを今更話したところで、どうにもならないことがわかっていたし、互いに引き返せないところまできていることが理解できたからだ。ただ、二人の目的は一致していた。盗まれた父の絵画を取り戻す。俺たちはまだ、たった一枚も奪い返していない。例え奪い返すことができずにこの身が滅んでも構わない。少しづつでもいい、一枚づつでもいい、家族を取り戻すためにこの身を捧げる。そしていつか、祖父、タザキコウゾウが所有する八幡平の別荘に、失われた絵画と共に再会しよう。そう誓い合えただけで満足だった。
「兄キ、あと一つだけ聞いてもいいか?」
「何だ?」
「あの日、俺が東京のサエキに引き取られて行ったあの日、兄キはどんな気持ちでいたんだ?」
「あの日のことは、今でも昨日のことのように覚えているよ。あの日、俺は泣いていた。それが最初で最期だが」
「え? そうだったのか? 兄キは表情一つ変えずに・・・・・・」
「バカだな、お前、涙は流すものじゃない。堪えるものだ」
「兄キらしいな、そういうの」
 と言いながら、リュウが涙した。
「リュウ、お前に一つ重要な秘密を教えてやろう。親父の絵の真贋に関わることだ。きっとお前の役に立つ」
「何だい、それは?」
「お前、親父の絵を見たことあるか?」
 台湾の孫小陽のギャラリーで見た『海』を思い浮かべた。
「あるよ、一枚だけ。『海』という作品だった。台湾の組織が所有している」
「そうか、白蓮幇が」
「白波と曇天の暗い絵だ。絵自体が白くもやがかっている。その浜辺を家族が歩いている絵だ」
 ショウが微笑する。
「その家族のな、子供たちの一人はきっとお前だ」
「だと思ったよ」
 リュウが苦笑する。
「盛岡の実家のシズエさん、覚えているか?」
「シズエさん・・・・・・ああ、覚えてる」
「そのシズエさんがな、親父の絵には、俺たちが生まれた後の作品には全てに俺たち兄弟が描かれていると言っていた。手の込んだ親父のイタズラだったらしい」
 そう言って、ショウが笑う。
「兄キは『タザキの白』という言葉を知ってるか?」
「ああ、知ってる。コレクターの間ではそう呼ばれているらしいな。ユトリロに影響を受けたと言われているが、俺はむしろ、川端康成や北斎、または親父の生まれ故郷、盛岡の街に影響されていると思うがな。ユトリロには同調しただけさ」
 リュウは深く頷いた。
「さすがだな、兄キは」
「親父の油彩画が、東洋人でありながら、あの若さで海外で評価を得た背景もそこにある。タザキノボルの油彩画は、西洋人にとってのエキゾチックそのものなのさ。ゴッホやモネが、ジャポニズムと呼ばれる日本の北斎や広重の浮世絵を愛したように、西洋人の感性を刺激する何かが親父の絵にはあったのだろう。それは単にアジアの原風景を描くということではなしに、雪、波、雲といった、万国共通のモチーフの中から喚起される刺激であり、親父は雪国出身の持つ感性を120%発揮することに優れた画家だったのさ」
「ジャポニズムか」
「それに親父は写実主義と思われがちだが、実はそうじゃない。芸術の本流をなすシュルレアリストでもあったんだ」
「シュルレアリスムが本流とは。面白い。兄キらしい、奇抜な発想だな」
 ショウがククッと笑う。
「シュルレアリスムというのはな、言葉と密接に関わっているんだ。一種の自動記述だとアンドレ・ブルトンは言ったが、あえてここでは芸術家と言わせてもらうが、作家も画家も、今、目の前にあるものを記録しているわけではないだろ。頭の中にあるもの、思い浮かんだものを描いているわけでもない」
「違うのか? 俺は作家の頭の中にあるものが、具現化されたものが作品かと」
 ショウが笑う。
「無理もない。そこがシュルレアリスムとの決定的な違いだ。そこには写実的も抽象的もない。そもそも、できあがったものに対しての形容ではないからな。何故、言葉と密接に関わっていると思う?」
「言霊ありきってやつか? 俺は実存と理解しているが」
「確かにそれもある。だが少し違う。これまでの俺の世界観は言葉ありき、言葉が世の中の始まり、意味と実体は後からついてくると思っていた。つまり自動記述的な事象がまず存在して、そこに後から意味が生まれ、実体が認識されて行く。物体を呼ぶ、または名付けることにより、物体は存在し得ると思っていたんだ。これが趙現実、シュルレアリスムの原点だと俺は考えた。そして、それはデペイズマンについても説明がつく。つまりデペイズマンとは、意外な組み合わせからなるものを指すが、何故、意外な組み合わせがシュルレアリスムと呼ばれるか、それは、そもそもシュルレアリスムの自動記述自体が、言葉と実体とを切り離したものであるからなんだ。デペイズマンこそ自動記述の産物だ」
「兄キ、でもそれはすでに過去形なんだろう?」
「そうだ、それは真ではあるが、十分では無い」
「どういうことだ?」
「この世には、すでに決まったものなど何一つないということさ。瞬間は認識された時点で過去であり、それはすでに無限分の一の確率で述語を変化させることができる。それが自由という本当の意味だ。選択は無限であり、自由そのもの。名付けられ、意味を与えられたものですら、次の選択によっては自由に、既存から解き放たれる。そしてその選択は俺たちの手の中にある。実はな、芸術作品の本質を知ることはできない。存在するのは無限の受容体があるだけなのさ」
 リュウが唸った。
「実はこの船で、今、美術品の闇オークションが開かれているんだが、数日前にコローの作品を見た。ハダがコローの世界観と親父の世界観が似ていると言ったんだ。俺には理解し難かったが、兄キの話を聞いていて納得がいったぜ。親父がパリで日本の風景ばかり描いていたことも、ホワイトに執着していたことも、線でつながった。だが、絵に俺たち兄弟を誰にも気付かれないように描き続けた本当の理由は何だったんだ? 俺たちのことを思っていたということか?」
 ショウが苦笑しながら、首を横に振った。
「だから親父が正直に言っただろう? 単なるイタズラだって」
 すると急に心の底から笑いが込み上げてきた。二人はしばらくの間笑い続けた。
「親父の絵、まだ一枚も取り返せてないんだろう?」
「そういう兄キこそ」
 二人の目が合った。
「よし、今夜、取り返しに行こうぜ!」
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