文字数 1,613文字

 船上から見渡す海は、どこまでも続く白い鏡だった。太陽光を反射した波が瞳の奥に映っている。潮風でリュウの長い髪がなびく。昨夜の興奮を醒ますような昼の陽気だった。デッキに並べられたレストランの丸テーブルとパラソル。そこに王美玲が座っている。リュウが煙草に火をつけた。ハダケンゴは一人でバーにいる。相変わらず気が利く奴だ。この東シナ海の船上で、絵画のオークションが行われていることなど誰が想像できようか。昨夜は完全に陶酔してしまった。クールベやコローの油彩画を目の前にして、金銭感覚が麻痺してしまった。現にハダケンゴはクールベを二十八万五千ドルで落札している。今の自分には真似できない。あれが画商の血筋というものだろうか? ビッドする瞬間の奴の目は完全にイカれていた。金を金とも思っていないような目だった。突き抜けたような目の輝き。そう言えば、ここに来る前に奴から聞いたことがある。
「オークションの高額ビッドする感覚はな、アレに似てる」
 ハダがクスクスと笑う。リュウが鼻を鳴らす。
「女とアレした時の感覚と言いたいのか?」
「確かにそれもある。だが、その他にもう一つある。それは、銃で人を撃った時の感覚に似ている」
 リュウがハダの目を見た。
「人を撃ったことがあるということか?」
「そうだ」
 リュウが首をゆっくり横に振った。
「マジか、よしてくれよ、そんな軽々しく言えたものかい?」
 ハダが微笑している。
「中国人を撃って殺した」
 右手で銃を撃つ真似をした。

 リュウはその時のハダケンゴの目の輝きを思い出した。背筋に冷たいものが走った。あの目は完全に突き抜けている。今、その場に存在しない目だ。その時と同じ目を昨夜見た。そしてその隣に座り、その目に少しづつ慣れてきている自分がいる。水平線を見た。空との境が白く霞んでいる。ふと王美玲に視線を移すと、一人の男が近づいてくるのが見えた。美玲がそれに気づき、視線を向けている。知らない顔だ。しかし美玲の表情は明るく、頬を緩めている。男が美玲の傍に立ち止まり話しかけた。どうやら北京語で話しているようだ。すると美玲がこちらを向いた。男と目が合った。男が軽く会釈した。リュウも軽く頭を下げた。長身で髪を短く切った、中々の好男子だった。男が美玲に手を振って立ち去った。リュウはゆっくりと丸テーブルに歩み寄り、美玲に向かい合って座った。
「あの男は?」
「昨日、バーデ知リ合ッタノ」
「そうか」
「ソレダケ? 妬イタリシテクレナイノ?」
「どうして俺が嫉妬しなければならないんだ?」
「ツマンナイノ、セッカクナンパサレタノニ。モット仲良クスレバヨカッタワ」
「旅先でナンパしてくる奴なんてロクな男じゃないぞ」
 王美玲がクスッと笑う。
「アノ方、趙サンッテ言ウノ。趙建宏サン。香港の実業家ナンダッテ。オ金持チカモシレナイ」
 リュウが眉間に皺を寄せた。
「何? 趙建宏と言ったのか?」
「何ヨ、恐イ顔シテ」
「そうか、あの男が趙建宏」
「知ッテルノ?」
「いいや、知らない。知り合いに似た男がいただけだ」
 王美玲が唇を尖らせた。
「あの男のこと、他に何か知らないか?」
「何ヨ、気ニナッテルンジャナイノ、アナタッテ本当ニ素直ジャナインダカラ」
 リュウが苦笑する。
「香港ト広州デ幾ツカ会社ヲ経営シテイルンダッテ。貿易関係ッテ言ッテタワ。台北ニモ来タコトアルッテ」
「広州と言ったのか?」
「エエ、世界中ヲ駆ケ回ッテイルソウヨ。ヨーロッパニモヨク行クンデスッテ。素敵ヨネ」
 リュウが顎に手をやった。目の前に、喜々として身振り手振りを交えて話す美玲がいる。美玲であれば、謎の男、趙建宏に上手く近づくことができるかもしれない。
「玉の輿にでも乗るつもりか?」
 リュウの目が笑っている。美玲が首を傾げた。
「玉ノ輿?」
「日本では、金持ちと結婚することを玉の輿に乗ると言うんだ」
 美玲が小さく息を吸った。
「結婚・・・・・・」
 そう言ったまま、黙ってしまった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み