十六

文字数 3,346文字

 船は再び上海に向けて出航していた。船の地階にあるオークションルームは殆んど揺れないが、海上を航行しているのはわかる。動力部が近いからだろうか? 微かな振動がある。リュウは先程まで会場にいなかった趙建宏の姿を見つけた。
「おっと、アイツを見つけた」
 ハダがフンッと鼻を鳴らす。
「何故、そんなに奴を気にする?」
「何となく」
「女か?」
 リュウが苦笑する。確かに甲板のレストランで奴が美玲に声をかけたのは気に入らなかった。しかし、それだけではない。
「アイツを一度、ぎゃふんと言わせたいものだ」
「おい、おい、どうしたお前にしては珍しく感情的になってるじゃないか」
「感情的?」
「そう、何か個人的な恨みでもあるのかと思って」
「いや・・・・・・」
「よしてくれよ、オークションで個人的な感情の競り合いは厳禁だからな」
「わかってる」
 ハダが苦笑する。
「やはり女だろう?」
「まさか」
 美玲の顔が脳裏を横切る。
「まあいい、だがな、競ったらお前は必ず負ける」
 リュウがチッと口を鳴らした。
「何度も言うが、株もオークションも感情的になった方が負けさ。しかも資金的に向こうが有利だ。お前に勝てる要素は無い」
「相変わらず冷静な男だな」
「いいか、お前が勝つためには、奴と同じ土俵で戦わないことだ。もしくは、お前が冷静でいながら、奴をカッカさせることができたら、幾らか勝ち目があるかもしれん。いつの世にもランチェスター戦略は的を得ている。弱者の戦略ってやつだ。知ってんだろ?」
「ああ、孫子も読んだ。そういう意味では、奴らの先祖が考えたことだ。奴らの方が一枚上手かもな」
 すると、オークション開始を告げる鐘が鳴った。

 今回出品された作品は『ユトリロ』の油彩画だった。モーリス・ユトリロ。フランス、モンマルトルの画家。一九五○年代まで存命だった。極度のアルコール依存症で、モンマルトルの酒場に行けばユトリロに会えるとまで言われた人物である。母親が画家で、幼少の頃から絵画に触れる環境にあったが、絵の評価を得たのは皮肉にもアルコール依存症の治療のために描いた絵だった。ユトリロの絵は、内面が色使いに表れていると言われる。一九一○から一九一五年までは白を基調としたものが多い。それ以降は鮮やかな色彩を持つ絵を残している。その殆んどがパリのありふれた街並みを描いたものだった。
「ユトリロの白という言葉を知っているか?」
 出品された油彩画はジャン・ファブリス鑑定書、ペトリデス鑑定書付きの一九一五年の作品だった。
「素晴らしい白だと思わないか?」
「他のホワイトと違うのか?」
 ハダが苦笑して首を横に振る。
「そりゃあ、違うぜ。お前の目は節穴か? いいか、当時、街の白壁を表現するのにジンクホワイト(亜鉛華)やシルバーホワイト(鉛白)を使っていた。しかし、ユトリロの白は違う。これはユトリロの一九一○年代の絵の修復をしたことがある知人に直接聞いた話だが、X線や絵具の成分を分析してみると、本物の炭酸カルシウムを混ぜて使っているという話だ」
「石灰ってことか?」
「ああ、そうだ。当時は貝殻からであったかもしれないし、エスカルゴからだったかもしれない。その天然の白の質感がユトリロの一九一○年代の特徴なんだ。そして、そのユトリロの絵画に影響を受けたとされる日本人画家がいる。それがお前の親父さん、タザキノボルだ」
「そうなのか?」
「お前の親父さんの絵は、ユトリロにちなんで『タザキの白』などと言われていた。日本の雪国出身の画家にしか描けないであろう、白を使った冬景色を描かせたら右に出る者はいないとまで言われていた。お前の親父さんの白は白でありながら多彩だと言われる。何種類もの白を使い分ける技術と感性を持っていた。日本の冬を描いたものが多いが、フランス、パリの冬を描いた点では、ユトリロに影響を受けたのは確かだと思う」
「そうだったのか、知らなかった。俺は親父のことを何も知らない。お前のほうが余程タザキノボルについて詳しい」
「このユトリロの白・・・・・・欲しいか?」
「ああ」
「ビッドしたらどうだ? 有名な画家の真作だ。競ると思うがな」
「セイヴィアになってくれないのか?」
 ハダが首を横に振る。
「あまり好みの絵ではないのでな。それにこうもあからさまに真作とわかっては、うま味も無い」
「冷たい奴だ。競るなら競ろう、望むところだ」
 リュウは八千万HKD、日本円にして一億一千二百万円でビッドした。
「行くね。闇にしてはイイ線だ。クリスティーズならこの十倍からスタートだからな」
 すると会場の一部が「オオッ!」と色めき立ち、モニターにリュウより高額の入札を示すランプがついた。ビッド金額は九千万HKD、入札者は趙建宏とある。一度画面で確かめた後会場を見渡すと、こちらを見ている男と目が合った。
「やはりアイツか」
 リュウが髪の毛を掻き上げ、自らを冷ますように息を吹く。右手がモニターのタッチパネルを動く。一億一千万HKDを被せた。
「おい、おい、深追いは禁物だと言っただろう? 個人的な感情を込めるんじゃない。機械のように入札しろよ。自分の中のラインで必ず切れ。越えるなよ、歯止めが効かなくなるぞ」
 リュウが返事をしない。ハダが溜息をついた。
「もう、知らん。自分の金だ。好きなように捨てろ」
 趙建宏がすぐに一億三千万HKDをビッドし直した。間髪入れずにリュウが一億五千万HKDを入れる。次第に会場が騒然とし始める。謎の日本人対香港の大富豪という構図がハッキリしてくると、それに興味を持った金持ちどもが、固唾を呑んで見つめているのがわかる。
「とんだ見世物になっちまった」
「そろそろ頭を冷やせ」
「奴が諦めたらな」
「お前、何故そこまでして趙建宏と張り合う?」
 リュウは答えない。ハダが額に手をやった。
「これだから、男はバカだと言われるんだ。たかが女のことで熱くなりやがって。理解できなくもないが、女は魔物なんだ。惚れた男の魂まで持って行っちまう」
 殺害されたニッタジュンコの顔を思い出した。すぐに趙建宏が一億六千万HKDを被せてきた。リュウが唸る。
「クソッ! あの男、絶対許さねえ」
 咄嗟に右手が動く。一億七千万HKDを入札しようとした時、その手をハダが掴んだ。そして首を横に振った。
「リュウ、頭を冷やせ。ユトリロはくれてやれ」
 結局、ユトリロの油彩画は香港の趙建宏が落札した。一億六千万HKD、日本円で二億二千四百万円。趙建宏にとっては小遣い銭程度だったかもしれない。奴は落札後その場で立ち上がり、会場に向けて頭を下げ、リュウに軽く手を振った。
「嫌味なやつだ。余裕の笑みを浮かべてやがる」
「まあ、少し落ち着け。幸い次まで時間がある。甲板に出て外の風にでも当たって来い。俺は腹が減った。次の開始時刻前に、またここで会おう」
 リュウの肩を叩いた。甲板出ると王美玲が待っていた。リュウの姿を見つけると、慌てて駆け寄った。
「どうしたんだ? そんなに慌てて」
「サッキ聞イチャッタノ、私、モシカシタラ、オ兄サンガコノ船ニ乗ッテルカモシレナイッテ」
「何? 志明がついて来たのか?」
「違ウ、違ウ、モウ、何言ッテンノ、アナタノオ兄サンノコトヨ。タザキショウッテ言ッテタワ。コノ船ノドコカニ閉ジ込メラレテルッテ」
 リュウは言葉を失ったが、すぐに冷静さを取り戻した。
「誰が、そんなことを?」
「アノ人ヨ、趙建宏」
「どうして兄貴が趙建宏に捕まっているんだ?」
「私ダッテ知ラナイワヨ、一緒ニオ酒飲ンデタラ彼ノ携帯ニ電話ガカカッテ来テ、確カニ言ッタノヨ、ソノママ地下ニ閉ジ込メテオケッテ。タザキショウト確カニ言ッタワ。アナタノコト知ラナイカラ油断シテ、私ノ前デ電話ニ出タンダト思ウ」
「美玲、有難う。兄貴を探さなきゃ」
 リュウは船に銃を持ち込んでいた。ベレッタM84、チータと呼ばれるお気に入りの銃だ。相手は趙建宏、丸腰で臨めるはずが無い。
「美玲、お前に一つ頼みがある」
「ナアニ?」
「酒場でもレストランでもいい、俺達が兄貴を探している間、奴を、趙建宏を引き留めておいてくれないか?」
 美玲が頷く。
「任セトイテ、彼、私ニゾッコンナンダカラ」
 リュウが苦笑する。悔しいが、今は仕方がない。
「頼んだぞ、美玲」
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