十三
文字数 2,162文字
再び深夜のオークションルーム。リュウは趙建宏の姿を探したが見当たらなかった。船上レストランで見かけてからずっと気になっていた。勿論、王美玲に近づいたからというのもあるが、それだけではない。ハダケンゴとクールベの絵画で競り合う奴を見た時、珍しく心が揺れた。何か奴の存在自体がリュウの心を乱すのだ。趙建宏の姿を見つけられず、思わずハダケンゴに声をかけた。
「奴は来てないようだ」
「奴って?」
「趙建宏」
「ああ、奴か。確かにそうだな。部下にでも任せてるんだろう」
「かもしれんが、数十億の買物だぞ、気楽なものだ」
リュウは物足りなさを感じていたが、次第に会場の雰囲気に飲まれていった。この日のオープニングは『ミロ』だった。会場がオオッという息遣いと唸るような響きに包まれた。リュウも思わず嘆息し無意識に顎に手をやった。
「シュルレアリスムってやつか」
ハダが興奮を抑えられずに拳を握る。
「そうとも。シュルレアリストだ。ここで来たか」
「どういうことだ?」
「実は四、五年前にフランスの収集家の元から盗まれたミロがあると噂で聞いていた」
「盗まれた?」
「犯人はまだ捕まっていないが、噂では中国系の強盗団の仕業だと言われている。そろそろどこかで出るんじゃないかと思ってたよ」
リュウがジッと作品を見つめていた。
「ジョアン・ミロ。スペイン、バルセロナ出身の前衛画家。あのピカソや作家のアーネスト・ヘミングウェイとも交流があったと言われる。フォービズム、キュビズムの影響を受けた作風は、全世界にファンも多い。俺の記憶では過去にサザビーズのオークションで、ブルースターというへんてこな作品が日本円で二十九億で落札された記憶がある」
「二十九億だと」
「画商の俺が言うのもなんだが、シュルレアリスムは正直よくわからない。子供の落書きとさほど変わらんと思う時がある。その辺はお前の方が血筋的にも理解があるんじゃないのか?」
「いや、俺は子供の頃からあまり絵というやつが得意ではない。だが、兄貴は親父の遺伝子を受け継いだのか、ずば抜けて絵が上手かった」
ハダがタザキショウの顔を思い出した。
「お前の兄貴、今、刑事やってるが、人は見かけによらんもんだな」
リュウが懐かしそうに目を細めた。
「ミロの真作は、バルセロナのミロ財団が全て管理している。修復も専門の絵師がいて、それ以外の修復を認めないそうだ。そういう意味では贋作の極めて少ない画家といえる」
「こいつはどうなんだ?」
「リュウ、お前はどう思う?」
「見ようによっては、頭のおかしな奴が描いたものと大差ないわけだし、贋作は作りやすいんじゃないか?」
「頭のおかしな奴ね。シュルレアリストが泣いてるぜ。確かに線や点、記号化された対象物、みなそれぞれ単体で見ればどれも子供の落書き同然だと思うかもしれんな。しかも配色もモノクロームや単色が多いときてる。だがな、シュルレアリスムはそんな単純な観方では語れないんだよ」
「コレクター泣かせだぜ、全く」
二人が苦笑する。
「しかし、シュルレアリスムって一体どういうことなんだ?」
「デペイズマンという言葉、聞いたことあるか?」
リュウが首を傾げる。
「シュルレアリスムを理解する上では必要な言葉だ。意外なものの組み合わせがもたらすものという意味だ。な、クリエイティヴな言葉だろ?」
「例えば?」
「そうだな、お前だってトイレで用を足すだろ? いつも使ってる白い便器あるよな? それが意図的に道の真ん中に据えてあったらどう思う?」
リュウが苦笑する。
「マジかよ」
「そういうのをデペイズマンと言うんだ。でもな、それは突然にして、そこに偶然置かれたものではなく、連続性の中で既成概念の破壊と調和を意図したものでなければならないのさ。神様が授けたものは、アートじゃない。優劣の問題でもない。シュルレアリスムはアートの原点だ。お前の兄貴に会ったら聞いてみろ」
「破壊と調和」
リュウがミロの絵を見つめる。
「まるで戦争のようだな」
ハダが黙って言葉を噛み締めた。
「アウフヘーベンのようだな、と言ったんだ」
「戦争には新しい調和なんて無いだろ? その後に新しいものが生まれたとしても、それは戦争のお蔭なんかじゃない。全く別物だ。違うか?」
リュウの声は落ち着いていた。
「分子生物学というのは、新しい意味を生み出す学問じゃない。むしろその逆だ。どこまでもDNAを遡って、徹底的に真実を、その構造を追究して、生命の起源に挑むものだ。仮説は必要だが、そこにクリエイティヴな考え方は不要だ」
ハダがヒューと口笛を吹いた。
「俺がヤクザなんだか、お前がヤクザなんだか、わからなくなってきたぜ」
リュウが苦笑する。
「で、このミロはビッドするのか?」
ハダが鼻を鳴らす。
「有り得ないね、素人じゃあるまいし。モニターをよく見ろ。あのモノクロ、メリハリが有り過ぎるんだよ。あれはブラックに光沢を使っているか、上からニスを塗っている。有り得ない。ミロはつや消しのブラックと相場は決まっているんだ。絵の構図、シュルレアリスム以前の問題だな。恐らく四、五年前に盗まれたミロの贋作だ。事情を知る者ほど飛びつくだろうな」
その絵は結局、どこかの知らぬ中国人が格安で落札した。
「犬小屋にでも飾っておくには丁度いい」
ハダがそう言って笑った。
「奴は来てないようだ」
「奴って?」
「趙建宏」
「ああ、奴か。確かにそうだな。部下にでも任せてるんだろう」
「かもしれんが、数十億の買物だぞ、気楽なものだ」
リュウは物足りなさを感じていたが、次第に会場の雰囲気に飲まれていった。この日のオープニングは『ミロ』だった。会場がオオッという息遣いと唸るような響きに包まれた。リュウも思わず嘆息し無意識に顎に手をやった。
「シュルレアリスムってやつか」
ハダが興奮を抑えられずに拳を握る。
「そうとも。シュルレアリストだ。ここで来たか」
「どういうことだ?」
「実は四、五年前にフランスの収集家の元から盗まれたミロがあると噂で聞いていた」
「盗まれた?」
「犯人はまだ捕まっていないが、噂では中国系の強盗団の仕業だと言われている。そろそろどこかで出るんじゃないかと思ってたよ」
リュウがジッと作品を見つめていた。
「ジョアン・ミロ。スペイン、バルセロナ出身の前衛画家。あのピカソや作家のアーネスト・ヘミングウェイとも交流があったと言われる。フォービズム、キュビズムの影響を受けた作風は、全世界にファンも多い。俺の記憶では過去にサザビーズのオークションで、ブルースターというへんてこな作品が日本円で二十九億で落札された記憶がある」
「二十九億だと」
「画商の俺が言うのもなんだが、シュルレアリスムは正直よくわからない。子供の落書きとさほど変わらんと思う時がある。その辺はお前の方が血筋的にも理解があるんじゃないのか?」
「いや、俺は子供の頃からあまり絵というやつが得意ではない。だが、兄貴は親父の遺伝子を受け継いだのか、ずば抜けて絵が上手かった」
ハダがタザキショウの顔を思い出した。
「お前の兄貴、今、刑事やってるが、人は見かけによらんもんだな」
リュウが懐かしそうに目を細めた。
「ミロの真作は、バルセロナのミロ財団が全て管理している。修復も専門の絵師がいて、それ以外の修復を認めないそうだ。そういう意味では贋作の極めて少ない画家といえる」
「こいつはどうなんだ?」
「リュウ、お前はどう思う?」
「見ようによっては、頭のおかしな奴が描いたものと大差ないわけだし、贋作は作りやすいんじゃないか?」
「頭のおかしな奴ね。シュルレアリストが泣いてるぜ。確かに線や点、記号化された対象物、みなそれぞれ単体で見ればどれも子供の落書き同然だと思うかもしれんな。しかも配色もモノクロームや単色が多いときてる。だがな、シュルレアリスムはそんな単純な観方では語れないんだよ」
「コレクター泣かせだぜ、全く」
二人が苦笑する。
「しかし、シュルレアリスムって一体どういうことなんだ?」
「デペイズマンという言葉、聞いたことあるか?」
リュウが首を傾げる。
「シュルレアリスムを理解する上では必要な言葉だ。意外なものの組み合わせがもたらすものという意味だ。な、クリエイティヴな言葉だろ?」
「例えば?」
「そうだな、お前だってトイレで用を足すだろ? いつも使ってる白い便器あるよな? それが意図的に道の真ん中に据えてあったらどう思う?」
リュウが苦笑する。
「マジかよ」
「そういうのをデペイズマンと言うんだ。でもな、それは突然にして、そこに偶然置かれたものではなく、連続性の中で既成概念の破壊と調和を意図したものでなければならないのさ。神様が授けたものは、アートじゃない。優劣の問題でもない。シュルレアリスムはアートの原点だ。お前の兄貴に会ったら聞いてみろ」
「破壊と調和」
リュウがミロの絵を見つめる。
「まるで戦争のようだな」
ハダが黙って言葉を噛み締めた。
「アウフヘーベンのようだな、と言ったんだ」
「戦争には新しい調和なんて無いだろ? その後に新しいものが生まれたとしても、それは戦争のお蔭なんかじゃない。全く別物だ。違うか?」
リュウの声は落ち着いていた。
「分子生物学というのは、新しい意味を生み出す学問じゃない。むしろその逆だ。どこまでもDNAを遡って、徹底的に真実を、その構造を追究して、生命の起源に挑むものだ。仮説は必要だが、そこにクリエイティヴな考え方は不要だ」
ハダがヒューと口笛を吹いた。
「俺がヤクザなんだか、お前がヤクザなんだか、わからなくなってきたぜ」
リュウが苦笑する。
「で、このミロはビッドするのか?」
ハダが鼻を鳴らす。
「有り得ないね、素人じゃあるまいし。モニターをよく見ろ。あのモノクロ、メリハリが有り過ぎるんだよ。あれはブラックに光沢を使っているか、上からニスを塗っている。有り得ない。ミロはつや消しのブラックと相場は決まっているんだ。絵の構図、シュルレアリスム以前の問題だな。恐らく四、五年前に盗まれたミロの贋作だ。事情を知る者ほど飛びつくだろうな」
その絵は結局、どこかの知らぬ中国人が格安で落札した。
「犬小屋にでも飾っておくには丁度いい」
ハダがそう言って笑った。