一 ヤスオが逃げた

文字数 2,529文字

 一月十三日、月曜、成人の日。
 錦糸町のマンションからヤスオが逃げた。貯金は取られなかった。あたしが買った家電がそっくりなくなった。なんで、ヤスオは出ていったんだろう・・・。あたしがヤスオの嫌うことをしたか?迷惑をかけたか?心当たりはなんもない・・・。
 なぜなのか、タエは理由がわからなかった。

「タエ、なにがあったん?」
 ケイがタエを抱きしめて背中を撫でている。
「わかんない。帰ったら、なんもなかった・・・」
 買い物から帰ったら、テレビと冷蔵庫と洗濯機と電子レンジと掃除機がなかった。エアコンとクッキングヒーターは備え付けだから、そのままになっている。コレって計画的犯行だ・・・。

「警察へ連絡したんか?」
 ケイはタエを抱きしめたまま、耳元で囁いた。
「連絡した。盗まれた物の領収書を取ってあったから、あたしの物が盗まれたと証明できた。被害総額三十万。ヤスオの顔写真もあったから、ヤスオは指名手配になった。逃げられねえ・・・」
 タエもケイも実家は北関東だ。地元の方言で話す方がわかりやすい。そして、数年前にタエの兄がケイの妹と結婚したため、ケイはタエの、同じ年齢の義姉になった。

「捕まえたら、どうするん?」
「窃盗罪で懲役だべ。
 警察の話だと、あたしの他にもいろいろしてて、前科があるみたいだ。 あたしらには隠してたんだ・・・」
「やっぱ、いい男にゃあ、それなりの理由がついてたな」
 ケイが舌打ちして、そう呟いた。

「そう言うな。アイツを連れまわして、それなりに優越感に浸ったんは事実だ。だから後悔はしてねえぞ。
 だけど、やり方が汚なすぎる。勤務先に連絡したら、一週間前に退社届けが出てた。前科があるヤツが、どうして新聞社に入れたんだべか?」
 タエはふしぎだった。

「経験を活かして、それなりの方面の担当だったんじゃねえのか?」とケイ。
「そうだな。ヤスオ、仕事は帝都新聞社会部の家庭欄で、服飾を担当してると言ってた。服飾担当って、ウソだったんだべか。
 もし、ウソなら、あたしたちに話した事も、あたしたちが訪ねた八王子の実家も、全部ウソになるべさ・・・」とタエ。

「八王子のヤスオの実家へ、もう一度、行ってみっか?」
 ケイがタエを抱きしめたまま、顔を離した。じっとタエの目を見つめている。
「だけど、実家がウソだとわかっても、家電はも戻らねえし、全ての状況は、今のまんまだ。放っておく・・・」
「ねえ、タエ。なんで、ヤスオとくっついてたん?」
「あたしを大事にしてくれたんだ・・・。なのに、何でだべ・・・」
 タエはヤスオが消える理由がわからなかった。

 窓から射しこむ冬の夕日が部屋を茜色に染めた。衣類ダンスの上にある二人で並んで撮った写真は、夕日を浴びて色褪せたように見えた。
 白物家電が消えた1LDKの部屋は妙に広い。ヤスオが占めていた部屋の空間が、タエ独りだった以前の空間に戻っただけなのに、異様に広く感じてしまう。これって物が消えてそう見えるんじゃない。ヤスオがいなくなったせいだ。
 ヤスオが帰ってきて詫びを入れて、物を返しても、あたしはヤスオを許さない。

 これまで、ヤスオが、あたしの嫌がることを何かしたかというと、そんなことはない。ヤスオはあたしが嫌がることは何もしなかった。あたしが喜ぶことをしたかというと、これまた、何もしなかった。
 アクセサリーに興味がないあたしに、唯一した贈り物がこの指輪だ。
 タエはコタツの天板の上にある、濃緑色のフェルト加工された指輪ケースを見た。
 何を思ったか、ヤスオは大晦日に指輪を買ってきた。誕生日とクリスマスとその他諸々一年分だと言った。あたしのことを、世界で一番好きだと言った。そして、年が明けたら、白物家電とともに消えた。
 ヤスオに何が起こったのか、タエは見当がつかなかった。

「タエ。ご飯、あたしのとこで食べようね。冷蔵庫と電子レンジを買うまでご飯作れねえべさ?」
 ケイは抱きしめたタエの背中を撫でた。ケイの部屋はタエの隣室だ。
「うん、ありがとう。そうしてもらえると助かるよ。
 ついでに、しばらく泊めてください」
 タエはケイに頬ずりした。窓に射しこむ夕日が、涙で滲んだ。

「いいよ。最初からそう言ってるのに、タエ、男好きだからね」
 ケイはタエの背中を、優しくポンポンと軽く叩くように撫でた。
「あたしのは世間で言う、男好きじゃないよ・・・」
 タエは独り寝はしたくないと思った。そばに誰かいて欲しいのだ。
「わかってる・・・」

 ケイの声を聞きながら、タエはふしぎに思った。貯金は取られなかった。ヤスオは何を思って家電を持っていったんだろう?

「そしたら、あたしの部屋でご飯作って食べて、お風呂入って、いっしょに寝ようね」
 ケイがタエから離れて、じっとタエの目を見つめている。
「うん・・・」
 ケイとタエは、タエの部屋を出た。


 ケイの部屋で二人で夕飯を食べて、二人で風呂に入って暖まって、布団に入った。ケイは布団派だ。畳の部屋に布団を敷いて就寝している。
「指輪、あれ、いくらしたん?」
 布団に入ると、ケイが光量を落した天井の照明を見ながら呟いた。
「わかんねえ。そのうちアクセサリー部で見てもらう。どうせ安物だべ・・・」
 タエはそう言って自分の布団からケイの布団に入り、自分の布団を引きよせた。

「あいかわらず、寂しがり屋だね」
 ケイに抱きつくタエに、ケイはそう言った。
「うん。ケイ、あったかい」
「あたしゃ、湯たんぽじゃねえよ。とは言うものの、あったかでいいな・・・。
 アイツ、何でいなくなったんかな?」
「指輪、鑑定してもらってから考える・・・。寝よ・・・」
 そう言っている間に、タエは眠った。

「寝たか。タエ、冷え性か?ヤスオに抱かれてたんじゃねえのか?」
 風呂で暖まったはずなのに、タエの足は冷たかった。
「ときどき・・・だよ・・・」
「どんだけのペースだ?」
 思わずケイはタエに訊きかえした。
「いつも、抱かれて眠ってただけ・・・」
「何だって?まだ、最後までしてないんか?」
「うん・・・・」
 なんてことだ。バージニアは未開拓のままだぞ!タエは一年近くヤスオと暮らしてて、何してた?わからん。こいつらは、わからん・・・。
 ケイは呆れたまま目を閉じた。
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