六 人事異動
文字数 3,744文字
二月三日、月曜。
雪がやんだ。テレビは、公共交通機関の終日運休と、復旧は明日以降になると報じている。
Marimuraの社員専用ホームページは、
『二月四日、火曜に、公共交通機関が復旧する予定だから、Marimuraを始業する』
と伝えた。
二月四日、火曜。
公共交通機関が復旧した。タエとケイは電車の遅れと通勤の混雑を考えて、いつもより早めに出社した。
Marimuraの一階ラウンジにあるエレベーターホールの掲示板には何もなかったが、レディース部がある五階エレベーターホールの掲示板に、緊急人事異動が発表されていた。
『本田ヤスオ
レディース事業部長、レディースアウターウエアデザイン企画室長(兼務)に任ずる。
大沢ケイ
総務部総務チーフ(係長)に任ずる。
木村タエ
レディース事業部レディースアウターウエアデザイン企画室、第一デザインルーム、チーフデザイナー(係長)に任ずる』
タエとケイは昇進していた。まだ電車が遅れている。誰もデザインルームに現れていない。デザインルームに入るなり、タエはインターホンで、総務部のケイに連絡した。
「なんなの!どうなってるん?ケイ!どういうことなの?」
「あたしにもわからない。すぐ、そっちへゆく!
とにかく、本田ヤスオが矢部ヤスオかどうか、顔を見るべ!
本田ヤスオはもう出社してる。ヤスオは部長室にいるはずだ!」
通話が切れた。ケイの総務部は六階だ。ここレディース部は五階だ。
まもなく、ケイが緊張した様子でデザインルームに現れた。
「さあ、行こう!」
レディース事業部の部長室は五階フロアの中央南側にある。
レディース事業部だけでなく、メンズ、ティーンズ、チャイルド、ベビー、インナーなど、全ての事業部が自然光の下でデザインできるよう、デザインルームは各階フロアの北側にあり、デザインルームはチーフの名で呼ばれる習慣になっている。タエが所属するデザインルームはすでに「キムラルーム」だ。
タエとケイは、デザインルームを出て、レディース事業部の部長室へ歩いた。
Marimuraの各階フロアのパーティションは、全て透明な強化ガラスでなされている。通路を歩くと、デザイン、商品企画、営業、デリバリーなど、各担当部署内が一目瞭然で、各部署がお互いを監視しているようなものだ。
「ねえ、ねえ、あれがヤスオ?」
通路を歩きながら、ケイが通路の先の部長室にいるメガネをかけた長髪に髭の男を目配せした。遠目にも高そうなスーツを着ているのがわかる。矢部ヤスオに似ている。
「戻ろう・・・」
タエはケイの腕を取った。まわれ右して通路を戻った。
ヤスオは短髪だ。髭はない。視力は 1.2だ。メガネはしない・・・。
ヤスオを思いだしたタエだが、あの男、ヤスオに似ていると思った。
「同名か?いなくなって一ヶ月だろう?髪も髭も伸びるべさ」
そう言ってケイがふりかえろうとした。
タエはふりかえろうとするケイの動きを止めて囁いた。
「ヤスオはあんな高いスーツを持ってないはずだ・・・。
なんで、Marimuraにアイツがいるんだ?アイツがここにいる理由はなんだべ?
いったい何が起ってるんだ?アイツ、どう見たって、ヤスオだぞ・・・」
「わからない。総務に情報は入ってない」
総務部のケイは、人事部から何も聞いていない。
「まだ、時間があるから、デザインルームに寄ってく?」
「総務に戻る。本田ヤスオが何者か調べるよ」
「うん、わかった。何かわかったら、あとで教えてな」
「もちろんだべさ!」
タエはエレベーターホールから、階段へ移動するケイを見送った。
始業時刻になった。
タエのチーフデザイナー昇進に、デザインルームのデザイナーたちは驚いていなかった。むしろ、チーフデザイナーの牧村ミエコに代って、チーフデザイナー補佐のタエがもっと早くチーフに成っているべきだとの声がでていた。
昇進の挨拶をすませ、タエはデザインデスクでデザイナーたちとともに、六月の秋冬展示会に向けて、デザイン企画の作業を進めた。
タエのデザイン企画用のディスプレイに、本田ヤスオレディース事業部長(レディースアウターウエアデザイン企画室長兼務)から、
『木村タエは、木村ルームのデザイン企画とデザイン企画管理の両方をすること。
夏物企画が一ヶ月遅れたから、六月の秋冬展示会に向けて、二月二十日までに、デザインと地色と素材を決定すること』
と業務指示がメールで届いた。
タエはデザインデスクから立ちあがり、デザイナーたちに作業を中断させて指示した。
「夏物の企画が一ヶ月遅れたから、六月の秋冬展示会に向けて、二月二十日までに、デザインと地色と素材を決定してくれ。
十六日間でデザイン企画を提出しなければならないから、気を抜くな!」
基本企画は、デザイン企画室長が統括する五つのレディースアウターウエアデザインルームで決る。
基本企画の進行は、デザイン企画室長と各デザインルームのチーフデザイナー、テキスタイルデザイナー、色彩デザイナー(カラーリスト)たちによって進行可能か否か検討される。
Marimura内にもテキスタイルデザイナーはいるが、素材は素材メーカーが担当する。素材メーカーの担当テキスタイルデザイナーと色彩デザイナーとの交渉になる場合が多い。
Marimuraのデザイン企画は極秘事項だ。素材メーカーにとっても、Marimuraなどアパレルメーカーの交渉内容は他言厳禁、極秘が暗黙の了解だ。
しかし、アパレルメーカーに無断で、素材メーカーが、アパレルメーカーのデザイン企画を他のアパレルメーカーに転売する場合もある。あるいは、他のライバルアパレルメーカーがデザイン企画を盗む場合もある。
口が軽いとデザイナーは信用されず仕事を任せてもらえない。そういう事を考えれば、タエは口が堅いと認められたことになる。
「あーあ、口の軽いのはチーフに向かないんだね・・・」
タエの考えを感じたらしく、生方京子がぼやいている。
タエはデザイナーたちに指示し終えて、デザインデスクの椅子に座った。そして、眼光鋭く、斜め向いにいる生方京子を睨んだ。
「生方。チーフをする気があれば、室長に話しておく。
デザイン企画せずに、デザイン企画の計画と進行と管理と、外注交渉をしてくれ。
私はデザイン企画の方が向いてるんだ。
デザイン企画の管理なんて、私にゃ向いてない!」
「私は、そんなこと・・・」
生方京子は、チーフデザイナーがする具体的な仕事を知っているはずなのに、念を押されて、しどろもどろしはじめた。チーフデザイナーという肩書きに憧れていただけのようだ。
「まあ、そう言うな。その気があるから、ぼやいたんだろう。
室長に掛けあってやるよ」
「・・・」
タエの言葉に、斜め向いのデザインデスクで、生方京子が顔を真っ赤にしている。この態度、あたしに対する怒りだろうか?それとも、立場を考えずに出過ぎた事を言ったと自己嫌悪してるのだろうか?どっちにしても、この口数が多い女の口を封じたい。そうすれば、とかく口数が多い他のデザイナーの見せしめにもなる。
そう思いながら、タエはインターホンの、レディース事業部長の通話ボタンを押した。
「部長の本田だ。用件はなんだ?」
インターホンから矢部ヤスオに似た、本田部長の声が聞える。デザイン専用の端末やパソコンで画像通話もできるが、顔が見えると言いたい事も言えない。そのため社内通話ではインターホンが多用されている。
「キムラルームの木村です。
チーフデザイナーをやりたいと言う者がいるので、部長にその旨、お願いに行きたいと思います。
伺っていいですか?」
「ちょうど、来てもらおうと思ってたところだよ。
チーフをやりたいと言うのは、生方か?」
「そうです」
「ふーん・・・。よかろう。とりあえず、チーフデザイナー代理をさせろ・・・。
木村一人で、こっちに来てくれ」
通話が切れた。
「生方。許可が出た!チーフデザイナー代理をやれ!私は部長に会ってくる」
タエはキョンに言った。インターホンの本田部長とのやりとりは聞えたはずだ。
「そんな・・・」
キョンが困り顔になって俯いた。
「チーフ代理、やる気があるんだろう?」
タエは優しく言ってキョンに微笑んだ。
「うん・・・」
キョンが俯いたまま頷いている。
「そんなら、やれ!前任のチーフみたいに、ヘマすんなよ!
よそで企画を話すんじゃないぞ!
ケーキや食い物で釣られて、ペラペラ企画を話すなよ!」
タエの言葉で、デザイナーの全員が黙った。全員、身に憶えがあるのだ。
コイツらなんだ?自分の飯の種を、気軽にホイホイ話しちまってるのか?全員クビだぞ。タエは態度に出さないが憤慨した。
「よそで、企画を話してたんか?黙ってないで答えろ!
黙ってると、全員、査問委員会にかけるぞ!」
調査委員会は、タエの口から出任せのハッタリだった。
「話してました・・・」
全員がそう答えた。
「呆れたな・・・。上へ報告しとく。
覚悟して仕事しろ!」
タエは椅子を蹴飛ばすようにして、デザインデスクから立った。デザイナーたちは、オドオドしている。タエは怯えたデザイナーたちを尻目に、デザインルームを出た。
雪がやんだ。テレビは、公共交通機関の終日運休と、復旧は明日以降になると報じている。
Marimuraの社員専用ホームページは、
『二月四日、火曜に、公共交通機関が復旧する予定だから、Marimuraを始業する』
と伝えた。
二月四日、火曜。
公共交通機関が復旧した。タエとケイは電車の遅れと通勤の混雑を考えて、いつもより早めに出社した。
Marimuraの一階ラウンジにあるエレベーターホールの掲示板には何もなかったが、レディース部がある五階エレベーターホールの掲示板に、緊急人事異動が発表されていた。
『本田ヤスオ
レディース事業部長、レディースアウターウエアデザイン企画室長(兼務)に任ずる。
大沢ケイ
総務部総務チーフ(係長)に任ずる。
木村タエ
レディース事業部レディースアウターウエアデザイン企画室、第一デザインルーム、チーフデザイナー(係長)に任ずる』
タエとケイは昇進していた。まだ電車が遅れている。誰もデザインルームに現れていない。デザインルームに入るなり、タエはインターホンで、総務部のケイに連絡した。
「なんなの!どうなってるん?ケイ!どういうことなの?」
「あたしにもわからない。すぐ、そっちへゆく!
とにかく、本田ヤスオが矢部ヤスオかどうか、顔を見るべ!
本田ヤスオはもう出社してる。ヤスオは部長室にいるはずだ!」
通話が切れた。ケイの総務部は六階だ。ここレディース部は五階だ。
まもなく、ケイが緊張した様子でデザインルームに現れた。
「さあ、行こう!」
レディース事業部の部長室は五階フロアの中央南側にある。
レディース事業部だけでなく、メンズ、ティーンズ、チャイルド、ベビー、インナーなど、全ての事業部が自然光の下でデザインできるよう、デザインルームは各階フロアの北側にあり、デザインルームはチーフの名で呼ばれる習慣になっている。タエが所属するデザインルームはすでに「キムラルーム」だ。
タエとケイは、デザインルームを出て、レディース事業部の部長室へ歩いた。
Marimuraの各階フロアのパーティションは、全て透明な強化ガラスでなされている。通路を歩くと、デザイン、商品企画、営業、デリバリーなど、各担当部署内が一目瞭然で、各部署がお互いを監視しているようなものだ。
「ねえ、ねえ、あれがヤスオ?」
通路を歩きながら、ケイが通路の先の部長室にいるメガネをかけた長髪に髭の男を目配せした。遠目にも高そうなスーツを着ているのがわかる。矢部ヤスオに似ている。
「戻ろう・・・」
タエはケイの腕を取った。まわれ右して通路を戻った。
ヤスオは短髪だ。髭はない。視力は 1.2だ。メガネはしない・・・。
ヤスオを思いだしたタエだが、あの男、ヤスオに似ていると思った。
「同名か?いなくなって一ヶ月だろう?髪も髭も伸びるべさ」
そう言ってケイがふりかえろうとした。
タエはふりかえろうとするケイの動きを止めて囁いた。
「ヤスオはあんな高いスーツを持ってないはずだ・・・。
なんで、Marimuraにアイツがいるんだ?アイツがここにいる理由はなんだべ?
いったい何が起ってるんだ?アイツ、どう見たって、ヤスオだぞ・・・」
「わからない。総務に情報は入ってない」
総務部のケイは、人事部から何も聞いていない。
「まだ、時間があるから、デザインルームに寄ってく?」
「総務に戻る。本田ヤスオが何者か調べるよ」
「うん、わかった。何かわかったら、あとで教えてな」
「もちろんだべさ!」
タエはエレベーターホールから、階段へ移動するケイを見送った。
始業時刻になった。
タエのチーフデザイナー昇進に、デザインルームのデザイナーたちは驚いていなかった。むしろ、チーフデザイナーの牧村ミエコに代って、チーフデザイナー補佐のタエがもっと早くチーフに成っているべきだとの声がでていた。
昇進の挨拶をすませ、タエはデザインデスクでデザイナーたちとともに、六月の秋冬展示会に向けて、デザイン企画の作業を進めた。
タエのデザイン企画用のディスプレイに、本田ヤスオレディース事業部長(レディースアウターウエアデザイン企画室長兼務)から、
『木村タエは、木村ルームのデザイン企画とデザイン企画管理の両方をすること。
夏物企画が一ヶ月遅れたから、六月の秋冬展示会に向けて、二月二十日までに、デザインと地色と素材を決定すること』
と業務指示がメールで届いた。
タエはデザインデスクから立ちあがり、デザイナーたちに作業を中断させて指示した。
「夏物の企画が一ヶ月遅れたから、六月の秋冬展示会に向けて、二月二十日までに、デザインと地色と素材を決定してくれ。
十六日間でデザイン企画を提出しなければならないから、気を抜くな!」
基本企画は、デザイン企画室長が統括する五つのレディースアウターウエアデザインルームで決る。
基本企画の進行は、デザイン企画室長と各デザインルームのチーフデザイナー、テキスタイルデザイナー、色彩デザイナー(カラーリスト)たちによって進行可能か否か検討される。
Marimura内にもテキスタイルデザイナーはいるが、素材は素材メーカーが担当する。素材メーカーの担当テキスタイルデザイナーと色彩デザイナーとの交渉になる場合が多い。
Marimuraのデザイン企画は極秘事項だ。素材メーカーにとっても、Marimuraなどアパレルメーカーの交渉内容は他言厳禁、極秘が暗黙の了解だ。
しかし、アパレルメーカーに無断で、素材メーカーが、アパレルメーカーのデザイン企画を他のアパレルメーカーに転売する場合もある。あるいは、他のライバルアパレルメーカーがデザイン企画を盗む場合もある。
口が軽いとデザイナーは信用されず仕事を任せてもらえない。そういう事を考えれば、タエは口が堅いと認められたことになる。
「あーあ、口の軽いのはチーフに向かないんだね・・・」
タエの考えを感じたらしく、生方京子がぼやいている。
タエはデザイナーたちに指示し終えて、デザインデスクの椅子に座った。そして、眼光鋭く、斜め向いにいる生方京子を睨んだ。
「生方。チーフをする気があれば、室長に話しておく。
デザイン企画せずに、デザイン企画の計画と進行と管理と、外注交渉をしてくれ。
私はデザイン企画の方が向いてるんだ。
デザイン企画の管理なんて、私にゃ向いてない!」
「私は、そんなこと・・・」
生方京子は、チーフデザイナーがする具体的な仕事を知っているはずなのに、念を押されて、しどろもどろしはじめた。チーフデザイナーという肩書きに憧れていただけのようだ。
「まあ、そう言うな。その気があるから、ぼやいたんだろう。
室長に掛けあってやるよ」
「・・・」
タエの言葉に、斜め向いのデザインデスクで、生方京子が顔を真っ赤にしている。この態度、あたしに対する怒りだろうか?それとも、立場を考えずに出過ぎた事を言ったと自己嫌悪してるのだろうか?どっちにしても、この口数が多い女の口を封じたい。そうすれば、とかく口数が多い他のデザイナーの見せしめにもなる。
そう思いながら、タエはインターホンの、レディース事業部長の通話ボタンを押した。
「部長の本田だ。用件はなんだ?」
インターホンから矢部ヤスオに似た、本田部長の声が聞える。デザイン専用の端末やパソコンで画像通話もできるが、顔が見えると言いたい事も言えない。そのため社内通話ではインターホンが多用されている。
「キムラルームの木村です。
チーフデザイナーをやりたいと言う者がいるので、部長にその旨、お願いに行きたいと思います。
伺っていいですか?」
「ちょうど、来てもらおうと思ってたところだよ。
チーフをやりたいと言うのは、生方か?」
「そうです」
「ふーん・・・。よかろう。とりあえず、チーフデザイナー代理をさせろ・・・。
木村一人で、こっちに来てくれ」
通話が切れた。
「生方。許可が出た!チーフデザイナー代理をやれ!私は部長に会ってくる」
タエはキョンに言った。インターホンの本田部長とのやりとりは聞えたはずだ。
「そんな・・・」
キョンが困り顔になって俯いた。
「チーフ代理、やる気があるんだろう?」
タエは優しく言ってキョンに微笑んだ。
「うん・・・」
キョンが俯いたまま頷いている。
「そんなら、やれ!前任のチーフみたいに、ヘマすんなよ!
よそで企画を話すんじゃないぞ!
ケーキや食い物で釣られて、ペラペラ企画を話すなよ!」
タエの言葉で、デザイナーの全員が黙った。全員、身に憶えがあるのだ。
コイツらなんだ?自分の飯の種を、気軽にホイホイ話しちまってるのか?全員クビだぞ。タエは態度に出さないが憤慨した。
「よそで、企画を話してたんか?黙ってないで答えろ!
黙ってると、全員、査問委員会にかけるぞ!」
調査委員会は、タエの口から出任せのハッタリだった。
「話してました・・・」
全員がそう答えた。
「呆れたな・・・。上へ報告しとく。
覚悟して仕事しろ!」
タエは椅子を蹴飛ばすようにして、デザインデスクから立った。デザイナーたちは、オドオドしている。タエは怯えたデザイナーたちを尻目に、デザインルームを出た。