雲台二十八将(完)

文字数 1,494文字

 劉秀と鄧禹の死から数年後、劉荘はお抱えの絵師に肖像画を描かせた。
 一人ではない。劉秀=光武帝の争覇戦において特に功のあった二十八人の将軍像である。
 それは洛陽南宮の雲台(うんだい)に描かれたため、彼らは「雲台二十八将」と呼ばれ、歴史にその功名を残すこととなった。
 そして鄧禹は、その筆頭として描かれている。


 鄧禹はその死に至るまで、公務においてついに明確な失敗をすることなく天上へ旅立ってしまった。つまり劉秀との約束は鄧禹の望む形で守られることと決まったのだが、この約束については、当然劉荘も生前の父から聞かされている。
 劉荘もその内容にいささか唖然としたものだが、それでも鄧禹の有能さを知っていれば父の懸念も理解できた。このままでは鄧禹の真価や本意が後世に(のこ)らなくなるか、誤って伝えられてしまう。


「とりあえずは公務に関して以外の事績を遺しては」
「そうだな、私的なこと、内向きのことであれば、仲華も文句は言うまい」
 そのようなやり取りが皇帝親子にあったかはわからないが、鄧禹は『後漢書』において「教養があり、誠実さでは非の打ち所がない」「母に(つか)えては至孝」「天下が定まって後は、常に名勢から遠ざかろうとしていた」「子供は十三人あり、家庭を修め整え、子や孫を教育し、全員になにかしらの技能を身につけさせた」「収入は与えられた封邑からのみ得て、殖財には興味を示さなかった」「これらのことにより皇帝はますます彼を重んじた」と絶賛されている。

  
 だが劉荘としては、やはりもう一つくらいは残しておきたいと考える。
 そのための雲台二十八将像であった。
 もちろん鄧禹一人のためではなく功臣すべてのための像ではあるのだが、建国の元勲である彼らの筆頭に鄧禹を置くことで、彼の有能さと実績を後世まで示そうと思ったのである。


 鄧禹は将として負けが多い印象があるが、河北統一戦では多数武勲があり、長安遠征においてもいくつもの戦いに勝ち続けたからこそ一時的にとはいえ帝都を手に入れることができた。
 また二十八将像には馬援(ばえん)という大功ある将軍が描かれていないのだが、これを不思議に思った弟に、劉荘は理由を尋ねられている。馬援の娘が劉荘の妻――皇后――になっており、彼が皇室の身内になっていたことがはずした理由なのだが、この弟も含め鄧禹が筆頭であることを疑問視する声があがったとの記録はない。


 さらに幾人もの勇将の真価を見抜いて抜擢してきたことや、はっきりとした記述はないが、争覇戦において、政略まで要素に入れた戦略や策戦を光武帝の軍師として立案し、各将軍が存分に力を発揮できる状況を造り上げてきたことは明らかで、これらのことからも「将をひきいてきた将」として鄧禹がその位置にいることは、当時自然なことと考えられていたのだろう。


 そんな中、劉荘だけは後世にまで目を向けていた。
「これで後の世でも、わかる者にはわかるであろう」
 肖像画の一番端、つまり筆頭にいる父の親友にして自らの師である鄧禹の姿を眺めながら、劉荘は遠い未来に想いを馳せた。


 劉荘――明帝は父の偉業を引き継ぎ、後漢王朝の基礎を築く名君として名を遺す。彼の息子である第三代皇帝・章帝もまた良君といってよく、彼ら三代により後漢王朝の土台は固められた。彼らの後は幼帝が続き、外戚・宦官による腐敗が朝廷を染め国を損なってゆくことになるが、それでも後漢が十四代・百九十五年の長寿を保てたのは、彼ら三人による地固めが盤石に近かったためであろう。
 その中に、鄧禹の功績も確かに存在した。
 

                                            完


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