封禅の儀

文字数 1,874文字

 そして建武中元元年(西暦56)。劉秀は臣下から一つの献言を受けた。
封禅(ほうぜん)の儀を()りおこなえというのか」
 封禅の儀とは、古代中国における霊山・泰山(たいざん)において、功や徳のある王や皇帝が天と地に天下の太平を報告し感謝をする儀式のことであり、前回封禅をおこなった武帝の時代は、前王朝(前漢)の最盛期と言ってよかった。
 だが新しい漢(後漢)は劉秀と彼の臣下たちの尽力で平らかな世を取り戻しつつありながらも、まだようやく(いくさ)の傷を癒し、徐々に回復に向かっている段階で、武帝期には程遠い。
 それを知る劉秀としてはいささか気が引けるし、また前述のように、封禅をおこなえるのは功と徳のある帝王だけで、そのあたりでも羞恥とおこがましさが先立ってしまうのだ。


 だが意外にも、そのような劉秀の考えや真情をくみ取っているであろう鄧禹までが賛意を示してきた。
「お執りおこないくださいませ、陛下」
「特進、おぬしまでそのようなことを言うのか」
「陛下が天下を再統一なさってすでに二十年。確かに武帝の御代(みよ)の華やかさには及ばぬとはいえ、質実においてはかの治世を上回っておりましょう。また封禅を執りおこなうことで、現在が戦乱に荒らされることのない穏やかな時代(とき)であると示し、民に心からの安堵を与えることがかないましょうゆえ、どうぞご再考を」
 鄧禹の賛意に劉秀は軽く驚いていたが、彼の意見を聞くとしばし考え込む。
 言われてみればすでに(いくさ)が終わって二十年が過ぎているとはいえ、これまではまだ「戦後」の暗さが意識にこびりついている。
 だが「天下泰平」を宣言する封禅の儀を執りおこなうことで、民の意識を「戦後も終わった」と書き換えることも可能かもしれない。
 明確な宣言や儀式の効果は馬鹿にしたものではないのだ。


「なるほど、確かにそうだな。民のためだ、多少の恥はしのぶことにするか」
 そう考え、納得した劉秀は笑みとともに決意し、それを受けた鄧禹もほっと笑みを漏らすと、あらためて平伏した。
「ご英断にございます。陛下こそ封禅の儀にふさわしい賢帝と臣下一同感服いたしております」
「そのような世辞はよい。ただしおぬしにも封禅には同行してもらうぞ。司徒としてな」
 笑って手を振る劉秀だが、ただでは言うことを聞かなかった。
 鄧禹に特進から司徒へ昇進し、その上で封禅の儀についてこいというのだ。
 司徒とは以前は「大司徒」と称されていた人臣最高位・三公の一つである。
 この時期、賢臣の一人、朱祜(しゅこ)の献言によって三公の名称は大司徒・大司空・大司馬から、司徒・司空・太尉と改称されていた。前王朝(前漢)も爛熟期に入ってくると、名称まで華美なものが多くなり、それを嫌った劉秀が献言を取り上げて改めたのだ。


 ゆえに鄧禹は驚いた。
「いえ陛下、そのような… 臣に司徒の任は重すぎますれば…」
 鄧禹が辞退しようとするのは謙譲からだけではない。
 司徒とは三公の中でも最上位で、いわば首相である。劉秀は天下を統一したときから、将軍を(まつりごと)に参加させず、させるにしても少人数で、しかも三公の地位には就けないことを方針としていた。これはその方針を覆すことになってしまう。
 なにより司徒(大司徒)は二十数年前、劉秀が即位した折、鄧禹が拝命した地位である。そして大司徒時代の鄧禹は、弁明のしようのない大失態を犯した。
 それを思えばいかに勅命とはいえ、拝命するにはためらいが大きい。


 が、劉秀はにやりと笑って鄧禹の辞退を退ける。
「主君に忍耐を強いておいてそれはなかろう。それにこれは泰平を世に示す一環だ。平らかになった世で将も戦いを忘れたとな」
 そう言われて今度は鄧禹がはっとする番だった。
 統一戦に功のあった将軍を政治に参加させなかったのは、一義には戦いと政の能力は別物と考えたからだが、同時に(いくさ)の臭いを朝廷から薄れさせる意図もあった。
 しかしもうその心配はない。戦は完全に遠ざかった。ゆえに将軍を朝廷の顕職に就けても問題はない。
 それを民や朝廷に示すために、あえて鄧禹を最高位である司徒に据えようというのだ。


 さらに司徒(大司徒)という位は鄧禹にとって良き思い出はない。
 その疵を拭い、鄧禹の心も癒してやろうという劉秀の温情でもある。
 これもまた一種の祓除(ふつじょ)なのだ。


 それを察した鄧禹に、もう拒む理由はなかった。
「御意に従いまする、陛下…」
 深く頭を下げた鄧禹の声はわずかに濡れていて、それを聞いた劉秀は小さく微笑んだ。


 この年二月、劉秀は泰山にて封禅の儀を催し、四月に元号を「建武中元」へ改めた。
 鄧禹も彼に付き従い、儀式の準備に参加し、参列した。



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