援軍襲来

文字数 3,146文字

「どうやらほころびが見えてきましたぞ」
 安邑(あんゆう)攻囲が始まって三月(みつき)が過ぎた頃、樊崇(はんすう)が軍議の席で、大らかさと喜色を混ぜ合わせたような笑顔で告げてきた。
 安邑は防衛するに充分な造りをしているが、だからといって絶対ではない。特に内部はどうなっているか。簡単に間諜を潜入させるわけにはいかないが、それでも防衛する兵の様子などから、わずかに内情を憶測することはできる。
 樊崇は常に攻撃を繰り返しているわけではない。時に攻め、時に休み、なにもしない日が何日も続くことも珍しくなかった。そんな戦況の中、敵兵の士気にだれが見え、緒戦に比べて活気も失われてきているというのだ。
「あるいは食糧も足りなくなってきているのかもしれませぬな」
 樊崇はそうも推測してみるが、それはありえると鄧禹も考えていた。
 更始陣営にとって最大の敵は赤眉で、彼らとの(いさか)いは今鄧禹たちがいる河東郡の南にある弘農郡でおこなわれている。ゆえに安邑は事態の中心からやや離れた場所にあるため油断があったかもしれない。鄧禹の侵入は奇襲に近く、備えに割ける時間も少なかっただろう。


 これは安邑陥落も近いか、と諸将が色めき立つ中、鄧禹は卓上の地図を注視しながらつぶやいた。
「そろそろ、かもしれません」
「そろそろとは、前将軍 安邑への総攻撃ですか」
「いや、長安(更始政権)から安邑への援軍です」
 将軍の一人、馮愔(ふういん)が質すことに、鄧禹は首を横に振って答えた。その言葉に諸将に緊張が走る。
 顔を上げた鄧禹はそんな彼らを見まわしながら続けた。
「数日前に報告した通り、つい先日、長安は赤眉に大敗しました」
 この年の三月、じりじりと長安へ迫ってくる赤眉の大軍を本格的に撃退するため、更始帝は李松(りしょう)を出動させる。さらに洛陽に駐屯する朱鮪(しゅい)にも出撃を命じ、二軍合流の後に蓩郷(ぼうきょう)で赤眉を討たせようとしたがこれに失敗。李松は大敗し、なんとか逃走に成功したが、兵は三万が戦死して、朱鮪も洛陽へ帰っていった。これにより長安の更始政権はさらに追いつめられたことになる。
 鄧禹は長安から弘農にかけて常に偵騎を放ち続けているので、この戦いについても速く正確で豊富な情報を得ており、すでに諸将にもその内容を伝えていた。
「それはうかがっております。ですがそれならなおのこと長安はこちらへ兵を向ける余裕がないのでは」
 車騎将軍に任じられている宗欽(そうきん)が、わずかに首をかしげながら質してくる。穏やかな性格で、いささか将軍に見えないところもあったが、樊崇に次ぐ副将的な立場であり、決して無能ではない。
「確かに。ですがこれを長安からの視点で見てみると、いささか事情が変わってきます」
 その宗欽にうなずきながら、鄧禹は説明を続けた。


「まず彼らにとって我らなど、赤眉の尻馬に乗って攻め込んできた藪蚊程度にしか考えておりますまい。ゆえに赤眉を撃退すれば、我らも恐れをなして安邑から逃げ出すと考えていたでしょうし、そうでなくとも赤眉を撃破した余勢を駆って、そのまま安邑救援に駆けつけるつもりだったかもしれませぬ。ですが彼らは赤眉に大敗しました。これにより藪蚊の鬱陶しさも増してきます。また再度赤眉に立ち向かうためにも、敗北によって低下した兵の士気を高めなおさねばなりませんが、それには新たな戦いによる新たな勝利が最も手っ取り早いでしょう。そのために都合のよい相手が安邑にいる我らというわけです」
 実際、赤眉が関中に入ったのを契機に河東へ侵入してきたのだから、更始陣営から「尻馬に乗って」と思われている可能性は高い。だがそれ以外の評価に諸将はいささか腹を立てた。
「見くびられておりますか、我らは」
「総大将が青二才の若造ですから、それも無理はありますまい」
 馮愔が憮然と言うことに、鄧禹は笑いながら悪びれずに答える。自虐の内容ではあるが、彼としては更始帝たちの油断を誘えるなら返ってありがたいくらいである。だがもちろんそれですませるつもりもない。
「我らの安邑攻囲もすでに三月(みつき)。準備不足だった安邑に、そろそろ限界が近づいてきていると長安も察しているかもしれませぬ。これで安邑まで落とされれば長安の権威は失墜し、さらに苦境に追い込まれる」
「ゆえに我らを討つために長安から援軍が発せられると」
 顎を撫でながら樊崇がまとめるように言うことに、鄧禹はうなずいた。 
(しか)り。ゆえにこれからは安邑攻略に尽力しつつ、状況によっては敵援軍の迎撃に向かう可能性があること、常に意識し、準備しておいてくだされ」
「御意」
 鄧禹の予測に理を見た彼らは気を引き締めた。 


 諸将に安邑攻略を任せる中、鄧禹は長安方面への偵察に全力を注ぐようになった。可能な限り偵騎を出し、可能な限り近隣の地形を調べ上げ、可能な限り地図を入手して、更始陣営のわずかな動きも見逃さず、その動向を予見しようとする。
 そしてその努力は報われた。
「ついに長安が大軍をこちらへ発したか」
 偵騎からの報告に鄧禹らは色めき立つ。
 発見は早かった。多数放った偵騎の一人が見つけると、それは瞬く間に安邑の鄧禹へ知らせられる。偵騎はさらに放たれ、行軍速度や道程、敵将が誰なのかなど、詳しい情報を集めてゆく。
 彼らが正確にどの城から発せられたかはわからなかったが、河東郡の西隣の郡、左馮翊(さひょうよく)を東進してきていることは確認された。あるいは鄧弘農郡にいる赤眉を攻撃するための軍かもしれないが、だとすれば数が少なすぎる。
 さらなる偵察で主将の名が樊参(はんさん)とわかった。氏名からして更始陣営の実質的首領の一人、樊崇(はんすう)(鄧禹配下の樊崇とは別人)の縁者かもしれないが、正確なところはわからない。
 それでも彼が更始陣営の重鎮でないことは確かで、だとすれば赤眉のような強力な大軍相手に派遣されたとは考えにくく、自分たちだけを目標としている可能性は高い。
 その予想は樊参が赤眉をやりすごし、東進を続けることからも明らかになったが、彼の行軍路に鄧禹はわずかに小首を傾げた。
「こちらに向かうにしては、やや南に寄っているか…」
 左馮翊を東進している樊参だが、安邑へ直進してくるわけではなく、やや南寄りの行軍路を取っているのだ。あるいは安邑すら素通りして、劉秀の後方基地である河内郡を目指しているのだろうか。
 が、すぐに鄧禹は苦笑し、破顔した。
「そうか、迂回して我らを後方から攻めるつもりか」
 考えてみれば敵のいる場所へまっすぐ進む方が迂闊(うかつ)で、迂回して奇襲をかける方が順当である。
 だが樊参は、自分たちの行軍を隠そうともしておらず、もし奇襲を(かく)しているなら矛盾が生じるが、鄧禹はその理由も見抜いていた。
「こちらがすでに自分たちを捕捉しているとは考えていないな…」
 樊参は鄧禹の偵察範囲が隣郡まで及んでいるとは夢にも思っていないのだろう。
「やはり舐められているな」
 自分に対する評価の低さに鄧禹は苦笑を漏らすが、前述したようにこれはありがたい話だった。


 こうして樊参軍の様々な情報を精査した鄧禹は、諸将を招集し軍議を開いた。
「前将軍・鄧禹の名において命ずる。安邑包囲に車騎、軍師両将軍を残し、驍騎、積弩、建威、赤眉の各将軍は(かい)の南部にて樊参の軍を討て」 
 静かながら(かく)とした鄧禹の命令に各将軍に陽性の緊張が走る。
「いよいよですか、前将軍」
 驍騎将軍・樊崇は腕を撫するように喜色を浮かべ鄧禹に確認する。それは彼とともに出撃を命じられた馮愔、登尋、耿訢の各将も同様である。諸将にはすでに樊参の接近は伝えていて、いつ迎撃に向かうのかを待つばかりだったのだ。
 そんな彼らを見まわしつつ鄧禹はうなずく。
「はい。これより諸々の策戦を説明しますので、こちらを見てください」
 言いながら鄧禹は卓の上に広げられた地図に視線を落とし、各将もそれに(なら)う。



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