急報

文字数 3,412文字

 銅馬は、上から下まで、将から兵まで、ただ一人の例外もなく混乱した。
 数からいえば、蓋延と鄧禹二人の兵を合わせたより銅馬軍の方がまだ多い。だが予想外の攻撃に、陣だけでなく頭の中も思い切りかき回された将兵は、事実ではなく恐怖から発する結論にたどり着いた。
「敵の援軍だ! 大軍がやってきたんだ」
「敵の大軍が救援にやってきたぞ! もう駄目だ。逃げろ!」
 恐怖による誤報の伝播は津波にも似て銅馬全軍へ一気に波及し、彼らの大半は北へ向けて逃走を始めた。北が彼らの根拠地、あるいは故郷だからである。その動きを見た鄧禹と蓋延は、一旦兵に攻撃をやめさせ後ろへ退かせた。
 事ここに至れば無理に攻撃を仕掛けて敵に損害や混乱を与える必要はない。鄧禹たちの目的は鉅鹿にいる劉秀本隊へ銅馬を行かせないことで、それは達成されたのだ。
 とはいえ鄧禹も蓋延もなにもせずこのまま敵兵を逃がしてやるつもりはなかった。あくまで兵を退いたのは一旦である。
 銅馬兵は拡散するように逃げているが、前述したように大きな流れは北へ向かっている。そしてほとんどの銅馬兵が背を向けてこちらへ向かってくる可能性がほぼなくなった直後、鄧禹と蓋延は同じ命令を発した。
「追撃!」
 その命令とともに二つの騎馬隊は弧を描くように始動し、銅馬兵の後背を襲い始めた。戦意をなくし、恐怖に駆られた兵の背を襲うのである。これ以上安全で、これ以上効果のある攻撃もなかった。


 非情であり残酷でもある攻撃だが、敵兵の数を可能な限り減らし、彼らの心理へ劉秀軍への恐怖を刻み込むことは、これからも続く戦いのために必要であった。
 彼らは銅馬全軍の一部でしかない。だが一部でも脆い箇所ができれば、そこは重要な弱点になる。


 さらに言えば鄧禹には、銅馬敗残兵が劉秀へ帰順しやすくするためという狙いもあった。
 彼らの心には劉秀軍への恐怖だけでなく強さも刻み込まれたはずである。銅馬に限らず各勢力の兵のほとんどは確固たる意志があってそれぞれの勢力に所属しているわけではない。「生きるため」「飯が食えるから」「近くにいたから」という理由が大半である。
 となればより生き残りやすい勢力への帰順は彼らにとって自然な流れで、軍の強さは彼らの「志望動機」の大きな一助になる。
 鄧禹にとってこれは、その流れを作る一環としての追撃でもあった。


 そのため鄧禹には「あまり殺したくない」という矛盾する意識もあった。そのような考えが戦場においては甘い、あるいは危険であることは鄧禹も理解しているが、目の前の逃走兵がいずれ味方の兵になるかもしれないと思えば、まだまだ自兵の少ない劉秀軍の軍師としては無理からぬところでもある。
 また今回の出兵目的の一つは「蓋延に武勲を立てさせる」である。とすればあまり自分が出しゃばっては出兵の意味がなくなってしまう。
 自然、鄧禹騎馬隊の追撃速度はゆるみ、蓋延突騎兵へ主力の座を譲った。


 これは鄧禹はまだしも武勲を立てる機会を潰される彼の騎馬隊には不満かもしれない。だが鉅鹿を出発する前、鄧禹は彼らに「蓋将軍に武勲を立てさせるため」という今回の出兵理由を説明してあったし、それを理解できる人材を選出しているつもりでもあった。
 そうは言ってもやはり不満は残ろう。そんな彼らへの事後補償も鄧禹は忘れなかった。
「案ずるな、おぬしらの働きのすべては必ずや明公(との)のお耳に入れておく。褒賞も満足ゆくだけのものを用意していただくゆえな」
 蓋延の突騎兵を前方に見ながら、鄧禹は自兵に笑顔で告げた。仮に褒賞が少なければ自分の分を彼らに分け与えるつもりである。劉秀軍の軍師である鄧禹には、褒賞よりこれからの戦いで彼らに存分に働いてもらう方がはるかに重要でありがたかったのだ。


 自分の言に喜色を浮かべる兵たちに満足すると、鄧禹は前方へ向き直る。と、追撃を続ける突騎兵から一騎下がってくるのが見えた。
 その騎兵は巨躯で普通の兵ではありえない威を放っている。それゆえ鄧禹には彼が誰だかすぐにわかり、軽く目を剥いて驚いた。
「蓋将軍! いかがなされた、こんなところへ」
 驚き尋ねる鄧禹の横へ蓋延は馬を並べる。彼の甲冑も返り血をあびてところどころ赤黒い点ができているが、身体には傷一つ負っていないようだ。蓋延の剛勇ならそれも当然と思いつつ、やはり安堵する鄧禹は同じ問いを繰り返した。
「いかがなされた、蓋将軍」
「何をとは、将軍、文句を言いに来たのよ。到着が遅いではないか。おぬしがもう少し早くやってくれば我らは清陽へ逃げ込まずにすんだのだぞ」
 鄧禹と馬を並べながら蓋延は体格に似合った豪快な笑いを放つ。その笑いからも蓋延が鄧禹の遅参を本気で怒っているわけではないとわかり、彼も諧謔を込めて返答した。
「申し訳ござらん将軍。しかし遅れるのはわかっていたことですし、将軍も我らが到着するまで待っていていただければよかったのですが」
 遅れたことは事実であり、そもそも遅れたのは鄧禹が銅馬の不規則な動きを考慮に入れていなかったことが原因である。それゆえ鄧禹は素直に謝ったが、ちくりと釘を刺しておくのも忘れない。蓋延の緒戦敗退は、彼が敵をあなどり、寡兵で戦端を開いてしまったことも大きな要因なのだから。
 それを鄧禹に言われることはわかっていたのだろう。蓋延は笑いながらもいささか、そして真摯に謝った。
「はっは、すまぬ、それを言うてくれるな、耳が痛い。ではお互い様いうことで水に流そう。ではまた後でな!」
 蓋延はさほど気にすることなく笑って話をまとめると、そのまま馬足を速めて自軍へ戻っていってしまった。
「懲りない人だ。憎めぬ人でもあるが」
 そんな蓋延に鄧禹は小さく苦笑するが、あの調子では先走りの敗北も深く反省していないだろう。それは危惧するところではあるが、同輩でしかも若年である自分が諭しても、効果がないばかりか返って恨みを買ってしまうかもしれない。この件はとりあえず劉秀に任せるしかないと考えつつ、それとは別に互いの失策を責め合うことなく早々に水に流して遺恨を残さぬようにという蓋延の気遣いに、彼の度量の大きさをあらためて感じる鄧禹であった。


 この後しばらく追撃を続けた蓋延と鄧禹だったが、深追いすることなくそれぞれの騎馬隊を停止させている。前述の通り目的は達せられているし、いずれ銅馬主力とも雌雄を決せねばならないだろうが、今回はここまでで充分だった。
「一方的な追撃とはいえ死にものぐるいの反撃もありえます。すでに勝敗が決した戦いでこれ以上明公(との)の兵を損なうわけにもまいりませぬし」
 蓋延が敗北の汚名を(そそ)ぎ、銅馬に対する復讐心も満たされた頃、鄧禹は彼にこう告げている。戦いは何が起こるかわからないし、彼らはこのあと鉅鹿へ戻り、再度攻城戦にも参加しなければならないのだ。一兵とて無駄にすることはできなかった。
「そうだな。明公(との)へいい土産もできたことだしな」
 勝ち戦に酔っても、溺れないのが優秀な将である。蓋延も納得して兵を納めた。
 それも存分に敵を追い散らした結果あってこそだが、蓋延の言う「土産」も大きな理由だった。
 銅馬の将を捕らえたのである。
 まったく無警戒のところへ受けた奇襲・挟撃から兵を立て直すことができず、自軍の潰走に巻き込まれ逃げるしかなかった将だが、とことん運に見放されたらしい。乗っていた馬が逃走中に矢を受けて落馬し、そのまま蓋延の兵に見つかってしまったのである。
 敵を大破し、その将を捕獲したとあれば、さすがに蓋延の名誉欲も充分に満たされたし、鄧禹にしても満足すべき結果だった。


「ではまずは清陽へ戻りましょう。そこで兵をねぎらい、休ませ、それから鉅鹿へ」
「そうだな、今日は存分に飲むとしよう。おぬしもつきあえよ、将軍」
「お手柔らかに」
 いささか強すぎる力で背を叩いてくる蓋延に、鄧禹は苦笑しながら応じる。彼は人並みには飲めるのだが、さすがに蓋延のような酒豪に一人では抗しえない。今夜の宴では戦闘以上に痛手(ダメージ)を受けそうな予感を覚える鄧禹だったが、帰還した清陽ではそんな心配を吹き飛ばす報告が劉秀から届いていた。
「なんだと、明公(との)鉅鹿(きょろく)を放棄し、邯鄲を目指していると!」
 邯鄲とは王郎の本拠地である。劉秀は鉅鹿攻略を中途で放り出し、王郎を直接攻めに行ったというのだ。
 あまりにも無謀で予想外の方針転換に、鄧禹だけでなく蓋延も愕然としていた。


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