天下統一

文字数 2,682文字

 この日から鄧禹の新たな戦いが始まった――というべきだが、実際はこれまでとやっていることは変わらない。地位は右将軍のまま――つまり具体的な権限を設けられることなくどのような案件にも関われる――様々な公務をこなしてゆく。
 これは本当に鄧禹にしかできないことだった。


 政治に詳しい者はいる。軍事に長けた者もいる。だがそのどちらにも詳しく経験のある者は鄧禹だけである。
 また新たな政策を発想する者がいて、新たな問題を発見する者もいる。それらはそれぞれの専門分野に属する者なら必要性や重要性を理解できるが、門外漢にはわからず、意見の対立を見ることも多い。
 だが鄧禹にはそれがわかる。高見から俯瞰(ふかん)して、それぞれの重要度と関連性を見極め、地上に降りてきて関係者にわかりやすく説明する。
 鄧禹は広い視野と高い見識をもって、新王朝の青写真を描き、それを官人に浸透させ、効率よく実現させることができたのだ。


 そして鄧禹の真価の一つ、人物鑑定=人材登用に関しても手を抜かない。
 すでに朝廷に出仕する者の中で、高い資質を持つ者はいないか、隠れた才を持つ者はいないかを常に観察し、これはと思った人物は劉秀に上奏して推挙する。
 さらに在野において評判の高い者の能力を見極めて登用し、それだけでなく鄧禹個人の人脈や偵人も活用して埋もれた人材の発掘も手掛ける。


 軍事に関しても同様で、中原の周囲に残る群雄の状況を見極め、彼らを征するにはどのような戦略を取ればよいか、どのような将軍を選べばよいか、兵をどのように集めればよいか、そのために(まつりごと)はどのようにおこなえばよいか、その逆に政になるべく負担をかけず兵を発するにはどうすればよいか等、中華大陸全土を視野に入れての戦略を創造する。政治と軍事と経済とを総合的に理解し判断できる者にしかできないことである。
 またどの戦いにどの将軍を派遣すべきか、劉秀と共に選抜するのも鄧禹の仕事で、それも的を射てはずすことがなかった。


 つまり鄧禹は新王朝と新帝国のすべてを把握し新たな国体へあまねく正常な血流を注ぎ込み循環させられる、それと同時に天下統一の征戦を構想・実行できる唯一の臣下だったのだ。


 これは万能を誇る劉秀にも可能なことではある。というより鄧禹は劉秀の構想を基本として、それを実現するために働いている。
 だが劉秀一人でこれほどの大事業をこなすことは不可能であるし、なにより皇帝の身分では返って動きにくい事例も多い。
 それを劉秀の分身として代わりにおこなうことができるのが鄧禹だった。鄧禹だけが劉秀の構想をすべて理解し、実務をつかさどれる男なのだ。


 これは鄧禹が政軍どちらにおいても実績を有していることも大きいが、彼が年若く、それでいて高位にありながら気さくで礼儀正しいことも理由だろう。このどちらかが欠けていても、おのおのの分野の俊才が集まっている各政策集団の反感を買い、うまくいかなかったはずである。
 皇帝の威とおのれの実績を背にしつつ、それを実際には感じさせず、人臣に力を発揮させる。
 人材登用とその活用こそが鄧禹の一番の功績とも言われる所以(ゆえん)だった。


 鄧禹は自身でも政策を考え出したり、実行する能力はもちろんあった。
 だが彼はすでに自分一人だけで何かをおこなおうとする愚かさを骨身に染みるほど熟知している。
 また彼は劉秀政権における重鎮であり、その権威は年齢が上がってゆくごとに増してゆくことにもなる。
 そのような自分が「こうしろ」「ああしろ」といえば、どうしてもその方向に方針が決まってしまうだろう。それでは下位にいる者たちが、自由に、存分に、力量を発揮することができなくなってしまい、せっかくの人材を腐らせてしまうことになりかねない。
 鄧禹はそのような愚を犯さないよう自戒を忘れず、しかし時にやわらかく彼らを融和させ、時に厳しく制し、劉秀の政戦両略を(たすけ)ていった。

 
 そして建武十二年(西暦36)、鄧禹が歴史の表舞台から消え、劉秀の陰に徹するようになっておよそ十年、最後に残っていた公孫述を滅ぼした劉秀は、ついに天下を統一し、漢王朝の再興を果たした。 
 劉秀四十一歳、鄧禹三十四歳のことである。
 このときの様子は史書に残ってはいないが、劉秀と鄧禹が心から喜び合ったことは間違いない。


 翌、建武十三年(西暦37)。天下が定まったことにより功臣へ戸邑(こゆう)が加増された。
 鄧禹は高密候に封ぜられ、高密に加えて、昌安、夷安、淳于(じゅんう)の四県が与えられた。
 それだけでなく弟の鄧寛(とうかん)も明親候に封ぜられる。鄧禹の功績が多大であることが理由であった。


 また劉秀は天下平定に大功のあった将軍たちを(まつりごと)における高位に就けることを避ける方針を取っていた。
 戦場において功績を立てた将軍が朝廷でも高位を得るのは歴史的に見れば当然のようにおこなわれているため、むしろこれは異例の施策である。
 だが考えてみれば当たり前のことで、戦場で兵を率いる能力と、朝廷で政をつかさどる能力は、まったく別物で、それを兼備している男の方が珍しいのである。
 ゆえに数十人いる将軍の中から、劉秀が中央の政への参画を許したのは少数で、しかも彼らは全員三公からはずされている。
 普通であればこのような処置は将軍たちの反感を買い、悪くすれば謀叛の種にすらなりかねないが、叛乱を起こした者はもちろん、不満を持った者がいたとの記録も存在しない。
 劉秀の桁外れの器量と人間的魅力の為せる業だろう。


 そしてこの件についても鄧禹は劉秀に陰助を尽くしていた。
 彼は左将軍の買複(かふく)と共に右将軍の官を辞している。
 天下を手に入れた劉秀は、兵の削減と軍縮を望んでいた。それも当然で、兵を民(主に農民)に戻さなければ、荒廃しきった漢の全土が快復しない。それを知る鄧禹と買複は進んで官を返上し、兵を故郷へ帰したのだ。
 劉秀が最も信頼する重臣の行動である。他の将軍たちも従わないわけにはいかない。彼らも兵を解放し、国土回復の大きな一歩を踏み出した。


 そのような劉秀の意図を理解し、実行できる鄧禹(と買複)は、当然朝廷に残り、政を司る数少ない功臣の一人となった。
 彼らはそろって特進(とくしん)の官位に就く。
 人臣における漢王朝の最高位は三公(大司徒・大司馬・大司空)だが、特進はその下に位置する。特進は特に定まった職責があるわけではなく、前漢においては名誉職に近い地位だったが、それだけに鄧禹のように様々な案件に関わる男には最適な官位である。
 この位において、鄧禹は文官として劉秀に仕え、新王朝の基礎を造り上げる功臣たちの手助けをするようになった。


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