銚期突入

文字数 2,942文字

 南䜌(なんれん)は大きな湖の東岸にある。南下する倪・劉連合軍と、北上する劉秀軍、どちらも示し合わせたようにこの地を戦場と選んだ。互いの行軍路や進軍速度からどのあたりで相対することになるか、だいたいの地点は計算できる。その付近で戦場に適した土地ともなれば、これもおおよそ予測はつき、いわば双方の暗黙のもと、戦場が決定することは多々あるのだ。
「南䜌か。もう少し自軍に有利な地を選びたかったがな」
 決戦の地がほぼ確定したところで、劉秀はやや憮然とつぶやいた。
 戦場に適した土地ということは、さほど遮蔽(しゃへい)物もない広い土地ということである。そのような地では奇策や罠をほどこす要素も少なく、戦い方は正攻法、つまり正面から激突する戦術を採らざるを得ない場合が多くなる。それはつまり、猛将である倪宏(げいこう)の得意とする戦い方なのだ。
 しかも前述したように、南䜌は西側に大きな湖があり、互いに側面――倪・劉軍は右、劉秀軍は左――に水を受けることになる。劉秀軍の有利な点は寇恂(こうじゅん)ら北方の突騎兵を有し、強大な機動力を備えていることだが、このような戦場では左へ騎兵を出すわけにいかず、長所を半減させられてしまうのだ。
 劉秀としてはこれら様々な不利を抱えたくはなかったのだが、今回は自らが好きに戦場を選べる状況ではなく、致し方ないところだった。


 とはいえ劉秀はさほど悲観はしていない。
 広阿以降、劉秀軍の陣容は飛躍的に強化された。個人戦闘に優れる者だけでなく、将才や将器にあふれる者も合流している。この戦いは彼らを旗下に迎えての初陣でもあった。それゆえ不確定な要素も多く不安もあるが、彼らが倪宏におさおさ遅れを取るとも思えない。
「取るとすればわしがあの者たちを使い切れていないということだろう」
 試されるのは彼らの武勇だけでなく、自らの将器だということも理解している劉秀だった。


 そして劉秀にはもう一つ、大きな朗報があった。
 使者の往来で劉秀も鄧禹と蓋延が銅馬の撃退に成功したことを、すでに知っている。そして鄧禹たちにも劉秀が鉅鹿から離れ、倪・劉の援軍を迎撃に向かったことは伝わっている。その際、使者を通して鄧禹と蓋延には「本隊に合流。あるは別動隊として自由に動け」との命令も与えていた。蓋延だけであれば「帰ってこい」と命令するところだが、鄧禹がいれば最善の策を取ってくれることだろう。
「仲華たちを外に出しておいたのが思わぬ幸運となったな」
 鄧禹は劉秀が、このような事態を予想して自分を蓋延につけたのかもしれぬと考えていたが、さすがにそれは買い被りであった。


 だがこれが幸運になるかどうか、まだ微妙なところである。
 鄧禹と蓋延が援軍として倪・劉軍の後方を(やく)すことができれば最上だが、ここから先は綿密に連絡を取るというわけにはいかず、各自で兵を動かし、それを連動させなければならない。結果、もし鄧禹と蓋延が戦場に間に合わなければ、単なる戦力の分断で、下策中の下策になってしまう。
 だがやはり、劉秀はそこも楽観していた。
「仲華ならうまくやるであろう」
 劉秀の鄧禹への信頼は、ただの友誼(ゆうぎ)を越え、厚いものとなっていた。


 年上の旧友である主君から絶大の信頼を寄せられていた鄧禹は、それに足るだけの有能さを示していた。
「出立前にお伝えしたよう、戦場は南䜌になると思われます」
 鄧禹の騎馬隊と蓋延の突騎兵はすでに清陽を発していた。その途上、鄧禹は蓋延と馬を並べて走らせながら、出発前に話し合ったことをもう一度確認する。
「偵騎の報告による明公(との)と倪・劉の行軍路、行軍速度、そして周辺の地理を照らし合わせると、やはり南䜌あたりが戦場として最も適しています。おそらく明公も同じようにお考えでしょう」
 すぐに飛び出して劉秀と合流したい気持ちを抑え、十数騎放った偵騎の帰還を待ち、情報を精査した結果、鄧禹はそう結論づけた。
 これは劉秀の思考も考慮に入れてのことである。彼の主君であれば、自分と同じように考え、同じように戦場を決定するはずである。ちなみに鄧禹は、単身北上して劉秀の麾下に入って以来、北州各地の地図を集められるだけ集め、可能な限り()の地の地理を把握するように努めていた。今ではおおよその地理はすべて頭の中に入れてある。その脳内地図、そして騎馬隊の中にいた南䜌近くの土地出身の兵の意見も聞いての結論であった。


「そうか、おぬしがそう言うならそうであろう。では急ぎ南䜌へ向かわねばな」
「ええ。多少遠回りをせねばなりませぬし、急ぎましょう」
 蓋延の言いようは思考のすべてを鄧禹に丸投げしているとのそしりはまぬがれないかもしれないが、適材適所とも言えるし、また劉秀と同じようにそれだけ年少の軍師を信頼している証でもある。蓋延の本領は廟算(びょうさん)ではなく、戦場で敵を粉砕することにあるのだ。


 南䜌の戦いは死闘となった。劉秀の対王郎戦において、おそらく最も激戦となったのがこの戦いだろう。
 正面からの激突だったため互いに奇策を弄する余裕がなく――倪宏に至ってはそもそもそのつもりもなく――、ただただ力戦を余儀なくされたためだ。
 そのような死戦の中でも歴史に名を残すような武勇を見せつけた者もいる。
 まずは劉秀軍の銚期(ちょうき)である。
「つあっ!」
 敵軍と相対し、開戦を告げる銅鑼(どら)が両陣営から打ち鳴らされると、いち早く倪・劉軍へ突進していったのが彼だった。


 八尺二寸(約190)と現代でも飛びぬけて長身と言える雄偉を誇り、容貌もすぐれ、慎み深く威もある銚期は、実はこれまで鄧禹の配下にあった。鄧禹には人を()る目がある。銚期が外貌(がいぼう)だけでなく実力においても突出していることを見抜いた鄧禹は、彼を偏将軍とし、別動隊として真定や宗子の邑を攻略させた。それを為し遂げてから銚期はこの戦いにのぞんでいる。


 猛将・倪宏麾下の兵である。将の用兵を実践できるよう、彼らもまた勇猛だった。
 だが愛馬を駆って突進してくる銚期と彼の部隊に出鼻をくじかれたのは確かである。まして先頭を走る銚期の巨体と威は、彼らをして委縮させるほどのものだった。
「かあっ!」
 雄叫びとともに倪宏軍の先陣へ突入した銚期は、手にした(げき)を旋回させた。戟は(ぼう)(槍状の武器)と()(ピッケル状の武器)を合わせたもので、乱戦向きであり、銚期が愛用していた武器でもあった。
 最初の一撃で銚期は敵兵の頭蓋を叩き割った。血と脳漿(のうしょう)が飛び散り、頭部の上半分を失った兵は残った下半分の口を開けたまま地に崩れ落ちる。その間に銚期は二人目、三人目に同様の運命を叩きつけていた。一人は矛で顔面を突き刺し、一人は戈でこめかみを貫く。


 前述の通り、倪宏の兵は将の性向(せいこう)にふさわしく正面からの激突には無類の強さを示すが、意識も戦いぶりも攻撃に偏り気味で守勢には弱いところがある。今回は出鼻をくじかれたこともあり、開戦早々、その弱点をさらけ出してしまっていた。それは銚期だけでなく、彼に率いられた部隊の突入でさらに増大する。
 銚期の部隊は二千であり、倪宏の全軍は万を越える。それゆえ俯瞰(ふかん)して見れば銚期隊は巨大な倪宏軍の前軍に埋もれ込んだようなものなのだが、混乱の続く倪宏軍は彼らを包囲することができなかった。銚期隊は病原菌のようにうごめきつつ、倪宏軍を侵食してゆく。



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