劉秀の勅旨

文字数 1,433文字

 諸将に城邑の攻略と徴兵を任せ、韓欽らと兵の編制、長安の情勢、侵攻の行軍路、戦略等を練っていた鄧禹の元へ、思わぬ文書が届いた。
「陛下から…」
 洛陽にいる劉秀へは比較的こまめに報告を送っているが、今の彼は皇帝であり、鄧禹はその重臣である。いくら個人としての友誼(ゆうぎ)が厚いとはいえ、公私をわきまえる必要はあった。それゆえ鄧禹から送る文書も現在は公的なものに限定しているのだが、劉秀からの(ふみ)は以前に比べ減少していた。
 皇帝とは雲上人であり、言葉のすべては天意として扱われる。どのような文書でもすべて「勅旨(ちょくし)」となり、軽々しく送りつけてよいものではないのだ。
 それゆえ送られてきた勅旨に対し鄧禹も居住まいを正すと、使者に対し跪拝(きはい)して受けたが、その内容にはわずかに眉をひそめた。
 それは鄧禹のここまでの業績を賛美しつつもいまだ長安に攻め込んでいないことを喚起(かんき)し、侵攻をうながすものだったのだ。ただし「(よろ)しく時を(もっ)進討(しんとう)し」と、侵攻時期の判断は鄧禹にゆだねていることから単純な命令とも言えない。


「……」
 鄧禹としては様々に思案のしどころであった。
 今回のように劉秀は、遠く離れた戦場にいる将軍へ使者を送り、策戦を授けることがしばしばあった。正史である「後漢書(ごかんじょ)」には、劉秀が伝授した策戦に従わなかったため敗北した将軍の例がいくつか記されている。これは劉秀の神知を後世にまで知らしめる好例となってはいるのだが、実はこの行為自体はあまりほめられた話ではない。 
 遠く離れた上位者が現場の状況を無視し、頭ごなしに命令を押しつけてくることが、どれほど臣下や部下を混乱させ、失敗や敗北を招くかは、過去も現在も変わらないであろう。稀代の兵法書「孫子」には「戦場にいる将軍はたとえ王命であろうと拒絶しても構わない」と記されているほどであり、劉秀の神知も「成功例」だけが後世に残されている可能性を考慮する必要がある。


「洛陽で何か起こっているのだろうか」
「孫子」はこの時代より五百年ほど前に作られた兵法書だけに、鄧禹も読んでいたと思われる。また劉秀の命令は強制ではないこともあって、鄧禹も方針を変更するつもりはなかった。
 問題は劉秀がなぜこのような催促の勅旨を送ってきたかである。


 長安奪取は早いに越したことはない。
 それはもちろんなのだが、もしかしたら劉秀の中に、鄧禹に対する疑念が湧いてきたのかもしれない。
 前述もしたが、鄧禹の勢力はすでに劉秀から独立できるほどのものとなっている。鄧禹が長安を目の前にしながら足踏みしている(ように見える)のが劉秀にいぶかしさを覚えさせているのかもしれない。
 あるいは劉秀の近くに鄧禹を誹謗(ひぼう)する者がいて、彼の胸中に疑念の火を煽っているのだろうか。


「いや、逆だな」
 むしろ鄧禹に対する中傷を、劉秀が抑え、なだめてくれているのだろう。しかしそれが難しくなってきたため、こうして鄧禹に催促のような勅旨を送らざるを得なくなったのかもしれない。
「……」
 この解釈は劉秀を美化しすぎているかもしれない。だが鄧禹の知る劉秀とはそういう人である。
 また、相手に自分を信じてほしいと願っているにも関わらず、自分が相手を信じないでは話にならないだろう。
 なによりこれらすべての問題は、自分が長安を奪取すればすべて解決するのだ。
「いま少しお待ちください、陛下。必ずや長安を奪取し、陛下に献上いたします」
 鄧禹は勅旨を捧げ持つと、深く頭を垂れ、あらためて主君に対し忠誠と勅命の完遂を誓った。



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