其の八

文字数 2,424文字

   *

 カツ丼を綺麗に平らげると、最後に豆腐とワカメの味噌汁を飲み干す。
 左吉は「ご馳走様です」と手を合わせて静かに箸を置く。長臣も麦酒(ビール)を二本、ちょうど飲み終えたところだった。腹も満たされ至福な面持ちでいる左吉に対し、赤ら顔の長臣はほろ酔い気分でもある。
 仕事中であるはずだが、この僅かな時間でさえも楽しもうとしている。
 緊張と緩和、その使い分けを十分に心得ている感じがした。そのせいか、焦った態度を微塵も見せず、実にゆったりとしたもの……。左吉は、その波長に居心地の良さすら覚えてしまうのだった。
 やがて、机に置いてある携帯機器が小さく震え、光る画面を長臣が確認する。
「……そろそろ店を出るぞ。迎えの車がくる」
「魔女さんがここに来るんじゃ?」
 長臣が机を指差して笑う。「この店にか? わざわざ? ありえんだろ」
 そう、顔を顰めながら席を立つと、何故か長臣は出入り口とは反対側へと向かう。左吉はアタッシュケースを手に持ち、慌てて帽子を被る。右往左往しながらも「出口は向こうでは?」と指してみたが、長臣はツカツカと歩いて更に奥へと進んでゆく。
「俺らは、お尋ね者みたいなものだからな。勝手口から出てくのが礼儀ってもんだろ」
 何処までが冗談なのか、本気なのか分からない物言いをする……。
 厨房にいる店主は大根の桂剥きを黙々と続けて視線すら寄越さない。
 普段からこんな具合なのか、左吉は非礼を詫びるように頭下げて後に続く。そして、長臣は便所横にある物置らしき扉を開けると、山積みになっている木箱をどかし、裏に隠れていた扉むこうの通路へと案内をしたのだった。
「……これは驚いたな。地下道ですか」
「所謂、避難口ってやつだな」
「凄いな。造りは古いけどしっかりしている……」
 天井から小さな電球が点々とぶら下がり、試しに手を触ってみると、壁一面が薄い漆喰で覆われており、新たに電気工事を施された跡もある。まだ手入れをしている最中なのか建築資材が隅に置かれていた。あの無愛想な店主が時間をみて補強しているのかもしれない。
「戦時中は連絡口しても使われてたらしいのだけどよ……、戦争時代の遺物でもあって、追手を巻くにはもってこいの構造なんだ。だから、ちょくちょく利用させてもらっている」
 その話を耳にして、左吉が片眉をやや上げる。「追手? 追手ってなんのことですか?」
「なんだい、気づかなかったのか? 何処の誰だか知らんが、お前さんの背後をずっとつけていたぞ?」
 左吉は目を丸くし、鳩が豆鉄砲でも食らったような表情をする。
「そ、それは、全く気づきませんでした……。参ったな。気を張って用心してたんですが……」
「まあ、無理もねえよ。相手は歳食った婆さんだったしな。それにありゃ、ストーキングのプロの仕業だろう。動きが素人じゃねえ。気配まで殆ど消してやがったからな」
 ……等と、不穏なことをさらりと言いいだす。
 しかし、追手の心当たりは十二分にあった。どこから情報が漏れていたのかは考えたくないが、村にも内通者がいるという証拠だろう。ただ、裏切り者を炙り出すために、ヨウジがあえて泳がせている可能性もある……。
 左吉が断定的に物事を運ぶには些か材料が足りなく、そういう時は余計な動きをするものではない。それに、ヨウジが最もやりそうな策略だ。いまこうしていても「でしゃばった真似をするでねえっ」と、飛んできそうだった。
 やはり「餅は餅屋に」だろう。血の気を熱くするより、老獪な男たちに任せるに限る。それに、多少の障害はカラスが排除してくれるという話だ。自分はただ、魔女と直接会って取り引きを成立させるだけでいい……。そう指示されて、言われるがまま東京へと赴いてきたのだから。
 前を先導する長臣は、どこまで事情を知っているのだろうか。傍観するだけなら兎も角、カラスを敵に回すことだけは避けたいところ。魔女のいるところまでは連れてってくれるはずだが、その後のことは聞いてはいない。その先は運否天賦に任せろとでもいうのか。
 ……やがて、薄暗い通路を数十メートルほど歩くと、倉庫らしき地下室へと出る。棚に丁寧に置かれた鍋や調理器具からみて、先程の店主の私物だろう。少々カビ臭くもあるが、室内は比較的綺麗に整頓されていた。
「暗いぞ。足下に気をつけろよ」と、長臣はドアを少し開けて外の様子を伺う。続いて左吉が姿勢を低くして直ぐ後ろに控えると、目で合図を無言で送り、速やかに廊下に出たのだった。
 どうやら、ここは道一本を挟んだ隣の建造物に繋がっている感じがする。雑居ビルの半地下だろうか、他にも店舗らしき表札がドアに貼られていた。
 次いで、微かに聞こえる喧騒の音。街から流れ込む冷気と排気ガスの匂い、すぐ傍の地下階段の上からは緩い光が差していた。そうして、慎重に途中まで階段を上ると、長臣は左吉に指示を出す。
「……上を出たところに車を待たせてある。シルバーの車だ。俺がドアを開けたら、後部座席にそのまま乗れ。俺は助手席に乗る。いいな、わかったな?」
「後部座席ですね。了解しました」
 よし、いくぞっ──。
 という囁くような掛け声に合わせ長臣は階段を駆け上がり、車のドアがガチャリと開く音が聴こえる。左吉は帽子を深く被り直しその後に続く。両手でアタッシュケースを抱え、身を屈めながら後部座席に飛び乗ったのだった。同時に閉められるドア。そして長臣が助手席に座った瞬間に勢いよく走り出す車──。
 僅かに見えた外の風景から、地下から高架下向こうの道路に出てたようだった。
 車窓から望む建築途中の建造物、どんよりとした雲行き。
 高い建物に囲まれた狭い空。東京にきて間も無かったが、左吉は街の景色を目に留めようとするのだった。遊びに来た訳ではないが、観光してみたい気持ちも若干ある。そんな心の機微を読まれていたのか、運転席から凛とした女性の声が遅れて響く。

 ──「左吉さんでしたっけ? 東京は初めて?」
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