其の三

文字数 3,129文字

   *
 青函連絡船に乗船し、船は桟橋から函館に向けて緩やかに出航した。
 早朝、夜明けと共に仙台の古民家を出発して約九時間……。車に揺られ、国道四号線をひたすら北上する。のんびりとした長閑な田舎道が続いていたが今朝方、海上で『米帝の襲撃』を受けた旨を報告をされ、十分に用心しろとのこと──。
 途中、岩手の花巻にでも寄ろうかと思ったが、東京湾沖で起きた一件がある。当然、温泉などに浸かっている場合ではなくなり、天候も雲行きが怪しいということから、景勝と志戸は北海道上陸を早々に望んだのだった。
 青年二人は山育ちというのもあり、天気に関してはやたらと鼻が効く。
 両者の意見が一致していることから、まず予報が外れることはないだろう。
 雨や雪が強まれば、それだけ旭川への到着が遅れことを意味する。虎鉄は電波の良さそうな船のデッキ後方に向かい、カラスたちに「出来る限り、現地の到着を急ぐ」と、携帯端末で定期連絡を送るのだった。
 このままでは、此方の動きを悟られ兼ねない状況だ。警戒を強め、移動するのであれば早め早めほうがいい。本来あれば、函館で休憩して一泊といきたいところだったが、あまり悠長に構えている暇はなくなってしまった。
 冷たい潮風に晒され、虎鉄は時化た海面を嫌そうな面持ちで覗く。
 どす黒く、渦巻く波に引き摺り込まれそうだ。もし海にでも落ちれば、まず助かるまい。反芻されるのは陰惨な記憶ばかり。連絡船のフェリーに乗るのは久々だが、相変わらず生きた心地がしなかった。軍隊時代の苦い体験のせいもあるのか、いつ魚雷に狙われるのかと勘繰ってしまう。終戦から十五年以上経つというのに、虎鉄の心に黒い影を落としていた。
 やがて、船酔いとはまた違った不快感が薄く纏わりつく。
 動悸が早まり、眩暈がする。まったく、いくつになっても嫌なものだ。慣れる気配すらありゃしない。これが、俗にいう心的外傷(トラウマ)というものなのか。虎鉄は小さく舌打ちをしてから、不調を払拭するように煙草を火をつける。
 すると「調子、悪そうですね」と、景勝が周囲を気にしながら声を掛けてきた。
「船酔いですか?」
「いいや、そうでもねえ。船での移動はちょっとな。参ったもんだよ」
「以外だな。虎鉄さんにも、苦手な乗り物ってあったんスね」
「おいおい。そりゃ、どういう意味だよ」
 と、虎鉄は煙草を蒸しながら、床の鉄板を足でカンカンと踵で踏む。
 その表情にあまり余裕はなく、いまにも吐きそうな面持ち。顔面を蒼白にしながらも、うっすらと遠くで光る街の明かりを伺うのだった。
 青森港をでて一時間足らず。函館港に着くには、まだ四時間ほど掛かる。
 閑散とした屋上の甲板デッキでは老夫婦と船員が数名いる程度。荒れた波風と断続的に響き渡るエンジン音で話し声が外に漏れる心配はない。そうして、すこしでも虎鉄の気を紛らわそうと話題を振るのだった。
「……予定どおり函館港につきましたら、そのまま旭川まで直行するんで」
「悪いな、急がせちまって」
「いえ、俺らも早く現場に着いたほうが安心できますんで」
 屈託のない表情でそう答えて、柵に寄りかかって時化の波間に目を落とす。
 次いで、虎鉄に同調するかのように、滅入ったように眉を顰めるめるのだった。なにも海が苦手のは虎鉄だけではなさそうだ。人間は本能的にも海を怖がる傾向がある。寒さと冷たさ、おまけに真冬の海とくれば生きた心地はしないだろう。
 そう言えば……という風に虎鉄がふと尋ねた。「ところで、シドのやつはどうした?」
「あいつは、仮眠を取りたいとかで車の中で寝てますよ」
「車の中でか? ほんと好きだねえ……」
「なんか、相当気に入ってるみたいですわ」
 ゆらりと口元から紫煙を吐き出し「そいつは上々だ」と、虎鉄は小さく笑う。若干だが、顔色が良くなってきた。やはり話し続けていたほうが幾分は楽なのかもしれない。なるべく遠方に視線を向け、今にも雪が降りだしそうな曇天の空を見つめるのだった。
 そんな黄昏ている様子を見計らい、景勝は十円玉でコイントスをする。「序でと言っちゃなんですが……。さっきですね、東京の情報屋と連絡がとれましたよ」と。
 空中でくるくると回る十円玉。落ちてくるコインを手の甲で抑え、裏表を確認する。その所作には意味はなさそうだ。ただし……。
「そうか、公衆電話か。十円でいくらでも話せたな」
「ええ、フェリーが来るまでの空き時間を使ってですが。便利な世の中になったもんです。……んで、欧露会の〝怪僧〟のことなんですが、少し面白い事実が分かりましたよ」
 怪僧と耳にして、虎鉄の目つきが変わる。「ヴァーガ・ラスフーディンのことか?」
「俺たちにとっても、耳よりな情報かと」
「なかなかやるじゃないか。詳しく聞かせてくれよ」
 景勝は意味深に頷き、周囲の動きを警戒しながら直ぐ横まで歩み寄る。
 次いで、虎鉄に煙草を一本だけ所望するような仕草をした。煙草は吸わないと主義だと思ったが、おそらく少し離れたところにいる老夫婦の目線を気にしているのだろう。あまり警戒しているつもりはないが、景勝は自然な感じを装いつつ話を進めるのだった。
「まず、共産圏、向こうでの話なんですけどね。どうやら、ラスフーディンには多額の借金があるらしいんスよ」
「借金だって?」
 と、虎鉄は景勝の煙草を咥えさせ、器用にマッチで火をつける。「意外だね。情報によると『心霊療法』とやらでかなり儲けてるはずだが……」
 やや咳き込むように煙草を吸い、景勝が不可解そうに歯に噛む。
「……ところがですね、そう言う金は全額『寄付』しちまうそうなんです」
「相談もなく、勝手にか?」
「はい、否応なしに。自分は財産も何も持たないのが信条とかで」
「なんだそりゃ。新手の資金洗浄でもしてんのかね……」
「寄付は正教会の支部を筆頭に、戦災孤児の養護施設から精神病院……。中には、難病の研究施設なんていうのもあります。正規の手順を踏んでますんで、特に怪しい点も無いそうで」
 と、景勝は甚だ理解に苦しむような顔をする。だが、虎鉄は然程驚いた様子もなく煙草の紫煙を空中で泳がせ、鼻歌でも口遊むように漠然と何か考えていた。意識をしているのか、してないのか。これは偶に見せる癖のようなものでもあった。
 徐に虎鉄は言う。「じゃあ、借金は教団の運営費とかに使ってんのか?」
「概ね、そうみたいスね。表向きには清貧を装ってますが、信者のお布施だけでは賄いきれなかったのでしょう……。相当ヤバい連中から金を借りては、片っ端から踏み倒してます。おまけに、囲ってる愛人の数も多かったみたいで」
「ははは、滅茶苦茶じゃねえかよ」と、愉快そうに笑う。
「なんでも、顔の火傷も、その時の借金取りにやられたそうですが……」
 と、景勝はそこで言葉を詰まらせる。そして煙を軽く蒸しながら「ところがですね。取り立て屋の証言によると、確かに奴を殺して始末したはずだとも」と経緯を補足するのだった。
「……するとあれか。例の不死身っていう噂もあながち嘘でもないと?」
 しかし、景勝はそれを一蹴する。
「まさか、殺しても死なない奴なんてこの世にいないスよ。……でなければ、必ず裏にはトリックや仕掛けがあるってことですから。そんなもの、別に怖くも何ともありません」
 ……ただ、他に何か引っ掛かることがあるのか景勝は釈然としない様子。
 多分だが、他に危惧しているのはそんな部分ではない……とでも言いたそうな顔つきでもあった。思春期特有とも思える、ある種の「迷い」のようなものだろうか。それならば、早い内に疑問を聴いて少しでも解消しておいて方が身の為だろう。なんせ、その相手は『怪僧』とも異名をもつ神父なのだから……。
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