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 土曜日の午後、秋葉原の街は思いの他混雑していた。今ではパソコンオタクの他に、ちょっとしたグルメの街でもあり、中国人や海外の買物客で、この街は賑わっている。新宿とはまた少し違ったディープなスポットも多く、街としての歴史も長い。かつてはオタクの聖地とまで言われた秋葉原だが、アイドルやゲーム、PCだけでなく、何か特化した専門が根付き、それらが集まることで、文化と認知されるようになった街でもある。新宿に負けず劣らず風俗的な出会いも多い街だが、新宿のそれとは異なる。その証拠に、この街の夜が終わるのは早い。午後九時を過ぎれば、大抵の店がシャッターを降ろす。しかし、昼間の人口は恐ろしく多い。真昼間から街が蠢いているのがここ秋葉原である。
 ショウは久しぶりに秋葉原を訪れていた。東京に出てきた頃は、弟の手がかりを探しに闇雲に動いていた時期でもあった。調布から近い新宿と、若者が集まる秋葉原をターゲットにしたのは、単なるショウの勘でしかなかったが、調べてみるとその二地域が同じく中国人との関わりの深いことで共通していたことを後々知った。同じ血が流れる弟のリュウが今、どうなっているのかは知らないが、兄弟としての自分の勘に頼ったのである。結局は何も手がかりを見つけることができなかったのではあるが、そのおかげもあって、秋葉原の街は多少知っていた。それにショウは無類の本好きでもあった。秋葉原から少し歩けば、神田神保町の古書店街がある。神保町に立ち寄って、気に入った本を買って帰るのも楽しみだった。調布の4LDKの一部屋は完全なる書庫である。文学、自然科学、哲学、経済学、ビジネスから漫画本まで、あらゆるジャンルの本が揃っている。東京に出てきた頃の、鬱々とした気持ちを慰めてくれるものが本であり、唯一の楽しみでもあった。学校を卒業してからも、たまに気の向くままふらっと出かけることもある。けれども、最近は少し遠ざかっていた。
 秋葉原の駅前から、昭和通りとは逆の万世橋側に出て、中央通りを上野方面に少し歩き、通りを一本裏に入った雑居ビルの地下スタジオが、ユキナに指定されたイベント会場であった。途中、超人気アイドルのシアターを通過し、そこにはちょっと幼い表情を残した、年齢不詳の男たちがたむろしている。背中にDバッグを背負い、大きな紙袋をぶら下げている。少し小太りか、極端な痩せ型、眼鏡をかけていたら間違いない。ユキナのファンもこういう男たちなのだろうか。ショウは彼らを見て、逆に好感を持っていた。ショウは、何か物事に固執できることは一つの才能であるという考え方を持っている。二十四歳になってもアイドルをやっているユキナに対しても全く嫌な気はしない。だから今日の誘いにも素直に応じた。四年前に別れた時のユキナがどう成長しているのか、自分の目で見てみたかった。
 スマートフォンのナビゲーションで辿り着いたビルの地下に降りて行くと、扉の前に机とパイプ椅子を並べ、眠たそうな男が一人捥切りをしていた。小さな黒い手提げ金庫と、明らかにパソコンのプリンターで印刷したような手作りチケットが置いてある。他にはグループのメンバーのサイン入り写真や、シールを貼っただけの応援グッズなどが少量販売されている。どうやらユキナの所属するアイドルグループは「オータムリーフセブンティーン」というアイドルユニットらしい。部屋の中が恐らくライブ会場になっているのだろう。扉の向こうから微かなBGMが洩れていた。ショウが一枚チケットを買おうとして、捥切りの男に声をかけると、男はショウの顔を見て、目を大きく開いた。
「もしかして、ユキナさんの彼氏の方?」
 ショウが苦笑した。
「そうだ」
 男が背後の楽屋らしき黒いカーテンの奥に向かって声をかけた。
「ユキナさん! いらっしゃいましたよ!」
 するとカーテンの奥からユキナが顔を出した。
「おお、来たかショウ、チケットなんかいいから中に入れよ、ちなみにフリードリンクだからな遠慮するな、アタシは本番前の準備があるから悪いな、まあ、ゆっくりしてってくれよ」
「わかった。本当にチケット買わなくていいのか?」
「いいよ、いいよ、気にするな」
「そうか、悪いな」
 ショウは捥切りの男に財布から一万円札を抜いて渡し、チケットを受け取らずに扉を開けた。部屋の中は薄暗かったが、ステージにスポットライトが照らされているので、何とか客席とバーカウンターがわかった。客席は三十席くらいだろうか、恐らく座って観るものではなく、全員立ちながら一体となって観るものなのだろう。それでも百人も入れば、外に押し出されてしまいそうな狭さである。そして、ステージは僅か五十センチほど床より高くはなっているが、最前列の客が手を伸ばせば届きそうである。マイナーな地下アイドルとはこういうものか。ショウはとりあえずバーカウンターでビールを貰い、サイドの壁に寄りかかりながら、他の客の様子を観察していた。最前列にかたまった五人ほどの男たちが、揃いのTシャツとメガホン、ハッピ、ハチマキをして談笑している。ハッピの背中には、かろうじて「オータムリーフセブンティーン」の文字が見える。ハチマキには、それぞれが個人的に応援しているアイドルの顔写真や名前が印刷されている。客はほとんどが男性で、年齢層は二十代から五十代くらいまでと幅広かった。皆、初めはキョロキョロしながら入ってくるが、仲間を見つけると、急に熱い握手を交わしたりする。いつも同じメンバーがファンとして来ているようだ。
 客は少しずつ増えて、定刻間際には、思いの他満員状態だった。ショウはバーカウンターの端の壁に背をもたれて、二杯目のビールに手をつけていた。ライブ会場は始まる前から熱を帯びていた。ハッピを着た男たちが声を合わせて、独自の掛け声をかけている。やがて定刻が過ぎ、一度ブザーが鳴った。止むと同時に軽快な音楽が流れ始める。ホールが狭いためか、防音処理されているためか、スピーカーの音が直接鼓膜を揺らすようだ。
「みんなぁ! お待たせぇ!」
 五人組の女の子たちがステージに現れる。会場が「おおっ!」という声とともに波打ち、ハッピを着た男たちが、一斉にメガホンを叩き、女の子たちの名前を連呼する。
「さぁ、一曲目行くよ! みんなぁ、準備はいいかい!」
 オオッと会場がどよめいて、スピーカーが壊れんばかりの大音量が響く、ユキナはユニットの中心に立ち、メインボーカルを務めている。セーラー服を朱色に染めたような衣装は、今時の女子高生並みにスカートの丈が短い。激しく踊ると、最前列の客にスカートの中が見えてしまいそうだ。ユキナたちは時折ファンに話しかけ、トークを交えながら、慣れた様子で次々に曲を披露していった。約二時間ライブが続いたが、途中退席する者は一人もいなった。ショウも最後まで見届けた。始まる前は、適当なところで切り上げるつもりだったが、ユキナがあまりにも熱心で、思いの他、地下アイドルのイメージを覆すほどのクオリティを感じたからである。ライブが終了し、客がぞろぞろとライブ会場の外に流れ出し、興奮冷めやらぬ様子で辺りにたむろしている。ショウも他の客と同様、流れで外に出たが、このまま知らぬ顔で帰るのはユキナに申し訳ないという気持ちになった。すると、ショウの携帯電話が鳴った。
「ショウ、もう帰っちゃった?」
「いや、まだビルの外にいる」
「そうか、よかった。なら、少しだけ待っててくれよ、出待ちがいなくなったら、どこかで飯でも食おうぜ、アタシは腹減って死にそうだよ」
「ああ、わかった、で、どこで待てばいい?」
「そうだな、アキバから移動しようぜ、何だかんだ言って、ファンに見つかると後々面倒だからな、少し歩くけど神保町でどお?」
「ああ、いいよ、神保町なら古書店もあるし、俺もよく知ってる」
「OK! なら、十八時に書泉グランデに居てくれよ、探すから」
「わかった、書泉グランデだな」
 時計の針は十六時を指していた。待ち合わせまで後二時間ある。ショウは久々に古書店をまわることにした。岩波ホールの裏通りに「さくら通り」という路がある。白山通りを挟んで反対側は神保町の五差路に続く「すずらん通り」になる。古書店はメイン通りである靖国通り沿いに集中しているが、一本、二本裏通りにも、昔ながらの本の問屋や古書店が数多く残っている。それでも近年の地域再開発の煽りで、古くからの本の問屋街が消滅した。また細々とやっている問屋にしても、再開発で建った高層ビルに見下されるようで、息苦しいに違いない。しかし、この街は元々古書店で栄えた街だけあり、古き良き時代の文化や趣を残した飲食店や古書店が多く残っている。客が利益と合理性を追求したような新しい店を嫌う傾向にあるからだ。店も街も客に育てられ、守られてきた。
 ショウのお気に入りの古書店が、さくら通り沿いにある。生物や自然科学、釣りや山などのジャンルに特化した本を数多く揃えている。以前からよくこの店には立ち寄った。開高健の「オーパ!」の初版本を手に入れたのもこの店である。盛岡の祖父が川釣りを嗜む人だったので、ショウも子供の頃には何度も川釣りに連れて行かれた記憶がある。祖父はフライフィッシングが好きで、釣具の有名なコレクターでもあった。ショウにとっては釣具の価値などどうでもよかったが、毎年数回、家族でパリから帰省し、八幡平の別荘に遊びに行くのがとても楽しみだった。まだ幼くて記憶は断片でしかなかったが、ショウにとっては貴重な両親との記憶だった。別荘には幾つか父の油彩画が飾られていた。そんな記憶からか、もしかすると弟のリュウもこの店を訪れているのではないかと思った。自分がバカなことをしているとはわかっていても、同年代の自分に容姿が似た男を見つけると、ついつい声をかけてしまう。大抵は不審がられ、戸惑ったような顔をされる。本を見ているうちにユキナとの約束の時間を少し過ぎてしまった。ショウは一冊の本を買い、待ち合わせの場所へ向かった。買った本はスズメバチに関する本であった。春先にマンションのベランダに来ていたスズメバチのことが気になっていた。

 すずらん通りを真っ直ぐ歩き、書泉グランデに着くと、出入り口に立つユキナの姿を見つけた。ユキナも同時に気づいた。
「おう、待ったか?」
「待ったかじゃねぇよ、ショウ、どこ行ってたんだよ、人がせっかく猛ダッシュで来てやったのに、携帯も出ねえし」
 携帯電話の着信を見ると、十八時きっかりにユキナからの着信が残っていた。
「悪いな、古書店で本を読んでて気付かなかった。で、どこ行く?」
 ユキナが口を尖らせた。
「そうだな・・・・・・まずは腹ごしらえだな、ショウの知ってる店ならどこでもいいぞ」
「わかった、鰻でいいか?」
「おおっ、鰻なんてしばらく食ってねぇぞ、連れてけ、連れてけ」
 二人は、またすずらん通りを岩波の方に戻り、さくら通り沿いにある、うなぎ「なかや」に入った。
「ショウ、お前は昔から贅沢な店ばっか知ってんなぁ」
「そんなことないぞ、金持ちは神保町辺りで飯食わないだろ、安くて美味い店が好きだから、ここに来るが、ここら辺の店はどこもお前が思ってるほど高くない。まあ、いいから好きなの食え」
 ユキナがとりあえずビールと特上の鰻重を注文し、ショウが冷酒と同じく鰻重を頼んだ。
「で、どおだった?」
「どうって?」
「バーカ、アタシのことだよ、アイドル、ユッキーナ様のことだよ!」
「なんだ、お前、ファンにユッキーナって呼ばれてるのか?」
 ユキナが顔を紅くした。
「ま、まあな、これでも一応、親衛隊まであるんだぞ」
 ショウが苦笑する。
「お、なんだ、バカにしてンな、ショウ」
「いいや、バカになんかしてない、結構良かったぞ、今日のライブ」
 表情がパッと明るくなり、
「そうか! だろ? メジャーデビューまでもう少しなんだ」
「ところでお前、ステージで十九歳だとか言ってたな?」
「まあ、細かいことは気にすんな、十代の少女たちのロックユニットというコンセプトなんだから、わざわざロリコン好きの男どもの夢壊す必要ないだろ」
「まあな、でもファンにバレたら大変じゃないのか?」
「大丈夫だよ、メジャーデビューしてる訳じゃねえし、ファンも薄々わかった上で応援してくれてんだからさ、アイドルなんて次から次へと出てくんだからファンも長くは続かない。アタシたちもそんなに長く同じユニットでやってられると思ってないし」
 ショウは頷いた。ユキナの横顔に寂しさの影が一瞬浮いた。酒を飲みながら、お新香を摘んでいる間に、鰻重が運ばれてきた。
「うわっ! 美味そう、いただき!」
 ユキナが割り箸を割った。ショウはその様子を満足そうに見ていた。
「ここの鰻は白焼きみたいだろ、たれのたっぷりかかった鰻も美味いが、これも中々だろ?」
 ユキナが鰻を頬張った。
「ああ、あっさりしてて美味いな、アタシはワンコインのチェーン店でしか食ったことないから、正直味の違いはよくわからんけど」
 余程腹が減っていたのか、口を大きく膨らませるユキナを見て、
「お前には、おごりがいがあるな」
 帰りは神保町駅から電車に乗った。都営新宿線が京王線に乗り入れていることもあり、調布まで乗り換えずに済む。ユキナにとっては、食事の後にすぐショウと別れなくて済むことが嬉しかった。帰りの電車まで一緒に揺られて、同じ駅で降りるなんて、まるで一緒に暮らしている恋人同士のようにも感じられる。
「もっと、飲むか?」
 珍しくユキナが首を横に振った。
「いや、今日は疲れたから帰る」
 拍子抜けしたが、恐らくショウが観に来るということで、特別気を張っていたのだろう。言葉が粗雑で、行動も大雑把な女だが、昔から繊細な部分があることをショウは知っている。今は仕方なく地下アイドルなどをしているが、それは仮の姿であって、本当はテレビや演劇の世界で、自分の魂を解放したいと思っているに違いない。ユキナに再会できて、本当に良かった。よく考えれば、トオルとケンジの他、ユキナくらいしか心を割って話せる相手はいない。電車の中で、疲れてショウの肩に頭を傾けながら眠っている。調布駅の改札を出た。
「今日は来てくれてありがとな!」
 ショウはウチに来るか、と言いかけてやめた。
「気をつけて帰れよ」
「ああ、また連絡する、今度は飲みに連れてけよ!」
 ユキナが手を振った。ユキナの姿が駅前の人混みの中に紛れて行く。それを見届けて、ショウも歩き始めた。
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