十二

文字数 11,756文字

 七月、歌舞伎町「ライムスター」でジュンコと知り合ってから、弟との距離が一気に縮まったような気がした。貰った名刺を手に取って見つめる。弟がタザキ姓を名乗っている。たったそれだけのことなのに熱いものが胸に込み上げた。弟がサエキに引き取られた経緯を、もう一度祖父に確認しなければならないと感じた。しかし、祖父との関係が良好だとは言い難い。祖父の期待を全て裏切って、ショウは東京に出てきている。六年もの間、一度も盛岡に帰っていないどころか、電話一本入れていなかった。盛岡の実家には、祖父とお手伝いさん、それから運転手が暮らしている。父のタザキノボルは一人っ子だったので、他に従姉妹などもいない。母方の親戚とは縁が切れている。それもこれも、ショウと弟のリュウを相続財産目当てで引き裂いた、親類の大人たちがいけないのだ。だから、リュウは母方の親類に引き取られた後もタザキを名乗っていたということなのかもしれない。思わず舌打ちした。しかし、駒を一歩前に進めるためにも、盛岡を訪れる覚悟を決めた。
 翌日、ショウが盛岡の実家に連絡を入れると、ショウの育ての親でもある、お手伝いのシズエさんが電話口に出た。
「ショウ坊ちゃんなの? 本当にそうなの?」
 次の瞬間には、受話器を置いて、
「旦那様ぁ、旦那様ぁ!」
 声が遠ざかって行くのがわかる。ショウは苦笑しながらも、緊張を隠せなかった。やがて、落ち着き払った声がした。
「私だ」
「お祖父ちゃん」
 祖父は何も言わず、ただ黙っていた。
「元気、だった?」
 受話器から気配が遠ざかる。ショウは心のどこかで、「お前こそ元気でやってるのか?」と尋ねられることを期待していたが、再び苦笑せざるを得なかった。
「何の用だ?」
「来週、そっちに行きたいんだけど、構わないかな?」
 しばらく沈黙が拡がった。
「構わんが、何の目的だ?」
 ショウは心の底から苦笑した。
「目的・・・・・・ね、ただ実家に帰るという理由ではダメかな?」
「六年も連絡をよこさず、急に帰ってくるのだから、他に何か目的があるのだろうが」
「まあね、お祖父ちゃん、父さんのこと、もっと詳しく教えて欲しいんだ」
 受話器の先から人の気配が遠ざかり、すぐにシズエさんが出た。
「いいんですよ、帰ってらっしゃい、旦那様も内心はとても喜んでおられます、ぜひ、戻ってきて、お顔を見せてあげて下さいな、ショウ坊ちゃん」
「シズエさん、有難う、来週帰ります、迎えは要りません、少し盛岡の街に寄ってから帰ります」
 耳元から携帯電話を遠ざけて、静かに通話を切った。

 翌週、東京駅から新幹線で盛岡に向かった。祖父の他に高校時代の親友であるノブユキにも今回の帰省を知らせていた。そして一つ頼みごとをしていた。それは、高校時代の同級生で唯一県警の婦人警察官となったクミコと連絡を取りたいというものだった。ノブユキは二つ返事で引き受けてくれた。そして、ついでに県庁に入ったサトルと、家業である父の喫茶店を継いでいるミユキとも一緒に会うことになっていた。場所はミユキの喫茶店で、午後九時。皆、案外遅くまで働いていることに驚いた。
 久々に見る盛岡の街は初夏の陽気もあって、のんびりとした田舎の風景だった。ショウは高校を卒業するまでの十数年をこの街で過ごしている。この街のことなら何でもわかるつもりでいたが、実際に六年ぶりに訪れてみると、至るところに新しい建物が建ち商店が入れ替わり、変化し続けているようだった。しかし盛岡駅の袂を流れる北上川と、そこに架かる開運橋から見える岩手山は健在だ。盛岡の魂でもある。
 昼過ぎ、盛岡駅に着いて駅前で久々に盛岡冷麺を食べ、食後のコーヒーを飲みながらノブユキから連絡が来るのを待っていた。十五時に待ち合わせていた。ノブユキはこの街の商工会では、名の知れた会社の跡継ぎである。今は確か専務をしている。
「どうせ、暇なんだろ? 専務」
「まあ、そう言うなよ、ウチのような貧乏企業は、お前んとこのようには行かないんだよ、迎えに行くのは十五時過ぎだ、遅れるかもしれないから、どこかでのんびり待っていてくれよ」
 そうは言っても、時間通り十五時に迎えに来るところが、さすがノブユキだ。根が真面目である。駅前の喫茶店の前に白いベンツが停まり、クラクションが鳴ったのを聞いて、ショウは勘定を済ませて外に出た。ノブユキがちょうど運転席から出て右手を挙げて合図した。
「よう、久しぶり!」
 声は聞こえなくても、ノブユキの口の動きでわかる。ゆっくりと近づいて握手を交わす。
「おう、元気だった?」
 聞き慣れた盛岡のイントネーションに思わず頬が緩んだ。
「ショウ、あまり変わってないな」
「そりゃあな、六年くらいじゃ、そうは変わらんだろ、三十年、四十年経ってから再会したら、それこそ誰が誰だかわからんかもしれないがな」
「まあ、いいや、とりあえず乗ってくれよ」
 ショウは後部座席に荷物を突っ込み、助手席に乗り込んだ。車のダッシュボードを指でなぞった。
「お前、儲かってんの?」
 ノブユキが渋い顔をした。
「結構キツイよ、こんな人口少ない街での商売だからね、東京とはわけが違う」
「悪いな、急に」
「別に、けど、どうしたんだ、何かあったのか?」
「いや、そうじゃない、明日、久々に家に顔を出す」
「そうか、ショウがついに家に帰るか」
 ノブユキが笑った。ショウはノブユキにだけは、盛岡を出る時に、祖父の期待を裏切ったことや、両親の事件のこと、東京に弟のリュウを捜しに行くことを伝えていた。
「ところで、弟は見つかったのか?」
「いや、まだだ、でも、最近、弟らしい男を見たという情報を得ている」
 ノブユキは黙っていた。
「久々の盛岡だろう? どこ行く? 皆が集まる時間までかなりあるから、どこか行きたい場所があれば案内するけど」
「おう、悪いな、じゃあ、我が母校にでも行くか?」
「あいよ」
 ノブユキが車を走らせた。ショウの母校までは、ほんの十分の距離である。雑談を交わしているうちに、あっと言う間に正門の前まで来てしまった。二人は敷地には入らず、車の中からしばらく様子を伺っていた。
「通学路に怪しいベンツが停まってるなんて、通報されるんじゃないか? 最近はそういうのうるさいから」
 ショウが笑った。
「犯人の張り込みってこんな感じか?」
「そんなことより、ショウ、お前、無職なんだろう?」
「まあな」
「まあな、じゃねえよ、しかし、ショウ、まさかお前のような成績優秀な奴が、大学に進学しないとはな、卒業した後の飲み会で、しばらく話題だったぞ」
「つまらないことで盛り上がるんだな、他に何か話題無いのか?」
「ある意味、ショウ、お前は注目の的だったからな、何をするにも」
「そう言うなよ、そもそも何のために大学行くのか、お前、考えたことあんのか?」
「何のためにって、まあ、とりあえずだな、学識を拡げるためにだな・・・・・・」
 ショウが苦笑した。
「相変わらずバカだなお前。大学行って勉強したい奴はすればいいさ。だがな、人にとって道は一つじゃないんだ。人生は優劣じゃない。なのに学歴があたかも人間の価値のような扱われ方をしているのが気に入らなかっただけさ。他意はない」
 ノブユキが不服そうに口を尖らせた。
「そりゃ、そうだけどさ、俺は、お前のジイさんの気持ちもわかるよ」
「まあな、ジイさんには悪いと思ってる」
「確かにさ、お前の境遇を聞いたら、俺だって大学なんてどうでもいいと思ったかも知れないけど、俺はこれでも平凡な家庭育ちなんでね」
「よく言うよ、平凡な家庭に育った奴が、平日の昼間からベンツ乗り回してないだろ」
 ノブユキが頭を掻いた。
「ところで、今日、ミユキの店に来る連中は皆どうなんだ?」
「ああ、皆、堅実だよ、二人とも公務員だ。こんな地方都市じゃあ、公務員こそ出世街道の勝ち組さ、特にサトルは東北大に行って県庁に就職だから、この街じゃあ、エリート中のエリートだよ。クミちゃんだって岩大行って県警の婦人警察官だからね、下手なことできないよ、捕まっちゃう」
 ノブユキが舌を出した。
「あと他に行きたい場所あるか? 無ければ、途中で飯食ってから行こうぜ」
「どこか美味い店でもあるのか?」
「いつもの店だよ」
 ショウが苦笑する。
「白龍(パイロン)か? お前、いつも食ってるんだろ?」
「悪いか?」
「いや、悪くない。俺も食いたくなってきた」
 二人が同時に笑う。
「ところでショウ、お前、何でクミコに用があるんだ?」
 ノブユキが一瞬目を逸らした。
「弟の件とな、警察という組織について、そこで働いている奴に直接聞いてみたいことがある。これで、納得できるか?」
「珍しいな、お前が警察なんかに興味持つなんてな、どういう風の吹き回しだか」
「まあ、そう言うな、俺だって興味を持つものがあって当然だろ。東京で弟を捜していて、やはり素人では限界を感じてるんだ。六年間捜して、わかったことなんて何一つ無い」
「確か、弟を知ってる人に会ったとか言ってたよな」
「そうだ、しかし、それだって偶然の交通事故みたいなもんで、そんな確率はもう二度と起こらないレベルだろうな、しかも、その人も弟の居場所までは知らない」
「で、クミコの力を借りようとしているのか?」
 ショウが首を横に振った。
「違う、クミコの力を借りようとは思っていない」
「なら、どうして?」
 ショウが窓の外を見た。信号が赤に変わる。
「まさかお前、冗談だろ?」
 ノブユキが急ブレーキを踏みかけた。
「マジで」
「このことはまだ誰にも言うな」
 ノブユキが頷いた。
「だけど、ショウ、今から警察に入ったって、それこそ東大でも出て、国家公務員Ⅰ種にでも受かってなけりゃ、キャリアにはなれないぞ」
「わかってる、警察で出世するつもりは全く無い。現場にいた方が、色々と情報が入りやすいだろう、それに、直接、自分の手で捜査できる。俺が欲しいのは金でも地位でもない。逮捕権だけだ」
「そうか、お前が警察官とはね、参ったよ、仲間が二人も警察官になられたんじゃあ、俺は真面目に生きて行くしかないね」
「そう言うことだ」
 ショウが微笑んだ。

 夜八時、ミユキの店は午後七時に閉店し、ミユキが一人で後片付けをしていた。ショウとノブユキがドアを開けると、ミユキがショウに気付いた。
「ショウ君? 久しぶりね、元気だった?」
 ミユキは慌てて水道の蛇口を止め、少しうわずった声をあげた。
「ああ、何とかね、皆はまだ?」
 ミユキがエプロンで手を拭きながら、
「ごめんね、まだなの、皆、結構忙しいみたいで、私も皆に会うの二年ぶりくらいなのよ、さあ、中に入って、今、紅茶でも入れるから、それともビールでも召し上がりますか?」
「いや、紅茶でいいよ」
 ミユキはぼうっと突っ立っているノブユキを見つけた。
「ほら、アンタもボーっとしてないで、手伝いなさいよ、ショウ君を二階に案内してちょうだい、それとアンタね、車でしょ、今日は飲ませませんからね、もし飲んだら、クミコに逮捕してもらうんだから」
「何か昔から、皆、ショウには優しいんだよな、俺なんて、いつも邪険にされてばっかでさ」
 ノブユキがブツブツと呟いているのを見て、ショウは懐かしそうに目を細めた。
 サトルとクミコが顔を見せたのは、夜の九時過ぎだった。
「やあ、遅くなってごめん!」
「お待たせ!」
 懐かしいクラスメイトの声に、珍しくショウの気持ちも高ぶった。
「ショウ君、変わらないわね、何年ぶりかしら?」
「卒業以来だから、六年になる」
「まだ六年しか経ってないのに、随分と時間が空いてしまったような気がするよ」
 その言葉に、サトルが努力して大学に入り、県庁の役人になるまでの苦労がうかがい知れた。
「二人のことはノブユキから聞いたよ、頑張っているようだね、今日は少し時間、取れるんだろう?」
 サトルが表情を曇らせた。
「遠くから来てもらったのに、スマンなショウ、明日の朝、早いんだ、今日はほんの少ししか付き合えん」
「ノブユキ以外は、皆、ビールでいいかしら? 二人とも車じゃないわよね?」
「ええ、一応、タクシーで来たけど」
「大丈夫よ、帰りは、ここにしらふのドライバーさんがちゃんといますから、帰りはベンツでお送りしますよ」
 ノブユキが苦笑した。
「じゃあ、私は明日非番だし、ゆっくりしてくわ」
「スマン、俺は適当なところで抜けさせてもらう、だけど、とりあえず乾杯しよう」
 五人は再会を喜び合った。ショウはサトルの自分を崩さない姿を見て、彼らしいな、と逆に心を撫で下ろした。いずれは県の事務方の大物になるに違いない。クラスでは常にクラス長で、初めから終わりまで、全てを計画してから物事を開始するような奴だった。物事を途中で投げ出さず、最後まで正確にやり遂げる。昔から羽目を外すことも無かった。
「ところで、ショウは今、何やってんの?」
 ショウがノブユキをチラと見た。
「俺か? 俺は、所謂、フリーターだ」
 仲間が一瞬、視線のやり場に困ったのがわかった。
「しかし、意外だな、あれだけ優秀だったお前が、まだ定職に就いていないとはな、今からでも公務員試験受けたらどうだ?」
 ショウは苦笑しながら首を横に振った。
「お前の御祖父さんって、昔、衆議院議員とかやってたろう? 地元に戻れば幾らでも口はあるんじゃないか?」
「へえ、ショウ君の御祖父様って、凄い人だったんだ」
「タザキコウゾウって有名だろ、この盛岡に絶対的な地盤を持ち、将来は総理大臣も夢じゃなかったって、俺の親父が言ってた」
「ジイさんは、ジイさんだ、俺とは関係無い、明日久々に帰るが、そんな話をするつもりもないよ」
「そうなのか? 俺はまたてっきり、お前が地元に戻ってくる話をしに来たのかと思ったんだがな、この街では、俺たちの母校の先輩が要職に就いていることが多い。戻ってくる気になれば、いつでも可能だろう?」
「悪いが、盛岡に戻る気は無い」
「そうか、それなら、それでいい。だけど、俺は昔から、お前が将来どうしたいと思っているのか、全くわからなかった」
 沈黙が広がった。
「まあ、まあ、サトル、ショウもせっかく東京から来てくれたんだしさ、そう言う生真面目な話は、また今度にしてさ」
「ノブユキ、お前はそんなんだから、ダメなんだよ、生まれつき金持ちの家に生まれると、これだから嫌だ、お前は何もしなくても、自分とこの会社の社長にでもなるんだろうけどな、俺たち一般の貧乏人は、努力して努力して、良い大学入って、試験を突破して、職に就いてんだ」
 ミユキがグラスを置いた。
「サトル君、それはちょっと言い過ぎよ、ノブユキにはノブユキなりの悩みや苦労があるんだから」
 サトルはそう言われて、黙ってしまった。
「もうそろそろ行くよ、公務員と言えども朝は早いんだ、皆、役所のことをよく知りもせず、安定に胡坐かいてるなんて言うけどな、確かにそういう奴もいるが、俺は違う、俺は誰よりも早く出勤して、誰よりも多く仕事をこなしている」
「わかってるさ、サトル、また今度、ゆっくり会おう」
 サトルは硬い笑顔を無理に作って出て行った。
「クミちゃんは? もう一杯飲める?」
「ええ、いただくわ」
 クミコがショウの目を見た。
「ところでショウ君、私に聞きたいことがあるって、何かしら?」
 ショウが頷いた。
「話せる範囲でいい、警察組織について少し教えてくれないか?」
「いいけど、どうして?」
 ショウが鼻の頭を掻いた。
「いいわ、話せるところまでしか話せないけど、表面的なところだけ。県警と警視庁とでは違うとは思うけど」
「有り難い、それで構わない」
「私もね、まだ入ったばかりで、深い部分は本当に知らないの、だけど、警察組織って、私たちが思ってる以上に閉鎖的なのは事実。私が今いるのは県警盛岡南署交通部交通企画課なんだけど、大学卒業して、警察学校入って、ようやく南署に勤務し始めたばかりで、正直、まだ表も裏もよくわからない。だけど、警察学校に入る前から、家族や親戚に至るまで、あらゆる個人情報を徹底的に調べられたわ、少し恐かったくらいに」
「へえ、警察ってそうなんだ」
 ミユキが息を漏らした。
「ショウは警察組織の何が知りたいの?」
「刑事部について、聞きたい」
「いいわ、県警について話してあげる。刑事部は大きく別けると捜査一課、二課、組織犯罪対策課、鑑識課、科学捜査、機動隊から成っているの、一課は主に殺人、強盗、強姦などの強行犯が中心、その中で更に細かく係りが分かれてる。二課は詐欺、経済、企業犯罪など、ここはどちらかと言うと高学歴のエリート中心ね、そして組織犯罪対策課が通称マル暴と言われる、指定暴力団や外国人犯罪を扱う、武闘派よね」
「外国人犯罪は、組織犯罪対策課なのか?」
「基本的にはそうなるけど、殺人が絡めば一課も出てくるし、企業犯罪が絡めば二課も出てくる、少年やサイバー犯罪が絡めば、生活安全課も出てくるし、一概には言えないけどね」
「そうか」
「でも、どうして? 外国人犯罪に興味でもあるの?」
「ん? まあな」
「でも組対って、私が言うのもなんだけど、どっちがヤクザだかわかんないような人たちがたくさんいる。ショウ、アンタみたいな物腰の柔らかい二枚目には縁の無いところよ、まあ、アンタが警察に入るわけじゃないんだし、余計なお世話だと思うけど。」
 ショウが頷いた。
「あと付け加えるなら、やっぱり警察は縦割り社会で、学閥もあるし、秘密主義、部署同士の繋がりは薄いし、キャリアとノンキャリアとの差は歴然としてる。まあ、県警なんて、中央からキャリアが一人送られてきて、副署長を数ヶ月やって、あっと言う間にいなくなる存在らしいけど、私はまだ、そこら辺の事情を良く知らないから。私らノンキャリアはノンキャリ同士で常に競争しているわ、昇進試験が全てなんだけど、それにしたって、課長や上層部の意向があって、推薦されなければ受けることができないし、昇進したら昇進したで、今以上の激務が待ってる。余程の出世欲か、使命感が無ければ正直、やってられない世界よ、ホント」
「クミコ、有難う、参考になった」
「ちなみに、海外で起きた犯罪を、日本の警察が調べることは可能なのか?」
 クミコが首を傾げた。
「極秘に調べることは可能でしょうけど、捜査としては難しいでしょうね、勿論、逮捕なんかできない。刑法は基本的に日本国内で起きた犯罪に対して適用されるものだから。ただし、例外的に、一定の重大犯罪についてのみ、日本国民が海外で被害にあった場合において、適用されることがあるそうよ。それは殺人罪であった場合などに、外国で外国人が犯した殺人罪を日本の刑法で処罰することが認められているの、とは言え、日本の警察の捜査範囲はかなり限られてくるわ、捜査権は国家の主権の一部だから、相手国の同意が無ければ難しいのよ。だから、今では相手国の司法当局に外交ルートを通じて捜査協力を依頼し、犯人逮捕や代理処罰を求めるしか方法が無いのが現状ね。だから矛盾するようだけど、刑法の適用は可能でも、実質的な捜査や逮捕ができないってのが現実」
 ショウの表情が硬くなった。
「そうか、有難う、やはり難しいのか」
「警察の中にいると、正義感の強い人ほど、歯がゆい思いをしてるんじゃないかしら。でも、その中で、自分にやれるだけのことをやるとしか言いようがないのよね」
「また教えて欲しいことがあったら、頼む」
 クミコが少し迷惑そうに頷いた。

 その日の夜はノブユキの家に泊まり、翌朝、ショウは歩いて紺屋町にある実家に向かった。祖父の家は紺屋町にある旧家で、街中の広い屋敷は誰が見てもすぐわかる。他にも県内に幾つか土地、別荘、山林などを所有していた。市内でタクシーを拾って、「タザキ」と言えば、つけでタクシーが乗れるほど有名で、市の政財界に太い繋がりを持つのが、祖父のタザキコウゾウだった。ショウが屋敷の門のインターフォンを鳴らすと、お手伝いのシズエさんが駆けてきて、扉を開けてくれた。
「よく、おいでなさいました、旦那様も首を長くしてお待ちでございます」
「シズエさん、お元気でしたか?」
 シズエさんが、エプロンの端で目尻を拭いた。
「ショウ坊ちゃまこそ、お元気そうで何よりでした。さあ、どうぞ、ご自分の御家なんですから」
 ショウは日本庭園のような中庭の小路を抜け、家の敷居を跨いだ。以前と変わらず残されている自分の部屋に荷物を置き、すぐに祖父が待つ居間へと向かった。
「御祖父様、ただ今、戻りました」
 ショウは頭を下げた。祖父は軽く頷いただけだった。居間には祖父の趣味であるフライフィッシングの道具が、ショーケースに飾られている。全て竹製のロッドと年代物のリールで、英国ハーディー社のものだった。
「いつまで、こっちに居られるんだ?」
「二、三日ってとこかな」
 祖父はショウの顔を見て満足したのか、何も言わずにゆっくりと立ち上がり、自分の書斎に消えて行った。
「旦那様、最近、釣りに行くお友達がお亡くなりになって、随分と寂しい思いをされてるんですよ。ショウ坊ちゃま、一度、釣りにでも行って差し上げたらと思います」
「釣具は相変わらず、増えてるんですか?」
「いいえ、最近は少しづつ釣具も処分しているようです。お気に入りのものなどは八幡平に持って行って、お父様の油絵なんかも、せっせと移しているようですよ」
「八幡平の別荘に?」
「ええ、あそこは、お父様のお気に入りでしたから」
「そう」
 八幡平の別荘には子供の頃に何度か行ったことがある。太いカナディアンログを、わざわざカナダから取り寄せて建てたものだ。祖父の自慢の別荘だった。
「親父の油彩画もあるんだね」
「はい、お若い頃のデッサンやら、蔵の方で保管してございました未発表のものやら、数点ございます」
「観たいね」
「それはもう、このお休みの間に、旦那様と一度行かれてはいかがかと」
「ああ、考えておくよ」
「ショウ坊ちゃま、つかぬことをお聞きしますが、坊ちゃまはお父様の絵をお持ちですか?」
 ショウが首を横に振った。
「そこに飾ってあるやつ以外見たことないよ」
「お父様の絵には、ショウ坊ちゃまが生まれた後の作品には、ある特徴がございます。風景を多く描かれた方だったのですが、その風景のどこかにショウ坊ちゃまとリュウ坊ちゃまが描かれてございます。これは、お父様がイタズラだと笑って話してくださいました。最初期のものには奥様も描かれてございます。家族思いのお父様らしい、イタズラだと、私、感動したのを覚えています」
「そうだったんですか、お袋も」
 シズエさんが深く頷いた。客間に飾ってある油彩画には、確かに二人の幼児を連れた母親の姿が小さく描かれている。雄大な岩手山の初夏の風景だった。父の絵に自分と家族が描かれていたなんて知らなかった。すると、ショウの心の中に、これまで感じたことのない感情が芽生えた。パリで奪われた父の絵画を・・・・・・この手で取り戻したい。以前なら、絵を取り戻せても家族は取り戻せないという思いしかなかった。それがショウの醒めた人生観の根底にあった。だが、絵の中の家族が愛おしくて堪らなくなった。
「シズエさん、しばらく一人にしてくれないか」

 翌日、祖父のお抱えの運転手であるトクダさんと、祖父と三人で、現、八幡平市にある別荘に向かった。ショウが子供の頃は八幡平市ではなく、松尾村と言っていた。シズエさんは屋敷に残ったが、身の回りの世話はトクダさんがやってくれる。どうせ別荘滞在中は近くのリゾートホテルで外食するし、別荘では食事は作らないからと、祖父が言ったのである。日中、天気が良かったので、久しぶりに祖父と、近くを流れる松川でフライフィッシングをした。ショウには当たりすら無かったが、祖父はさすが二匹のイワナを釣り上げた。フライフィッシングに興ずる祖父はまだまだ元気で、ショウはそれを見て、ほっとしていた。シズエさんの話を聞いて、もっと老け込んでしまったのではないかと、心配していたのである。しかし、渓流をひょいと石を跨いで釣り上がって行く姿は、健康な「ジジイ」そのものだった。
 夜、八幡平リゾートホテルで食事を済ませ、その帰りの車の中だった。
「実は今、東京で、リュウを捜してます」
 祖父が予期していたかのように頷いた。
「お前に話しておくことがある」
 漆黒の闇の中で、虫達が鳴いていた。

 ショウが小学三年生だったあの夏の日、屋敷に見慣れぬ黒塗りの高級車が乗り付け、母方の祖父と名乗る男が小学一年生だった弟のリュウの手を引いていった。ショウには、それが何か重大なことによって引き起こされた結果であるとわかった。祖父もシズエさんもトクダさんも、学校の先生も、誰も何も教えてはくれなかった。祖父は悔しそうに唇を噛んでいたが、ショウの「何故?」という質問には答えてくれなかった。
 トクダさんの運転する車の中で、祖父が話し始める。
「もう、お前のことだから、すでに調べて知っていることだろうが」
 車窓から外の景色を眺めた。辺りは漆黒の闇で、車窓には祖父であるタザキコウゾウの表情しか映っていない。車のエンジン音だけが車中に響いている。
「お前のお母さんの実家である東京のサエキが、弟のリュウを引き取りたいと言って来たのは、パリでの事件の直後だった。孫である残されたお前たち兄弟の後見について話し合うためだった。サエキ家も、自分たちの孫だとして一歩も譲らず、裁判も辞さない覚悟で乗り込んできた。話し合いは平行線を辿ったが、最終的にお前はタザキ家が、弟のリュウは東京のサエキが引き取ることになってしまった。ワシも一人息子を亡くして、どうしてもお前たちを引き取りたかった。だから、お前たち兄弟には本当に済まないとは思いながらも、リュウをサエキにやるしかなかった」
 祖父は目を合わせなかった。ショウは無言で聞いていた。
「元々、サエキの娘とは海外で知り合って、大恋愛の末に、ワシの承諾も無しに籍を入れたこともあり、ワシはサエキの家のことには無頓着だった。東京の日本橋に屋敷を持ち、地元で商売をしている家柄で、経済的には申し分ないということくらいしか頭になかった。お前の父さんも、お前と一緒で一度決めたらワシの言うことなど聞く耳を持たん強情なやつだった。海外に行ったきりで、結婚式も挙げず、東京のサエキの家とはそれっきりだった。あの日以来、親戚の縁も断絶したままだ。お前とリュウには本当に済まないと思っている」
 ショウは、車窓に映る自分の醒めた表情を見つめた。
「祖父ちゃんのせいではないよ」
 二人はしばらく車窓を見ながら、エンジンの音を聞いていた。
「祖父ちゃん、父さんたちの事件のこと、もっと詳しく知りたいんだ、知ってることがあったら、教えてくれないか?」
「トクダ、車を停めてくれ」
 松川大橋を渡れば、別荘まではほんの僅かな距離である。車は橋の中央に静かに停車した。窓を開けると、松川渓谷を流れる川の音が闇の中に響いている。微かに夏虫の音も聞こえる。
「あの事件はな、海外で起きた事件だから、本当に情報が限られていたんじゃよ。フランス警察の調べで、逃げて行く犯人の言葉が、どうやら中国語の発音であったこと、当時フランス国内で同様の強盗事件があって、目撃者の話から、身長や覆面の間から覗く瞳の色がアジア系であったこと、使用された拳銃の弾丸から、旧ソ連から中国に流れたトカレフであったことがわかった。国籍は不明だが、中国系絵画窃盗団の仕業だと当時から言われていた。残念ながら、それ以上の手がかりは無い。盗まれた絵画はどれも一枚数億円以上の値がついている作品だった」
 ショウが唇を噛んだ。
「私もすぐに警視庁の警視だった男と共に広州まで行って、六月の雨と呼ばれる奴らを捜したのだが、それ以上のことはわからなかった」
 祖父が頷いた。
「六月の雨」
 ショウが顔を上げた。
「当時パリで強盗を繰り返していた連中が広州出身のマフィアだった。六月の雨という名で呼ばれていた。奴らは美術品専門の窃盗団で、盗んだ美術品を高く売り捌く闇ルートを持っている。実行犯である中国人は未だに捕まっていない。勿論、盗まれた絵画の行方もわかっていない。売買された形跡もないし、闇から闇に転売されて、今では、どこかの富豪のサロンにでも眠ってるんじゃろう。皮肉なことに、ノボルの生前は一億円ほどの相場で落ち着いていたものが、死後、数十倍の価値に跳ね上がったというから、誰かが作為的に価値を高めようとした、と考える者もいたようじゃが、そんな詰まらんことで人の命を奪うのじゃからな」
 祖父が口をつぐんだ。
「祖父ちゃん、わかったよ、もういいよ、有難う」
「最後にな、ショウ、当時の事件について、担当してくれていた警視が、今、警察庁におる。サワムラという、当時二十代後半だった警察庁のキャリアだ。彼は、ワシの高校、大学の後輩で、お前の高校の先輩でもある。必ずやお前の助けになってくれる」
「わかりました、機会があったら、訪ねてみます」
 祖父コウゾウはゆっくりと頷き、車を出すように言った。
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