文字数 12,336文字

 ユキナの実家は調布ヶ丘というところにある。調布駅から深大寺に行く手前にある地域で、駅から二十分ほど歩く。ショウはまだ一度もユキナの家に行ったことがない。ユキナの話では、割と厳格な父とおっとりした母、そしてゲームばかりしているバカな弟と四人家族で、普通の家庭だという。
「アタシ、勉強が苦手だから俳優科のある学校に入ったけどさ、ウチの弟ったら、アタシよりももっとバカで、ゲームしかしてないし」
 とはよく聞かされていた。ユキナの弟の名はミウラヒデユキ。ユキナは「ヒデ君」と呼んでいる。ショウは調布の街でユキナといる時に、何度か会ったことがある。痩せていて、黒縁の眼鏡をかけた優しそうな男で、ユキナに似て目鼻立ちは整っているが、ユキナとは性格が正反対だと言っていた。ユキナの両親のことは詳しくわからないが、ユキナ本人の口から聞く限り、いたって平凡、普通であるらしい。
 ユキナに盛岡の家族のことを何度か聞かれたことがある。何も答えずに黙っていたこともあるが、両親が仕事の都合で海外で暮らし、自分は一人っ子で盛岡の祖父の家に預けられて育ったと嘘をついた。預けられた祖父が先祖代々の地主で、地元の名士でもあり、裕福であるために自分もその恩恵を受けていると話すと、ユキナは納得してくれた。
「海外って、どこの国かしら?」
「パリ」
「どうして、ショウを一緒に連れて行かなかったのかしらね」
「子供は日本で育てたいという方針だったらしい」
「ふうん」
 わかったとも、わからなかったともとれる曖昧な返事をした。
 ユキナは普段、平日はアイドルグループの事務所に顔を出してレッスンを受けたり、夕方から仲間の劇団に顔を出したりして暮らしている。ライブがあるのは多くても月に一度か二度、土曜日の午後と決まっている。レッスンとは言っても、実際は事務所がその費用を負担してくれる訳ではなく、全て自己負担が原則で、劇団にしても、金が出て行くことはあっても、基本的に入ってくることは無い。とにかく金がかかる毎日を乗り切るために、平日のアルバイトは欠かせなかった。ユキナは言葉こそ粗暴であるが、物事の考え方は堅実で、楽して金を稼ごうとは思っていない。仲間の女優志望の知人が、夜の水商売を始めた途端に、人生を狂わせて行ったのを目の当たりにしていたからかもしれないが、決して安易な選択をしなかった。生まれ育った環境の中で、リスクへの嗅覚があるというか、ショウが感じるのは、ユキナの両親の育て方が良かったのではないかと言うことである。安易に一人暮らしを望まず、家族と暮らすことを選んだユキナだからこそ、水商売のような仕事を選ばなかった。しかし、その結果が地下アイドルなのかと問われると、ショウも首を傾げるが、それはご愛嬌と言える範囲である。
 ユキナは平日の昼間、母の知り合いのミキエさんが調布市内でやっている喫茶店「ミキちゃん家」でアルバイトをしている。午前中から店に入り、ランチの準備をしたり、コーヒーを出したり、昼時はミキエさんと二人で大忙し、以前はユキナの母もこの店でパートとして働いていた。ユキナの家族とは長い付き合いで、第二の母と公言しているほどだった。ショウも何度かランチを食べに行ったことがある。コーヒーが美味しくて、パスタのセットランチが人気だった。豆はマンデリンを使っているとユキナが言っていたが、ユキナが作るペペロンチーノとコーヒーのセットは最高だった。コーヒーは少し酸味が効いているが、コク深く、ペペロンチーノのガーリック風味と溶け合って何とも言えぬ満足感を脳に与えてくれる。ユキナはよく、
「アタシ、バカだからパスタしか作れないよ!」
 と言うが、ショウは、ユキナが本当は料理が好きで、店で出すメニューも自分で考えていることを知っている。ショウが好物は何かと聞かれたら、神保町のエチオピアのカレーか、ユキナのペペロンチーノか、幼い頃に母が作ってくれたポテトコロッケと答える。学校を卒業して、ユキナと別れたのを機に、ミキエさんの喫茶店にも顔を出していなかったが、ずっとユキナが作るペペロンチーノを食べたいとは思っていた。久々に顔を出せば、ユキナもきっと驚くに違いない。
 水曜日の昼、ショウはミキエさんの喫茶店に顔を出した。サラリーマンのランチで忙しい時間を避け、十四時過ぎにした。水曜日は店に居るとユキナがこの前電話で話していたのを思い出したのだ。懐かしい扉を押し開けると、カランと鈴が鳴った。
「いらっしゃい、あら? ショウ君?」
 とミキエさんの声がした。
「ユキちゃん、ユキちゃん、ショウ君が来たわよ」
 厨房の方から「マジで!」と声がして、ガシャンと何かに躓く音がした。
「奥空いてるから、どうぞ、それにしても久しぶりね、元気だった?」
「はい、ご無沙汰してます。おばさんもお変わりないですか?」
「ええ、私もユキちゃんも変わりないですよ、今、ユキちゃん手が離せないから、座って待っててよ」
 ショウは頷いて店の奥のソファに腰掛けた。ミキエさんが水を片手に持ってきた。
「ショウ君、煙草吸うんだっけ? 灰皿あるけど」
「いいえ、僕は煙草は吸いません」
「あら、そう、注文はまたいつものでいい?」
 ショウは微笑して頷いた。
 しばらくして、ユキナがエプロン姿でトレーを持ち、コーヒーとサラダ、ペペロンチーノの皿を持ってきた。
「何だよ、来るなら言ってくれりゃあ、いいじゃん」
「ああ、たまたま気が向いてな」
「言っとくが、ここではサービス無しだぜ、結構、経営大変なんだかンな」
「そうなのか? 結構忙しそうだったが」
「街の喫茶店は大変なんだよ、スタバとかさ、ああいうチェーン店が幅利かせてる時代だから」
 ショウは頷いた。
「まあ、ゆっくりして行けよ」
「お前、今日何時までここにいる?」
「ん? これから皿洗ったり、まかない食ったりして、上がんの十六時くらいかな、その後十八時から下北沢で劇団の稽古あるから」
「そうか・・・・・・今日は劇団があるのか」
「おう、どうしたんだよ、何かアタシに用でもあんのか?」
「いや、大丈夫だ、何でもない、とりあえず、俺にペペロンチーノを食わせろ」
 ユキナは気になっているようだったが、後ろ髪を引かれるように、
「わかった、何かあったら連絡しろよな」
 厨房の中へと戻って行った。

 ショウは十五時過ぎまでミキエさんの店に居て、次に新宿に向かった。弟のリュウを探すためだったが、一人で弟を探すことに、最近は心が折れそうになることがある。ユキナには正直に事情を話して、一緒にとまでは言わないが、その日あったことを聞いてもらいたいと思うことがある。ただ、冷静に考えれば、このことにユキナを巻き込みたくはなかった。弟を探すこと自体に危険があるとは思わなかったが、仮にも両親が殺害されているという事実を知れば、何かしらの強い衝撃をユキナに与えてしまうことになる。そして、その事件が元で弟と離れ離れになったと知れば、優しいユキナのこと、自分も一緒に探すと言い出すに違いない。全く手がかりが無い以上、場所を絞っての聞き込みが中心となるが、これまでの経験上、新宿界隈での聞き込みで怪訝な顔をされなかったことは無い。歌舞伎町の雑居ビルには、大小数多くのヤクザが関係している。全く危険が無いとは言い切れない。
 ショウにとっても新宿歌舞伎町に飛び込むのは勇気がいった。街の内部のことは、街に関わってみなければわからないと思い、思い切って歌舞伎町の中にあるアダルトDVDの店員の募集に応募した。夕方から朝までの仕事だった。まともな昼の飲食店のアルバイト程度では、何の情報も得ることができないと考えた。新宿の裏社会の情報を仕入れるならば、水商売かアダルト、風俗しかないだろう。不動産関係という手も考えたが、ヤクザな世界にどっぷりと浸かるつもりは無かった。ショウが弟のリュウを探すために、新宿の裏社会を覗くことを決めたのには理由がある。まず、弟のリュウも、ショウと同様に事件について調べているだろう。そうすれば、あの事件に中国系マフィアが絡んでいることがわかる。事件の手がかりはそれだけだ。中国系マフィアを知る者から、当時パリで起こった日本人画家殺害事件を知る者を探し出すことが、唯一の手がかりとなる。そして、この日本という国の中で、裏社会と繋がった中国人が数多く紛れているのが新宿歌舞伎町である。弟のリュウが、もし、ショウと同じ考えに至ったならば、きっと歌舞伎町のどこかで、弟のリュウに繋がる情報が得られるはずだ。そして、いずれは、弟のリュウと共にこの事件の真相を突き止めたいという思いがある。だからショウは上京することを選んだし、新宿という街に潜り込むことを決めたのだ。歌舞伎町の中国人から、弟の情報まで果たして繋がるのか、それは細い細い糸ではあるが、今のショウにはそれしかなかった。
 歌舞伎町にあるW書店で実際に働き始めたのは、ショウが専門学校を卒業した翌年で、年齢は二十一歳になっていた。ユキナとも別れて一年が経っていた頃である。仕事はとても簡単だった。夜九時に出勤して、翌朝六時までレジカウンターの奥の小部屋で、万引き防犯用のモニターを見ながら、パソコンを触ったり、茶を飲んだりしていればよかった。たまに客が来て、アダルトDVDをレジまで持って来た時にカウンターまで出て行ってレジを打つ。他には常連客の話し相手をしたり、これもたまに来店する地回りのヤクザと世間話をする。地回りのヤクザは「ケツ持ち」と呼ばれ、みかじめが条例で禁止された中にあっても、形を変え、こうして風習として残っている。大抵は月に数万円のみかじめ料さえ払っていれば、何のトラブルも起こらないし、逆に客とのトラブルに割って入ってくれることもある。強面の地回りのヤクザも、アルバイト店員には意外と優しい。アダルトDVDについて熱く語ることもあったし、立ち話の中で、色々な歌舞伎町の危ない話を聞くこともできた。それは勿論、あたり障りの無い範囲でだったが、ショウにとっては新鮮だった。W書店のオーナーであるT社長も、やはり一般人とは言い難く、複数の暴力団関係者と繋がりを持つ人物だった。しかし、普段は面倒見のよい兄貴のような人物で、ショウのことを気に入って、可愛がってくれた。ショウは二年間、二十三歳の二月の誕生日までW書店にいた。初めの一年間は、誰にも自分の目的を話さなかった。けれどもT社長にだけは、一年が過ぎた頃にそれとなく打ち明けた。T社長は少し驚いたようだったが、様々な方面に情報を聞くなどして協力してくれた。この時は、有力な情報は得られなかったが、ショウにとっては有り難かった。
「もしかすると、新宿じゃないかも知れないぞ」
 T社長が首を傾げた。確かにそうかもしれない。歌舞伎町だけが中国マフィアの活動拠点ではない。今では池袋界隈の方が、その手の話をよく聞く。ショウは更に一年間、歌舞伎町の店に勤めながら情報を収集したが、弟の情報には辿り着かなかった。W書店を辞める時、T社長は何か有力な情報が得られたら、必ず連絡すると約束してくれた。この二年間で、T社長の他、地回りのヤクザ、飲み屋のマスターなど、数人の裏社会に通じる知り合いができた。その繋がりを得られただけでも、この二年間は無駄ではなかった。

 十八時過ぎ、新宿駅は帰宅途中の人々で溢れていた。スタジオアルタ前の広場には、待ち合わせだろうか、時折時計を気にしながら、液晶大画面を観る人の数が増え、旧コマ劇場跡地に建つ新宿東宝ビルへと続く石畳の路に、店のネオンと、形を変えて存在する客引きの姿が目立ち始めた。見慣れた光景に自然に頬が緩んだ。ショウがW書店に顔を出すのは久しぶりだった。
 T社長が今日、店に居るかどうかは知らないが、居るとすれば夜八時頃までで、その後はどこかの飲み屋に行ってしまう。W書店を辞めてすぐの頃は、月に一度、新しい情報を聞きに顔を出していたのだが、ここのところ数ヶ月連絡を絶っていた。W書店は新宿東宝ビルへと続くセントラルロード沿いの雑居ビルの地下にある。地下へと通じる階段の入り口付近に、申し訳程度に黄色い看板が出ている。歌舞伎町だからといって、違法な無修正のアダルトDVDがあるわけではない。正式な手続きを踏んで、正式な基準をクリアしたモザイクが入ったものしか扱っていない。客の中には無修正のDVDを求めて来店する者も多い。勿論、歌舞伎町には、そういう違法なものを売る店もあるが、W書店はそういう店ではない。ショウが久しぶりに顔を出すと、まだ時間が早いせいか、客の姿はまばらで、カウンター奥で座って店番しているアルバイトが大きな欠伸をしていた。確か前にも見かけたことがある店員だ。
「T社長は?」
 アルバイト店員の方もショウの顔を覚えていたようだ。
「あ、ちょっと待ってて下さいね、奥に居ますから呼んできます」
 店の奥の個室に入って行った。しばらくすると、T社長が顔を出した。
「おう、久しぶりだな、入れよ」
 手招きした。ショウは差し入れのコーヒーと洋菓子を店員に預け、事務所に入った。そこにはショウが勤めていた時に何度か見たことのある、薄い色つきのサングラスをかけたスーツ姿の男が座っていた。
「彼は、フロントビジョンの専務のハダ君、お前も何回か会って知ってんだろ?」
 ショウはハダを見て、軽く頭を下げた。その男は立ち上がり、名刺を取り出した。
「フロントビジョンのハダです」
 年齢はショウよりも上で、まだ三十代前半だろうか、高級なグレーのストライプの入ったスーツを着こなして、髪はオールバック、少し強めのコロンをつけている。街ですれ違ったなら、堅気とは思えないような張り詰めた雰囲気を持っていた。机の上に銀色のアタッシュケースが置いてあった。
「コイツは、ショウと言って、ちょっと前までウチでアルバイトしてた奴だ」
 とT社長がハダに紹介した。T社長は「タザキ」とは紹介しなかった。
「そうでしたか・・・・・・」
 ハダがショウを見た。瞳の動きが薄いサングラスの奥で止まった。その鋭さは、ショウがこれまでに見たことが無い種類のものだった。
「では、T社長、私はこれで」
 ハダが出て行った。左腕にはロレックスが光っていた。T社長は四十代半ばであったが、ひとまわりも若いハダという男に少し気を遣っているようにも見えた。
「ショウ、ちょうどいいところに来た、今な、ハダ君に中国人の知り合いがいないか聞いてみたところなんだ、で、お前の探してる弟の『サエキリュウ』という名前を知らないか聞いてみた」
「T社長、わざわざ、有難うございます」
「でな、まあ、座れ」
 ショウは座り慣れたパイプ椅子に腰かけた。
「ハダ君が言うにはな、新宿で人の名前だけで人探しするのは、やはり難しいだろうとは言ってた。だけどな、十五年以上前に起こったパリでの日本人画家殺害事件については聞いたことがあるって言ってた」
「本当ですか!」
 ショウは思わず立ち上がった。
「まあ、待て、慌てるな、話はここからだ」
「実はな、ハダ君に、どうしてその事件を知っているのか聞いたんだ。だって、彼にとってはリアルタイムな話ではないだろう? 十五年前のことなんだから、彼だってまだ小学生の頃の話な訳だし。そしたらな、彼は東京の山の手のボンボンなんだけど、父親が画商をしてたって言うんだよ」
「タザキノボルを知っていたということですか?」
 T社長が頷いた。
「勿論、直接は知らないが、名前だけは子供ながらに知っていて、その事件があったことも覚えていたらしい。それからな、驚くことがもう一つある」
 T社長がニンマリとした。
「今年に入ってから、その事件について聞かれたのは、今日で二度目だそうだ」
「二度目?」
「そう、つまり、俺たち以外にもその事件を調べている奴がいたってことだ」
「どんな奴が探していたか、わかりますか?」
 T社長が片目を瞑る。
「すまん、それがハダ君も新宿のヤクザに何気なく聞かれただけで、誰が探しているのかまでは聞かなかったそうだ。ただ、そのヤクザが知りたがっていたというよりも、聞くように頼まれているといった風で、そいつも詳しくは聞いてこなかったらしい」
「T社長、その依頼主が弟かもしれません。偶然誰かが調べているとは思えない」
「だな、また今度、ハダ君のところにヤクザが接触してきたら、詳しく聞いてみてくれとは頼んでおいたが、相手が相手だけに、慎重にことを進めた方がいいぞ、まあ、気長に待て」
 ショウが唇を噛んだ。
「わかりました、この件はT社長にお任せします」
 ハダの名刺は手にしていたが、ここはひとまずT社長を通して情報をもらう方が、ショウが直接ハダに連絡するよりも、話が前に進むような気がした。
「ところで、ショウ、これから暇か? 夜、少し付き合うか?」
 ショウは考えたが、もう少し詳しく状況を知りたくもあり、T社長と飲みに行くことにした。
「はい、いいですよ、もう少し詳しく話を聞きたかったし」
「よし、じゃあ、歌舞伎町はよそう、どこに耳があるかわかったもんじゃないからな、どうだ、二丁目行くか?」
「ええ、どこでも」
 T社長とショウは、歌舞伎町の中華飯店で腹ごしらえをし、明治通りを渡った。すると、急に人通りが少なくなった。
「歌舞伎町はここ明治通りまで、北は職安通りから先は大久保だから、歌舞伎町も案外狭いもんだよ、ぐるっと歩いたって、三十分もあれば一周できる」
「へえ、歌舞伎町ってそんなに狭かったんですね、アジア一の歓楽街って言われてるじゃないですか、それが、そんなに狭かったとは思いませんでした」
「だよなぁ、初めは皆そう思う。こうやってちょっと歩けば二丁目のオカマの街に行けるし、職安通り越えれば、すぐにコリアンタウンだ」
 二人はそんなことを話しながら、新宿二丁目のメインストリートを歩いていた。
「いつものビッキーの店にするか? それとも俺が最近見つけた、少し静かに飲める店にするか?」
「そうですね、ビッキーさんの店は狭いから、いっぱいかもしれませんし、カラオケがうるさいですから、社長の見つけた新しい店に行ってみましょう」
 T社長は酔っていれば間違いなく行付けのビッキーの店に行く。ショウもアルバイト時代に何度も付き合わされた店だ。しかし、今日は時間もまだ早く、ショウの希望もあり、店を変えた。その店は、メインストリートに交差する縦の通り沿いに新しくできたビルの二階にあった。外からは一見、洒落た喫茶店のようにも見える。他の店が場末のスナックのように見える中では、良い意味で目立っていた。しかし中に入ると、やはりここは新宿二丁目である。
「いらっしゃあ~い、お二人?」
 と大柄で無精髭がトゲトゲした女? が出迎えた。T社長が言うように落ち着いたショットバーのような雰囲気で、店内の照明は薄暗く、ジャズがかかっている。
「Tちゃん、お久ね、ところで一緒にいるイケメンの子誰、誰、ね、早く紹介して!」
「イサオ、コイツは昔、ウチで働いていたショウって言うんだよ、ヨロシクな」
 ショウがイサオの顔をジッと見つめた。どこかで会ったことがある顔だった。イサオの方もショウの顔を見て言葉を失った。次の瞬間、一気に思い出した。
「まさか、もしかして、イサオちゃん?」
「やだぁ、もしかしてショウ君? 信じられなぁい!」
 T社長がショウとイサオの両方の顔を見合わせた。
「知り合いか!」
「社長、知り合いも何も、専門学校時代の同級生ですよ! まさか、こんなところで会うとは思わなかった」
「アタシもよ、まさかショウ君がお客さんで来るなんて! さ、さ、とにかく座ってよ、ビールでいいかしら?」
「俺、前にも話したことあると思いますけど、調布の映画専門学校に通っていた時期があって、イサオはその時の同級生なんです」
「昔から、オカマだったのか?」
「いやいや、昔は普通のオッサンみたいな奴で、髭は濃かったし、声も太いし、全く想像もつきませんでした」
「そうよ、まだあの頃はカミングアウトしてなかったから」
「おもろい出会いもあるものだな」
 T社長が笑った。
「で、ショウ君はよく新宿来るの?」
「ああ、たまに来る」
「へぇ、そうなんだぁ」
 すると、T社長がショウを見てた。
「話しても・・・・・・いいんだろ?」
 ショウがゆっくりと頷いた。
「コイツ、人を探しに新宿来てんだよ。幼い頃に生き別れた弟がいるんだと。お前も新宿で店やってんだ、コイツに協力してやれよ」
「わかったわ、これでも結構顔広いのよ、任せといて、と言ってもオカマばっかりのネットワークだけどね、ショウ君の弟さんってどんな人なの? 特徴とか・・・・・・」
 ショウは首を横に振り、力無く笑った。
「俺が小学三年、弟が小学一年の時だったから・・・・・・俺自身、弟のこと・・・・・・あまりよく覚えていないんだ。だけど、顔はきっと俺に似てる。名前はリュウ。母方の祖父の家に引き取られたので、苗字は俺と違う。変えていなければサエキというはずだ」
 イサオは天を仰いでみせた。
「サエキリョウ・・・・・・ね、覚えておくわ、ショウ君みたいなイケメンだったら、一度会ったら死んでも忘れないわ」
「なあ、ところでショウ、お前が本気なのはわかってるが、俺なりに、お前に忠告しておくことがある」
 ショウがT社長を見つめた。
「焦るなよ、焦って一人で歌舞伎町に深入りするな、お前が今、弟の消息だけを探しているのなら問題は無いかもしれないが、十五年経ったとは言え、両親の事件のことで深入りすることを、俺は勧めない。お前が真相を突き止めようとして、奴らの地雷を踏んでしまうのが恐い。歌舞伎町は中国系のマフィアだけでも、幾つもの裏社会が複雑に絡んでいる。台湾の奴らもいるし、香港、マカオの奴らもいる。勿論、中国本土の奴らもいるが、その中にも、福建の奴ら、上海、北京、そして今は東北の奴らが幅を効かせている。奴らは首都圏だけでも十以上の団体、二千人は下らない。それも密航に密航を重ね、それら氷山の一角に過ぎないのが現状だ。奴らが皆、悪い奴らという訳ではないが、根本的なところで、奴らと日本人は理解し合うことができない。だから、絶対に奴らに自分の命を預けるような真似はするなよ、必ず、自分の身は自分で守る覚悟で奴らに接しろよ、そして、危ないと感じたら、潔く引け。手がかりがすぐそこにあるとわかっていても、身の危険を感じたら一歩引け。時間をかけて、ゆっくりと近づくんだ。いいな、わかったな。日本のヤクザとのトラブルは、この俺が解決してやれるかもしれないが、相手が中国マフィアじゃ無理だ。幾ら俺でも助けてやれんからな」
 ショウがゆっくりと頷いた。
「T社長、もう少し詳しく奴らのこと、教えてくれませんか?」
「ああ、そのつもりで今日は二丁目まで来たんだからな」
 ショウは深く頭を下げた。確かに歌舞伎町の飲み屋で話すのは躊躇われる。誰がどこで聞いているかわからないからだ。それほどに中国人が歌舞伎町に深く入り込んでいる。昔から自分たちの土地であったかのように、次々に根を下ろしている。しかし、何故か二丁目には中国人が寄り付かない。そのことをT社長は知っていた。
「黒社会(ヘイショーホエイ)という言葉を知ってるか?」
「チャイニーズマフィアのことですか?」
「そうだ、で、奴らは世界中にどれくらい存在すると思う?」
 ショウは首を傾げた。
「驚くな、全世界に二百万人以上だ」
 ショウは思わず眉をひそめた。
「ちなみに日本最大の暴力団である北陽会の構成員でさえ、三万八千人しかいない、驚くだろ」
 ショウが苦笑した。T社長が続けた。
「中国系のマフィアと言っても、奴らは一つでは無い。コイツらの多くが日本のヤクザと組んで悪さをしているから性質が悪い」
「中国マフィアが日本のヤクザと手を組むんですか?」
「まあ、見かけ、だけな。用は日本のヤクザが密入国を手伝って、盗みの情報を提供して、その分け前をシノギにしている」
 T社長が煙草に火をつけた。
「一九七〇年代まで歌舞伎町で幅を効かせていたのは台湾の奴らだ。だから古い日本のヤクザと、台湾マフィアの繋がりは今でも深い。国民同士でも台湾には親近感があるだろう? でも中国本土の奴らは日本人が好きじゃない。子供の頃から反日教育を受けて育っているからな。その本土の奴らが目立ち始めたのが一九九〇年代くらいで、この辺りから台湾の奴らに代わって歌舞伎町で幅を効かせるようになってきた。ちょうど俺が二十歳くらいの頃だったかな、お前も知ってるかもしれないが、風林会館の向かいの路地にある中華料理店で中国人三人が青龍刀で切り殺される事件があった。これは後に、上海マフィアが、福建の奴らを使って、対立していた北京の奴らを殺したのだとわかった。同じ本土の中国人といえども一括りにはできないのさ」
「信じられない、そんなことがこの近くであったなんて」
「この頃にはもう台湾の奴らの力が弱まっていて、中国本土の奴らの覇権争いが激化してた時期なんだ。あの頃の歌舞伎町は荒れていた。中国マフィア同士で撃ち合って、平気で死体が転がっている時代だった」
 ショウが一瞬目を閉じる。
「お前、蛇頭って知ってるか?」
「はい、子供の頃にニュースで見たことがあります。蛇の頭って書くんですよね、一体どんな奴らなんですか?」
「今でこそ聞かないが、蛇頭って言うのは福建マフィアのことさ。別名密航ネットワークとも言われてる。中国からの密入国の殆んどが、この蛇頭と何らかの関係がある。コイツらは同胞から高い金をふんだくって、大きくなりあがった犯罪集団だ。奴らは密入国しようとする同じ中国人から法外な金を取る。まあ、共食いみたいなものだ。密航者の殆んどは貧しい農村部の人間だった。以前は、日本に行けば金持ちになれると本気で思われていたからな。家族、一族ぐるみで金を工面しブローカーに払うわけだが、密航した者も、残された家族にも大きな借金が残る。初めは日本で真面目に働いて借金を返そうとするが、現実はそう甘くない。もし借金が返せないと、中国に残された家族には間違いなく死が待っている。だから、密航者は金を稼ぐために犯罪をも犯す。これが中国人による犯罪が激化した理由だ」
 ショウが溜息をついた。
「中国東北部の農村ではな、皆、日本に行って一旗上げたいのさ。犯罪で儲けた金で故郷に錦を飾った奴が勝ち組。勿論全てが犯罪絡みだとは言い切れんが、中国では海外で大金を掴み、故郷に豪邸を建てた者を海亀と呼ぶ。彼らの一族は村中から羨望の眼差しで見られることになる。昨日までブタ小屋のような家に住んでいたのに、急に金回りが良くなって、貧しい農村には似つかわしくない豪邸が建つ。それらは皆、密航により日本など海外で成功して建てたものだ。だから奴らは家族の誰か一人を密入国させるために、大金を払ってでも密入国させようとする。それによって福建マフィアは力をつけた。初めは橋渡しで、上海や北京の奴らに使われていた福建の奴らが、次第に力をつけて行った慣れの果てなのさ」
「では、今の歌舞伎町は福建マフィアが牛耳っているということですか?」
 T社長が苦笑した。
「それがな、そうでもないんだよ。虐げられた者の逆襲とでも言うのかな。台湾マフィアが横浜や他の土地に追いやられ、一時はそうなるかに思えたがそうはならなかった。中国東北部の密入国者は貧しく、周囲の地域より海外に出て一発当ててやろうという奴が多かった。旧ソ連の小国と国境を接する黒龍江省、吉林省、遼寧省が東北三省、以前、満州国と呼ばれた地域で、日本の残留孤児と関係するものも多い。この地域のマフィアを東北(トンペイ)と言うが、コイツラが密航やら何やらで日本に多く住み着き根を張った。凶悪な福建マフィアから、歌舞伎町の自分の店を守りたい中国人が雇ったのが『阿修羅』と呼ばれる東北マフィアだったのさ。歌舞伎町の中国人は、日本人とはどこまで行っても交わらない。中国マフィアが直接日本人経営者の店に手を出すことも無いが、日本人ヤクザが中国人経営者の店に手を出すこともできなくなった。日本のヤクザがみかじめを要求しても突っぱねる中国人経営者は多いが、奴らの背後には阿修羅が控えている。そうなってくると、日本のヤクザも福建の奴らも簡単には手が出せない」
「では、現在は、三つ巴みたいな状態なんですか?」
「まあ、そうとも言えるな、だが、昔も今も日本人が経営する店が多いことに変わりはない。これらは日本のヤクザが握っている。ただ、同じビルであっても、二階は日本人経営者だが、三階は中国人、四階はまた別というようなことが歌舞伎町では当然のように成り立っている。それに関して、いちいち互いにぶつからない。共存共栄路線を行ってるのが現在の歌舞伎町なんだよ。世界でも稀に見る微妙な均衡を保ったカオス・・・・・・それが現在の歌舞伎町」
 ショウはT社長の話を聞いて、深い溜息をついた。とても素人の自分が潜り込める街ではない。今聞いた話は、ほんの表面的な歌舞伎町のマフィアの黒歴史で、それもT社長がかい摘んで話してくれたものだ。
「歌舞伎町って恐いのね、アタシ、オカマでよかった」
「イサオ、別に歌舞伎町を必要以上に恐がることはないよ、俺なんか二十年も前から歌舞伎町のヤクザとはうまくやってる。二十歳前の遊んでた頃も入れれば、俺はこの街で育ったようなもんだが、危ない場面に遭遇したことなんて数えるほどしかない。油断せず、深く入り込み過ぎなければ、歌舞伎町は刺激的で楽しい街なんだ。この二丁目とそんなに変わらない。だけど、触れちゃいけないことがあるのも事実。そして、その地雷がどこにあり、何であるかはわからない。それはこの俺にもわからない。だから、ショウに忠告してやったのさ」
 ショウが頭を下げた。
「でも、自分は、歌舞伎町のマフィアに興味があるわけではありません。ただ単に、弟を探したいだけです。両親の事件のことは・・・・・・今の時点では、弟を探すための情報収集の一環に過ぎませんから」
 イサオがきょとんとして、ショウを見て、何か言葉にしようと唇を震わせたが、ショウはそれを見て見ぬ振りをした。
「ショウ君のような人でも、色々と抱えて生きているのね」
「イサオちゃん、また来るよ」
 二人は店を出た。夜風は温み、どこからか沈丁花の花の香りが漂っていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み