二十

文字数 2,888文字

 部屋の合鍵を渡して以来、ユキナは逆に顔を見せなくなった。ギクシャクしだしたようにも思うが、ユキナなりに心の整理をしているのだろう。
 ショウは、久々にユキナを新宿に誘った。どこかで一杯飲んで、一緒に部屋に帰れば、波立った二人の関係も、少しは落ち着くかもしれない。ユキナは普段通り、十七時まで調布の喫茶店「ミキちゃん家」でアルバイトして、それから西武新宿線の駅ビル「PePe」の前に十八時に待ち合わせた。ユキナが十七時ちょうどにアルバイト先を出た時、ショウからメールで、三十分遅れると知らせがあった。ユキナは京王線調布駅から特急電車に乗り、十七時半には新宿駅東口に到着していた。待たされることには慣れているユキナだったが、さすがに一時間も立って待っているのは辛いと感じ、ショウのように紀伊国屋書店にでも行って雑誌でも読もうかと思ったが、ふと、新宿歌舞伎町の「ライムスター」のことを思い出し、名刺の女に会えるとは思っていなかったが、どんな店なのか見てやろうという悪戯心が湧いた。今日はそれをネタにショウを困らせてやろうと思うと、気持ちが楽になった。別に合鍵を渡されたからといって、これまでとユキナの気持ちは変わらない。ただ、いつも追いかけているだけだった自分の心の中に、拍子抜けしたというか、戸惑いが無かった言えば嘘になる。ショウらしくないと言ってしまえば、それまでだが、嬉しい反面、素直に喜ぶことができない自分に不安を感じてもいる。ショウの言葉を本当に信じてしまってよいのだろうか? ユキナは財布の中に大切にしまってある、ストラップ付きの合鍵を再び取り出して、じっと見つめた。素直になればよいだけなのに、素直になれない自分がいる。ずっと追いかけてきたからこそ、乱暴な言葉遣いや態度をとってきたところもある。しかし、これからも、そのままの自分でいてよいのだろうか? 何度となく考えても、今のユキナには、今のままでいることしか思い浮かばなかった。
「ショウの奴を、今日は懲らしめてやるかんな!」
 ユキナは「ライムスター」という店の名前だけを頼りに、陽が沈みかけた歌舞伎町を歩きまわった。多くの店がまだ営業時間前ではあるが、新宿に勤めるサラリーマン風のビジネススーツを着た男たちが、ちらほらと通りを歩き始めている。十八時を過ぎると、居酒屋などが看板に明かりを灯し、ネオンがちらつき始めた。ユキナは殆んど歌舞伎町を知らなかった。劇団をやっていた頃に専ら飲みに来ていたのは新宿西口で、同じ新宿と言えども、西と東とでは雰囲気が別の街である。その中でも、歌舞伎町は特別だ。そこはアジア一の歓楽街である。スリリングでエキゾチックで官能的であり、また平凡で期待外れでもある。ユキナは生理的に、歌舞伎町が好きではなかった。それなのに、少し無理をして足を踏み入れてしまった。しかも、男なら誰でも目を奪われるような格好をして。
 さっきから二人組みの男が、ユキナの後ろをつけているのがわかった。ユキナの豊かな胸と、モデルのような美脚は、すれ違う男の視線を釘付けにする。そのことをユキナ自身もよくわかっている。よくショウが「目のやり場に困る」と言うように、男たちの性的な視線を受けてユキナは育ってきた。それでも、これまで真っ当に告白されることは多くあっても、危険な目に遭ったことは一度も無かった。だから心のどこかに油断があったのかもしれない。後ろからついてくる男が、一人になったと気付いて、その次の路地に入った時、待伏せていた男に声をかけられた。日本人で、髪は茶色く脱色し、ピアスをしている。ユキナが最も嫌いなタイプの男だ。やたらとコロンの香りを漂わせている。
「ねえねえ、君、可愛いね、一緒に飲みに行かない?」
 男の視線が、ユキナの美脚に注がれる。ユキナは視線を逸らし、そのまま無視して通り過ぎようとするが、前方の男が路を塞ぐ。
「男と待ち合わせしてんだよ、あんたらに付き合う気はねえよ」
 男が近づいてきた。
「まあ、そう言うなよ、その男より、俺たちの方がいい思いさせてやっからさ、ちょっと付き合えよ、なあ」
 ユキナが後ろを振り向くと、後ろをつけていた男が、すぐ近くまで来て、こちらもいやらしい目でユキナを見ている。通行人は皆、見て見ぬ振りして、足早に去って行く。通りに人影が少なくなった。気がつくと、辺りは暗がりとなり、袋小路のようになっている。
「ねえねえ、何して遊ぼうか?」
「は? お前らと遊ぶなんて、言ってねぇだろ!」
 男がニタニタと笑いながら、ユキナの下半身を見ている。
「そんなことないだろ、そんな格好して、俺たちを誘ってたんだろう? まったくスケベな女だぜ」
「ふざけるなよ、大声出すぞ!」
 男たちが笑いながら、舌なめずりした。
「出すなら出せよ、ここをどこだと思ってんだ、外国人パブのど真ん中の売春通りで、大声出したって、誰も来やしねぇよ」
 ユキナは知らずに、外国人娼婦や違法風俗店、ホテルなどが集まる一角に足を踏み入れていたのだった。慌てて辺りを見渡すと、アジア、ヨーロッパ、ロシアなどの外国人、ユキナには読めるはずもない文字看板が目に飛び込んできた。
「あんたさぁ、そんな男を誘うような格好で、この辺歩かれたんじゃあ、ただで帰してやる訳にはいかねぇんだよ、たっぷり俺たちの相手してもらわないと、何なら3Pでもいいんだぜ」
「バカかお前ら、誰がお前らなんかと」
 ユキナは身の危険を感じたが、誰かが救いの手を差し伸べてくれるのを待つ他になかった。このままでは、男二人に強引にホテルに連れ込まれ、最悪の場合、強姦されるかもしれない。そう考えると、急に足の力が抜けて、その場にしゃがみ込んでしまいそうになった。すると、そこに一人の男が現れ、男二人に声をかけた。
「やめとけよ」
 男二人の視線が声をかけた男に注がれる。一瞬、男二人がたじろいだ。
「うるせえ、何だ、てめえ」
「俺か? その前にお前ら組の者か? 見たとこ違うよな?」
「な、なんだこの野郎、やるか!」
 男二人はユキナから離れ、声をかけてきた男に詰め寄った。一瞬の横顔が光に照らされ、男の顔が見える。
「ん? ショウ?」
 またすぐに顔が見えなくなる。すると次の瞬間、二人組みの男の一人が鼻から血を流して倒れ、もう一人の男が、侘びを入れながら走り去った。倒れた男もすぐに起き上がり、頭を下げながら消えた。すると、間もなく、その男の仲間と思われる数人の男たちが駆け寄り、笑いを交えながらユキナの知らない言葉で会話していた。あれは中国語だ。しかし、ユキナを助けてくれた男は日本語を話していた。ユキナはその男に礼を言いたかったが、気がつくと仲間の中国人と共に暗がりの中に消えてしまった。思い返せば、声もショウに似ている。ショウなのか? いや、そんなはずはない。顔はほとんど見えなかったが、シルエットと雰囲気がショウにそっくりだった。ふと、時計を見ると、時間は十八時半をすでに過ぎている。
「やっべぇ、遅刻だ!」
 ユキナは走り出した。心はもう、ショウのことでいっぱいだった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み