第8話 妹

文字数 2,258文字

 毒親殺人事件のマスコミ報道はお昼のワイドショーを中心に連日なされる。何しろ未だに犯人を示唆する直接的(物的)証拠がない。和歌山毒物カレー事件(1998年)以来の奇怪な事件。誰もがこの事件を思い浮かべた。

 ―和歌山毒物カレー事件とは 

 和歌山のある地区で夏祭りが催され、その折に近在の人々に振舞われたカレーに毒物が混入された事件。63人の健康被害者を出し4人が死亡した。当初警察は「集団食中毒」と発表、その後「青酸化合物混入」と変更、またさらに「ヒ素混入」と、見解が二転三転する。

 事件は、過失致死から集団殺人の刑事事件と大きく舵を切ったのだ。当然、刑事事件には容疑者がなくてはならない。だが、誰がカレー鍋にヒ素を混入したかという直接的な証拠は出て来なかった。故に、検察は大量殺人計画に至る容疑者の動機と状況証拠を積み重ね、ひとりの主婦を起訴した。第一審、控訴審ともに死刑判決、上告審でも容疑者側の無罪の訴えが棄却され2009年に死刑が確定した。(今でも再審請求がなされている)
 もちろん玲奈はピンと来る世代ではないが、寄宿先の料亭の女将はいかに世間が異様な盛り上がりを見せたかを証言する。今回のはそれとよく似ているらしい。
「あん時は最初からマスコミも警察も世間様もひとりの主婦をターゲットにしていた。まるで魔女狩りみたいだったわ。今は犯人と断定されているようで幸いだけど、まかり間違えばちょっと怖いわね。いつ何処で誰でも犯人にされちゃう」

 女将は身震いして見せた。確かに興味を持って公判日誌を覗いて見るものの、犯人ありきで状況証拠が積み上げられている。世論のあと押しも拭えない。味方につけての検察の独断専行が目立つ。これは再審請求がなされても不思議な案件ではない。
 毒親殺人事件では、現状、ひとりが槍玉にされてはいない。三人の誰でも犯人足りうるとか、整理前手続で検察が主張したように共謀説が有力。一方、あらかじめ毒を飲ませて事故を装ったんじゃないかとする説も浮上し、毒については、意識を混濁させる、催眠剤とか抗うつ剤が有力視され、母親の体内から物質が特定されたとのフェイクニュースまでもまことしやかに流される始末。
 
 ―

「わたしね、いま、カプシーヌ法律事務所から誘われてるんだ。給料は1.5倍だって」
 これは昼食を共にするひとつ先輩の判事補。この法律事務所は国際法を主に、国をまたいだ企業間や顧客との訴訟を担当する。一番儲かる分野。また、複数のマッチングサイトや婚活サイトの顧問もやっている。ちょっとダークな一面ものぞかせる。
「わたしたち薄給だよね。苦労した割には…」
 確かにそうだが弁護士なら誰でも憧れる法律事務所。今日日、弁護士だって食えない。民事訴訟の件数はここ10年横ばいなのに弁護士の数は増える一方だ。入社したてから並みの月給を頂ける事務所なんて高嶺の花子さん。
 それにしても事務所側は何も分からない新人よりも即戦力を欲しがる。
 あ、そうか。玲奈は得心する。
「彼氏さん、カプシーヌに居たんだっけ?」
「うん、カプシーヌがセカンドブランドを立ち上げて、そっちに移るらしいんだ。その後釜にどうかって。でもさ、転職して借りが出来たら、彼とはもう別れられなくなっちゃうよね。
 わたし…最近、他に好きな人が出来たんだ」
「あれ、モテ期到来かな? いいな、羨ましい」
 アラサー女子の本音か。結婚適齢期の揺れ動く心。♀族には一大事。異性を寄せ付けない玲奈には遠い話しだが理屈は解る。
 ランチプレートのあとにホットラテが付いてくる。はや師走。温かさが身に染みる。
「あ、そうそう、大事なこと、忘れるとこだった。彼氏から預かってた。ほら、玲奈から夏前に頼まれていた調査案件。義理の妹さんのこと」
 同僚はバッグから一通の封書を取り出した。玲奈はずっと気になっていたが、実現出来ないでいた。両親の離婚の原因となった戸籍上の義理の妹と実際に逢ってみること。
 いや、こう思うようになったのは司法への道が拓けてからだ。それまでは決して触れたくない負の部分だった。両親が離婚し母が病む原因となったことだ。けれど、法の元で働くようになってから考えが替わった。
 人間の所業には簡単に善悪と割り切れない、見落とされがちな機微が隠されているものだ。「人情の機微に触れる」と表現される、とても大切な部分。生理的嫌悪だけで無視して良いものではない。嫌でも直視しなければならない。
 埼玉地方裁判所に赴任されてようやくチャンスが廻って来た。ところが義理の妹は本籍地には居住していなかった。そこで知り合いの弁護士に調査を依頼した。
「調査費用は貸しとくってさ。民事裁判で便宜を図ってくれって」 
 タダほど高いものはない。きちんと請求するように同僚には伝えた。
 デスクに戻って、早速、二か所に割り印のある封書を開けた。
   田中美奈 26歳 現住所/千葉市美浜区打瀬〇〇14番館1802号室 独身 無職 
   転入前住所 茨城県土浦市港町〇〇 
   親族 母親 服部徳子(死亡) 父親不明 祖母 服部ゆき(死亡)
   学歴 土浦港小・中学校、北高校卒 
   職歴 ナシ(不明)   
   補導歴アリ 売春
 淡々と、義理の妹に関する個人情報が開示されている。おそらくは提携の探偵事務所に調査依頼をしたように思われる。想像した通りで、通り一遍の調査で人間味のある部分が伺い知れない。検察側の訴状と代り映えしない。
 ここは直接会って話してみるべき。玲奈はそう判断した。
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