第5話 現場検証報告書

文字数 2,410文字

 検察側からは警察による「現場検証報告書」も提出された。そこにはメディア報道でなされた以上の物証は出ていなかった。科捜研は鑑識の実況見分調書を踏まえ、施設内に同様の階段と致命傷となった紫水晶の置物を設置し、人形による再現実験を繰り返し行った。
 しかし事実は覆らなかった。死因はガイシャの腹部に60~80N(ニュートン)の力が加わり後方に押されたため、階段から転落し紫水晶の置物に後頭部を殴打したもの。60~80Nとは約6~8キログラムの力のこと。分かり易くは2ℓのペットボトルを3~4本分の力。これは女性でも成しうる。
 ただ、ガイシャの着衣前面のウール繊維の凹みと60~80Nとの力の関係性は判然としない。凹み部分には犯人を特定する皮脂DNAも検出されず、何による凹みなのかを示唆する物質も検出されなかった。
 殺人には殺意(動機)に、やり口(方法)とそれを裏付ける客観的物的証拠がなければならない。例えば、金銭を巡る利害関係から刃渡り30㎝の包丁で胸部を刺し殺害した場合、金(金銭欲)と言う立派な動機があり、凶器が押収され、現場検証の上、指紋、足跡、DNA鑑定など科学的に証拠が整えられる。また、事情聴取など聞き取りの段階で、観念するもしくは後悔やら罪の意識からの自供(自白)は犯行を裏付ける大きな要素となる。

 本事件の場合はどうか? 動機の方は検察側の訴状から容疑者三者から窺えなくもない。やり口も分かった。しかし、肝心な物証がまるでない。これは検察側も認めている。あとは状況証拠を積み上げて行くしか方法がない。
 ただ、検察の容疑者は3人居る。単独犯か共犯か、3者グルの犯行。検察はどのようにストーリーを描くのか? 正直興味もあった。担当の検察官は40代で検事6号(裁判官と同じく20~1号に階級分けされて居る)に昇進した埼玉地方検察庁のキレ者、大野依織。
 これまでに〇町母子(3人)強盗殺人放火事件、〇市交際2女性殺害事件、〇区2遺体損壊殺人事件などを担当。見事に容疑者を特定し、しかるべく量刑につけている。お見事としか言いようがない。それに比べて弁護側はかなり見劣りがする。
 私選弁護人を付けているのは父親のみで、姉妹の弁護人は国選だ。国選弁護人制度とは、刑事裁判において被疑者・被告人が貧困や身分(学生)などの理由で私選弁護人を付けられない時に、国が国費で弁護人を付することにより訴えられる側の権利を護る制度のこと。
 ただし、国選弁護人の報酬は安く(私選の5分の1程度)そもそも成り手がいない。国選は日本司法支援センター(通称・法テラス)と契約を結び、リストに加えて貰う過程を経る。金より心情との人権派弁護士もいらっしゃるが、大抵は、現役を退いた高齢者か、或いは所属の法律事務所での出世競争に負けたとか、顧客とトラブルを起こしたとか、訳アリさんもいる。また刑事事件が専門とは限らない。不慣れな人も多い。
 今回の場合には、父親も被疑者のひとり。実子とは言え、同等の被疑者2名に私財を投じるには法テラスも裁判所も疑問を感じたのだろう。国選だから能力が低いと断じるのは早計だが、被告人がその弁護活動に不服を感じても替えることは出来ない。
 今回のような物証が何ひとつない難事件で、真っ当な弁護が出来るのか? これは国選弁護人制度の危さ脆さを露呈している。被疑者3名ともが些細な難癖によって、検察に不当に身柄を拘束されて不利な供述に誘導されたり、さらに自白の強要などが行われないことが、せめてもの救いと言える。
 物証に乏しく検察から拘留請求を出されても裁判所は許可しなかった。身柄を押さえる意味が判然としない。通常は逃亡の恐れとか証拠を隠滅されるとか、真っ当な理由があるものだ。従って、父親は家に留まり、姉は母方の実家に妹は〇市女性センターが提供した施設にいる。弁護人はいくらでも自由に被告人と面会し弁護活動の方針を練れる。
 
 玲奈は検察、弁護側の主張から離れて事件を検証してみる。一体、現場で何が起こったのか? 2階には階段を挟んで母親の自室と長女の部屋とトイレがある。階段周りは1坪ほどのスペースしかない。
 階段上で母親と長女が言い争い激高した長女が母親を押した。真っ先に考えられる。この場合には押した結果、偶々階段から滑落したのか、端から落とそうとしたのかで量刑が替わる。でも、言い争うような声や物音を階下の次女、父親とも聞いていない。
 湯上りにフットネイルを施していた次女、テレビを観ていた父親は異変を感じた筈。両者がこの母と長女との揉め事を証言して居れば、長女の犯行説で大方が固まる。だが検察はこの件を主張していない。
 これには以下のふたつの事実が覆せないでいるからだ。母親の指や衣服からは、長女を特定する衣服の繊維やら油脂DNAが出ていないこと。そして何より長女には有力なアリバイ、対戦型オンラインゲームの履歴には犯行時刻が載ってること。
 家のあちこちに家族の指紋や足跡、またそれぞれのスリッパ痕は確認されている。当然、階上の1畳スペースにも被疑者3者のものは散見される。また、物干し用のベランダには母親の部屋を通らないと辿り着けない構造ともなっている。
 では、母親の衣服に油脂DNAが付着していた父親か次女の犯行か? こうするためには長女と同様に、2名がアリバイとして述べていた行動を科学的に覆す必要がある。父親の見ていたテレビの内容は犯行時刻に放映されていた通りを陳述している。そうなるとフットネイルをしていた次女がクローズアップされる。ただ問題は弁護人が付いてから、フットネイルと並行してスマホで音楽を聴きながら彼氏とLINEをしていたとアリバイが追加されたのだ。開示されたスマホには犯行時刻のLINE(若い男女の下世話な会話)も確認された。

 一体、どうなってるの?

 捜査は大いに行き詰まりを露呈する。
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