第20話   始め終わりこそー1    137

文字数 1,072文字

□花は盛りに、月は曇らない時だけに見るものだろうか雨にあっては月が恋しく、部屋に
籠っていて春が過ぎ去るのも知らないのも、哀れで情深し。
※現実的に物事を見るだけ修行がたりん。部屋に籠り、見えない月を思い降ってもいない
 雨に思いをはせるくらいの想像力というか。俳句の心か。
□咲きそうな桜の梢、花びらの散り敷いた庭などこそ、見所多けれ
※満開の花を見て団子を食べるより、梢の頃や散り敷いた花びらに情緒を感じるべきだ。
 
□歌に「花見に行ったけど、すでに散り盛りも過ぎていた」とか「用事があって行かなか
 った」など書いてあるのが「花を見て」と言うのに劣ることだろうか。
□花が散り、月が傾くのを慕う気持ちはもっともな事であり、特に風流心の無い人は「こ
 の枝もあの枝も散ってしまった、今は見る価値もない」などと言うようで ある。
□何事も、始めと終わりにこそ趣があるというものだ。男女の恋愛も人に逢って見るだけ
 るいうものだろうか。逢わないで終わった憂さを思い、あてにならない約束に愚痴をこ
 ぼし、長い夜を一人で明かし、遠い雲井を思い、茅葺の茂った荒屋で恋人といた昔を偲
 ぶこそ、真に色恋を知れるといえよう。
□満月の曇りのない千里先まで眺めれるよりも、暁近くなるまで待った有明の月のほうが
 いと心深く青んでいるようにて、深き山の杉の梢の間から見えたる木の間の影、うちし
 ぐれたるくら雲隠れのほうが、このうえなくあわれなり。
□椎柴、白樫などの、濡れたような葉の上のきらめきたるこそ、身に沁みて、「この場に
 風情を解する友が居たなら」と、都恋しう覚ゆれ。
□すべて、月・花をば、その通りに見ればよいというものであろうか。春は家から出掛け
 なくても、月の夜は寝室にいるままで思いやっていると、いとたのもしう面白いもので
ある。 
□よき人は、ひとえに熱心に愛好するように見えず、興味を示すさまもなおざり
 である。片田舎の人こそ、しつこくなんでも面白がるものである。
□花のもとに、にじりより立ち寄り、あきらめもせず凝視し、酒飲みて連歌し、果
 てには、大きな枝心なく折り取りぬ。泉には手足さし浸して、雪には下り立ちて
 跡をつけたり、よろずの物、距離を置いて見る事なし。
※さすが、日本三大エッセイの一つと言われるだけの価値ある文章である。
 日本人の自然に対する情緒というのは、すでにこの頃から表現され流布して
 いたのだろうか。徒然草を読み、感動を覚えることが多い。
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