一日目、その七

文字数 5,368文字

「なあ、ツバキ」と私は、個人病院を出たすぐ前で声を掛けた。
「このまま直接、この街を出たほうがいいんじゃないのか?」
「それは屋敷に戻るのをやめて、さっさとここから脱出しようということかい」
 わざわざ聞き返さなくてもその通りだった。仮に私達が魔女の知り合いだとばれていなかったとしても、彼女の味方をした時点で肩身の狭い思いをするのは分かりきっている。それならばいっその事、彼らや私達のためにも姿を消したほうがいいように感じられた。
「柳さんの言葉には背く形にはなるけど……」
「非現実的だね。僕達の荷物は部屋に置きっぱなしだし、今から帰ることができたとしても、アパートに戻れるのはいつになることやら。それにねサクマ。頼みの綱であるレンタカーはエンジンの調子が悪い」
「時間が解決してくれたかもしれない」
 そう言って私は腕時計を見つめた。「俺達がここに来てから三時間は経ってる」
「勝手に車が復活してるって? 有り得ないよ」
「叩いたら直る可能性だって残ってるだろ。あの時は俺もお前も、車自体をどうにかしようとはしなかった」
「素人が手を加えても、状態を悪化させるだけだと思うけどね」
 肩を竦めてツバキは続ける。
「もし仮にそのような奇跡で車が動いたとしてもだよ。魔女はどうする。置いていくのかい」
「それは……ひとまずは回復するまで動かせないな」
 薄情な奴だと責められるかと思ったが、そうでもないようだった。ツバキはシャツの胸ポケットから煙草の赤い箱を取り出し、口に咥えるとそっと火をつけた。
「別に置いてけぼりにすることに反対しているわけじゃない。魔女はこんな目に遭う前に元々言っていたじゃないか。「先に屋敷から出ていけ」って。彼女のことだ。例え僕達が先に街を脱出していたって、一人でどうにかしてみせる」
「それだったら」
「君も一本どうだい?」
 今すぐここから離れよう。そう言いたかったのに話を遮られてしまう。
「……いい。苦手だって知ってるだろ」
「そうだね。新鮮な空気でも吸って、深呼吸でもしてみればいい」
 どういう意味なのか分かりかねたが、実際に行動に移してみると少し冷静になれた気がした。今後の動向を決めるために何が必要なのか、ひとまず考えるべきはその一点だ。
「車の様子を見に行かないことには判断しようがない。そう言いたいのか?」
「その通り。短絡的思考に陥ることなく、最善の答えを見つけることができたじゃないか」
「……うるさい」
 まるで親が子供を褒めるような言い方だったので私はそっぽを向いた。それを見て微笑みながら、ツバキは吸い始めたばかりの煙草を携帯灰皿にしまった。
 柳が先程、「車に乗せっぱなしだった」と貸してくれた傘を差し、私達はレンタカーのある場所まで目指すことにした。あまりに暗い道は、私の携帯電話のライトを頼りにする。
 時刻は八時二十分。屋敷を出てから一時間と少ししか経っていない。けれども予想以上に歩いた時間は長く感じられて、その間私達は答えのない会話を続けていた。
「……紫帆が倒れたこと、どう思う」
「具体的に言いなよ」
「殺人未遂だと思うか」
 足が一瞬止まり、数歩先行していたツバキが振り返った。
「……まだ何とも言えないね」
「あんな倒れ方をしたんだぞ。どう見たって普通じゃない。少なくとも持病とか、そういったものが原因じゃないはずだ」
「だから殺人未遂だと。まあ、確率は高いだろうけどね」
「ほとんど確実だろ。あんな危険な目に遭って、紫帆は誰かに殺されそうになったんだ」
「決断を下すにはまだ早いよ」
「だったら他に何がある」
「それは……いや。仮に君の推測が正しかったとしよう」
 ツバキは何かを言おうとしたが、一旦それを慎むように口を閉ざし、私の言い分に従うことを選んだようである。
「君は屋敷にいた人間の中に、犯人がいると思っているのかい」
「動機という面から見ただけだが、俺はそう思う。タイミングが良すぎるだろ。あいつを嫌っているこの街で、あんなことが起こるなんて」
「果たして本当にそうかな? タイミングに関しては、むしろ最悪だと思うけどね」
 それからツバキはこうも述べた。
「今日の僕達の訪問はあくまでも偶然だった。あらかじめ予測なんてできなかったはずだし、魔女を狙った犯行なら、犯人は事前に彼女がこの街にいることを知っている必要がある。この条件だけでも容疑者はかなり絞れるはずさ。あまり賢い犯行だとは思えない」
「それでも犯人は紫帆のことが許せなかった。あいつを手にかけるチャンスは今しかない。そう考えれば絶好の機会とも取れるだろ。……それほど憎い気持ちを抱いているのは、宍戸家の人間ぐらいだろうけど」
「さらに容疑者の範囲が狭まったね。たかだか街の開発を巡る話し合いで揉めただけで殺人未遂だなんて。そんなことが住民達に発覚した時の対処の方が大変だと思うけれど」
「それは……余程根深いところで険悪な状態になっていたから、とか……」
 私はだんだんと自分の意見に自信が持てなくなっていった。この時は手掛かりを探る段階でもなかったから、仕方のないことである。
「まあそんなに気を落とさなくても、いつか真相は明らかになることだろうさ。僕の手を借りずともね。毒となったものの入手ルートや、彼女のグラスに毒を入れることのできたほんの僅かな時間。この辺りから吟味していけば、いずれボロが出てくる」
 ツバキはこのように事件の話をまとめた。しかしこの堂島紫帆の殺害未遂については、そんな彼の他人任せな予測も掻い潜り、後に起こる全ての事件よりも犯人追求に時間を要することとなる。
「あの時ホールで何が起こったのか。それが知りたいなら、車が奇跡的に回復していたとしても脱出は保留にした方がいい。……僕は別に、興味はないけどね」
 悪く言えば「やる気がない」とも感じられたが、ツバキはこちらの返答がないのも気にせず終始落ち着いている。穏やかに微笑んだ表情はいつもと同じで、余裕綽々といった様子だった。
「ツバキ」
「なんだい」
 私は一つ彼に、気になっていたことを尋ねた。
「柳さんの車に乗っている間、紫帆と話していた時があっただろ。何を言っていたんだ」
「一瞬のことだったのに鋭いね。愛の言葉を交わしていたとでも?」
「はぐらかすなよ。そんなことじゃないのは分かってる」
「大したことじゃないさ」
 そう言いつつも、ツバキの表情は一瞬、夜の闇に溶け込んだように曇った。
「……「馬鹿だね」って。それだけだよ」
「え?」
「勝手に生き返させられて、殺してやりたいほど私のことを憎んでいるくせに。馬鹿だね、ってさ。嫌われ者の彼女は、皆から見殺しにされることを覚悟していたらしい。お人好しな君のことはさておいてね」
「良かったのか?」
「何が」
「その、魔女を助けたこと……」
「それとこれとは別問題さ。僕は人として、そこまで成り下がるつもりはない」
 けれども煙草の赤い箱を弄ぶ片手は、どこか迷っているようでもあった。
「そんなことを口にするくらいなら、犯人の特徴でも挙げてもらいたかったよ。……まあ、それは彼女が回復するのを待てばいい話さ」
 ツバキは紫帆が死ぬという最悪の状態は免れたと確信しているらしい。無論年老いた医者もそのように言っていたのだが、何事も慎重な私はまだ安心できなかった。
「さて、これからどうしたものかな」
 そして彼はぽつりと呟いた。明言しないまでもそれは、「自身が事件に向き合うか否か」を示している。
 ツバキが犯人探しや謎解きに進んで興味を示さないのは常日頃のことだった。「探偵でも刑事でもないのに、面倒事の中でも特に厄介な「事件」に首を突っ込むなんてどうかしている」というのが彼の主な主張である。しかし内に秘めた実力が確かなことは、これまでその光景を隣で見てきた私にはよく分かっていた。飄々として生意気なところはあるが、一度取り組めば事件に対する態度は真剣そのもので、周囲の人々へ真正面から向き合う態度も揺らぐところがない。(私にも同様の接し方をしてほしいものだが)。
 そして今回の事件についても私は、ツバキが鮮やかな推理力を発揮してくれないだろうかと期待していた。心中で渦巻く漠然とした不安もあったが、頼りになる彼の姿には何よりも安心感があるのだ。
 そしてその「漠然とした不安」というものは、私達の目前にすぐさま指し示された。
 グオオン……! と、どこか怪しげな音を鼓膜が拾い上げる。
「なんだ、この音……」
 初めは空耳ではないかと疑うほどだった。しかし周囲を見渡すと同時に爆音が街中を支配し、思わず私は両耳を塞ぐ。
「こんな時にいったい何なんだ!」
 苛立ちながらサイレンだと気付いたのはそのすぐ後だった。見上げれば、何本か立ち並ぶ電柱の頂点に括り付けられたメガホンから流れている。
「何とも悪趣味だね。この街独特のルールだとしたら尚更だ。……まずい予感がする。急いで車の様子を見に行こう」
「向かう」のではなく「様子を見る」と言った時点で、ツバキには既に最悪の事態が想定できていたのだろう。ようやく私達が辿り着いた頃には、黒のワゴン車は見る影もなく無惨な状態となっていた。
「誰がこんなことを……」
「君がさっきまで提唱していた、「叩いて直せ」を実践した結果だね」
 ツバキの冗談めいた軽口も、この時ばかりは笑えない。ボディの部分はあらゆる箇所が凹凸に波打ち、ガラスやライトは全て粉々に砕かれていた。人為的に行われたことは一目瞭然で、周囲には金属バットと鉄パイプが一本ずつ置き去りにされている。もはや廃車同然であり、私の頭には「レンタカー業者に対する弁償費用」などが一瞬はよぎったが、決して今はそれどころではなかった。何者かが強い意志を持って、このような凶行を行ったのだ。
「エンジンの状態もどうせ、あの時と同じだろう。……うん、意味がないね」
 もはや役割すら果たしていない運転席の窓からツバキが腕を伸ばし、鍵を回しても事態は好転しなかった。レンタカーのエンジンは唸り声を響かせただけである。
「車の鍵、ちゃんと持ってきてたんだな」
「魔女から拝借しておいた。どうせ意味がないだろうと覚悟はしていたけどね。……サクマ、どうやらお迎えの時間だ」
 視線の先に、複数人の集団が私達の元へ近づいてくるのが見えた。あちらこちらからは再び、不気味なサイレンの音が響き始めている。鼓膜に粘り着くような不快な音に眉を顰めながら、私はただじっと耐えるように待つことしかできなかった。一方でツバキは僅かな時間にも推理に有効な材料を探しておきたいのだろう。ぐるりと周囲を回って車の様子を伺っては、顎の縁をなぞりながら何やら考え込んでいた。
 そして一団が私達の目の前に現れると、ずんぐりとした背格好で先頭にいた大山彩史は口を開いた。
「びっくりしましたやろ? このサイレン。本っ当に不謹慎ですわ。何がって……ま、それは屋敷に着いたら分かりますわ、うん」

女は「本来あるべき場所」に小走りで戻りながら、先ほど見た光景に驚きを隠せずにいた。
 王子様が……。王子様が怒っていた。
 あれほどに怒り狂った姿を、女は一度も見たことがなかった。けれどもそれはきっと、他ならぬ自分のためである。そうに違いない。
 事実女は一瞬廊下を通りかかった時に耳にした。言い争う声を。「これ以上近付くな!」という悲痛な叫びを。そして興味本位で襖から少しだけ覗いた瞬間、女は怖くなり、気付けば屋敷の外へ逃げるように走っていた。……けれども。
 王子様、王子様。ああ、私の王子様。
 彼を助けるために女はすぐに立ち止まった。私のために彼は頑張ってくれている。なのに私が何もしないのは、あまりにも薄情ではないか。私も彼のために、できることは全て捧げたい。彼に嫌われることだけは、何としても避けたかった。
 だから女はすぐさま行動に移した。屋敷にいる人間にばれぬよう、落ちていた凶器を手に、急ぎながらも慎重に。彼女は他の人間にその姿を見せるわけにはいかなかった。万一姿を見られてしまえば、大声を上げられることは明白だったから。
 今夜は何故だかいつもより人の数が多かった。それが余計に女にとっては厄介で、そして不快でもあった。この国は私を嫌っている。「いてはいけないもの」として。しかしそれも、もう少しの辛抱だ。
 王子様が助けてくれる。そして二人で手を取り合って、閉ざされた最悪の国を後にするのだ。その先にはきっと、希望に満ち溢れた新たな世界が、微笑みながら私達を迎えてくれる。
 これはそう、愛を試されているのだ。
 愛のためならば、人はどんな壁でも障害でも乗り越えられる。これまで読んできたどの本でも、そのように描かれていた。清らかな愛は決して、何者にも負けることがないのだ。
 だから、と女は誓う。
 ずっと、この牢獄で私を支え続けてくれた王子様。彼と共に、外の世界を目指してみせる、と。
 凶器を元の場所に隠し終えた女は重く閉ざされた扉を開き、隙間に細い体を滑り込ませた。王子様が迎えに来てくれるから、これまで耐えてきたこの不快な塔も貴賓室のように見える。
 ああ、王子様。全ては、貴方を愛しているからこそ。
 女は口角を上げて笑みを浮かべ、長く続く螺旋階段を一歩一歩踏みしめて行った。
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