4章―1
文字数 3,205文字
季節は過ぎ、周囲の木々が紅葉に色づく季節となった。
夏でも涼しいこの地域は、秋になると急激に気温が下がる。植物の管理が難しい時期でもあったが、特に何事もなく、例年と同じように冬を迎えるはずだった。
「おはようございます、ユーリさん」
ユーリットがリビングに入ると、既にオズナーが朝食の準備をしていた。彼に挨拶を返し、栽培室に向かおうとするとと急に呼び止められる。
「朝の管理は終わりましたよ。ゆっくりしててください!」
「あ、ありがとう。顔洗ってくるね」
方向転換し、リビングを出る。洗面所の冷たい水を顔に叩きつけ、はぁ、と溜息をついた。
ずっと好きな人がいる、と告げたあの日以来、オズナーは全く落ちこむ様子を見せなかった。それどころか『いつかその人以上に、好きにさせてみせます』とはっきり宣告された。
ユーリットが起きた段階で朝の準備は終わっている日が増え、仕事も家事もオズナーに頼りきり。負担は大きいはずだが、それでも相変わらず、彼は人懐こい笑顔を向け続ける。
「僕は、どうしたらいいんだろう……」
自分の弱さを打ち明けた日、オズナーに抱きしめられたことを度々思い出す。あの時の彼は、『親友』と同じように励まそうとした訳じゃない、と気づいてしまったのだ。
背中に回った腕の温もりも、頭を撫でる優しい手の動きも、自分に愛を伝えるため。それに気づいてからは、自然なスキンシップにも動揺してしまう。ユーリットは次第に、オズナーを意識し始めていた。
だが、心の奥底には、昔見た
ユーリットもまた、彼に誘惑された者の一人だった。[第六感]は警告を出していたが、心を開いた瞬間、彼に呑まれた。だが残ったのは恐怖ではなく、恋心。その日以来彼を慕い続けたが、ユーリットの想いは届かなかった。彼は最初から、ユーリットの『親友』だけを愛していたのだ。
彼が『親友』と結ばれたなら、まだ諦めはついたはずだった。だが『親友』が選んだ相手は彼ではない。ならばあの人は、いつか振り向いてくれるかもしれない。僅かな可能性を捨てられないまま、ユーリットは苦しみ続けていた。
鏡に映った自分を見る。水に濡れた顔からは、不安以外の感情は見当たらない。
オズナーから真っ直ぐな愛情を向けられ、素直に嬉しい気持ちはあった。それでも、『初恋』の記憶はいつまでも心に留まり、消え去ってはくれない。
自分を愛してくれる人の手を取るか、それとも、叶わない
――――
朝食を終え、準備を済ませて開店する。午前中は数人の客が訪れるくらいで穏やかな時間が続いたが、突如平穏は破られた。
「ハーイ、二人共元気?」
「げっ、アンヌ!」
オズナーはすぐさま、来店したアンヌと取っ組み合いの攻防を始めた。「ユーリさんに近寄るな!」「ちょっとそこ退きなさいよ!」といった文句が飛び交い、店内は一瞬にして修羅場に変わる。
この光景は、今では日常の一部分となっていた。ユーリットの様子も以前と変わり、「また始まったな」と苦笑するまで回復した。とはいえ、アンヌが彼に近寄った瞬間『女性恐怖症』の症状は出てしまうのだが。
それでも水色の花を返された日から、ユーリットはアンヌのことを認め始めている。オズナーは、小競り合いを繰り広げながらも嬉しく思っていた。
「やぁ、ユーリ。久し振りだな」
玄関の呼び鈴が鳴ると共に、爽やかな甘い声が聞こえた。オズナーとアンヌは喧嘩の手を止め、入口を見る。そこには、容姿端麗な長身の男性がいた。
肩までの赤茶色の髪が、足取りに合わせて揺れる。中央で分けた前髪の間から、柔らかな笑顔が覗いた。黄土色のボア付きジャケットとボルドーのワイシャツ、真っ赤なネクタイという派手なスタイルだが、漂う雰囲気はエリートのビジネスマンだ。
オズナーは彼に見惚れてしまい、その瞳に吸い寄せられそうになる。しかし次の瞬間、目を疑ってしまった。ユーリットが、その男性に抱きついたのだ。
「ヒビロ、来てくれたんだね!」
「仕事で近くまで来たもんだから、会いたくなったのさ。そちらの二人は?」
男性の目がこちらに向けられる。オズナーとアンヌは揃って飛び上がった。
「アルバイトのオズナーと、常連のアンヌだよ。二人共、この人もSB出身の『家族』なんだよ」
「ヒビロ・ファインディだ。よろしくな」
ユーリットはヒビロにぴったりしがみつき、嬉しそうに彼を見上げる。オズナーは何故か激しい嫉妬心を抱いたが、ヒビロにいきなり迫られ、思わず仰け反った。
「君とはいい
右手を差し出され、無意識に握手する。端正な顔立ちが眼前まで寄り、オズナーはどうしようもなく緊張した。
すると、ユーリットがむくれながら二人の間に割りこみ、オズナーを守るように立ち塞がった。
「ヒビロ、オズナーに手を出したら許さないからね」
「ははっ、悪ぃ悪ぃ。可愛いからつい愛でたくなっちまった」
ヒビロはオズナーから離れ、傍らのスーツケースをユーリットに手渡した。
「いきなりですまないが、今日泊まってもいいか?」
「もちろんだよ。そうだ、せっかくだし先生達にも挨拶して行ったら?」
「そうだな。じゃあちょっくら行ってくるぜ」
オズナーとアンヌが質問を挟む間もなく、ヒビロはひらりと片手を振って外に出る。カラン、と呼び鈴の音が冷たく響いた。
「オズナー。ちょっとこれ置いてくるから、店番頼むね」
ユーリットはスーツケースを引き、浮足立ってリビングへ消えた。残された二人は、この短いやり取りに言葉を失い、しばらく立ち尽くすのだった。
――
翌日の昼。店は休業日で、オズナーは自室のベッドにぐったり横たわっていた。嵐のような
ヒビロは連泊せず、既に出払っている。ユーリットはオズナーを気遣い、『今日はゆっくり休んで』と言ってくれた。本当なら家事を頑張りたいところだったが、その好意に甘えることにしたのだ。
どうやら、ヒビロはユーリットの『ずっと好きな人』で間違いないようだ。
昨日は夕食を三人で囲み、ユーリットは終始顔がほころんでいた。彼はオズナーにも見せたことのない顔で笑っており、オズナーは終始不満だった。更にあろうことか、ヒビロはユーリットの部屋に泊まったのだ。
ゲストルームはオズナーが既に使っているため、空き部屋はない。『だったら俺がユーリさんの部屋で寝ます!』と言う準備はしていたが、二人共当然のように部屋へと向かってしまい、オズナーの心は打ち砕かれた。
「(もし、俺が『兎』じゃなかったら……)」
『兎』であるオズナーは、ユーリットと同様に聴力が優れている。この部屋にいる場合、外の廊下から隣接するリビング、更には店内の物音まで聞き取れる。すぐ隣にあるユーリットの部屋に至っては、ほぼ筒抜けだった。
普段のオズナーだったら『俺にもまだワンチャンあるぞ!』と自分自身を励ますのだが、流石にそのような気分にはなれない。壁越しに聞こえた逢瀬を思い出し、嫉妬と共に悔しさが滲み出る。
「(俺の入る隙間なんて、これっぽっちもなかったのかよ)」
その人以上に好きにさせてみせる、と言った自分が馬鹿馬鹿しくなる。ほんの数ヶ月共に暮らした赤の他人が、長い間苦楽を共にした『家族』に勝てる訳がない。
オズナーは腕で顔を覆い、涙を堪える。思考を振り払おうとするが、紛れもない事実が、彼を絶望の底へ沈めてゆくのだった。
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