1章―1
文字数 3,105文字
穏やかな昼下がり。夏だというのに辺り一帯は涼しく、周辺住民は暑さ知らずだった。
樹木に覆われた街道の外れに佇む、水色に塗装された平屋建ての家。玄関先にはプランターが所狭しと並び、観葉植物や花が心地良く風に揺れている。『植物園・プラントフィリア』。可愛らしい丸文字が、看板に綴られていた。
植物園の店主、ユーリット・フィリアはレジ台横の椅子に腰かけ、溜息をついた。今日はまだ一人も客が来ない。それもそのはず、慌ただしい週初めに客が来ることなど、滅多にないのだ。仕方なく立ち上がり、体を伸ばす。眠気覚ましにコーヒーでも淹れよう、と思い立ったのである。
彼は三十三歳だが、身長が低く童顔であり、初対面の人からは必ず十歳以上年下に見られる。外見のコンプレックスのせいで人見知りは激しく、接客も苦手だった。
都会ではなく人通りのない僻地に店を構えたのも、それが理由だ。今でこそ周辺住民の口コミで客が増えつつあるが、開店当初は常に倒産寸前だった。それでも続けられたのは植物を愛する気持ちと、共に暮らした『家族』のおかげだった。
――カラン
玄関のドアに取りつけた呼び鈴が鳴る。客が来たのだ。ユーリットは小走りで、隣接するリビングから店内に戻った。
「いらっしゃいませ!」
店内には一人の女性がいた。艶のある黒髪、露出度の高いタイトな服装。彼女はショーケースの切り花を気だるげに眺めながら、カールした毛先をくるくると弄る。その姿が目に入った瞬間、ユーリットはどうしようもなく緊張した。
「店員さん、ちょっといいかしら?」
吊り上がった黄色の瞳が、こちらを捉えた。ユーリットは声を引きつらせながら返事し、ぎこちなく駆け寄る。女性はショーケースの中の花を指差した。
「これ、けっこう値が張るみたいだけど、珍しい花なの?」
水色の花びらの、小さな花。両隣のものと比較すると、単価は二倍を超えている。
「ぇ、えっと……冬の時期にしか咲かない花なので、かなり珍しいものです」
「冬? 今は夏でしょ。どっかから仕入れたの?」
「いえ、ここで栽培しているんですよ」
「ふーん……」
その女性は水色の花を眺め、ニヤリと笑った。香水の濃い匂いが漂う。ユーリットは思わず立ちくらみを起こしそうになった。彼女はしばらく店内を見て回ったが、結局何も買わずに「また来るわ」と言い残し、帰って行った。
ユーリットは大きく息を吐き、レジ台にもたれかかる。あの女性がいる間、心臓は早鐘を打ち続けていた。加えて彼女の身なり、豊満な胸と長い脚を惜しげもなく露出したその姿に、平静を保てなかったのだ。これまでの人生で、これほどまでに緊張したのは初めてだった。
ユーリットは深呼吸を繰り返し、再びリビングへ向かう。結局この日は、あの女性以外の客は来なかった。
――
謎の女性はその後も度々訪れては店内をぐるりと眺め、何も買わずに帰った。そして何度目の来店かも忘れた頃、彼女は遂に商品に手を伸ばし、レジ台に置いた。濃い緑と白のコントラストが美しい、小さな観葉植物だった。
「ぃ、いつも来てくれて、ありがとうございます……」
ユーリットは商品を丁寧に梱包しながら、勇気を出して声をかける。彼女はにんまりと笑みを浮かべ、首を傾げた。
「あら、買い物をしたのは今日が初めてよ?」
顔が一気に熱くなり、返す言葉がなくなる。その女性はくすくすと笑いながら、レジ台の上に頬杖をついた。
「ここの店、あなたしかいないの? まだ若そうなのにすごいじゃない」
ユーリットは気づかれないように溜息をついた。きっとこの人は、自分を二十代前半だと思っているのだろう。
「僕、一応三十三歳ですが」
「えぇぇぇ! 嘘ぉ、私より年上?」
案の定、彼女は目を丸くして叫んだ。このような反応には呆れるほど慣れている。おかげで少し冷静になれたが彼女に両手を取られ、ユーリットは飛び上がりそうになった。
「だったらそんなに畏まらなくてもいいのに! 可愛い顔が台無しよ?」
突然の行動にパニックになり、言葉が出ない。握られた手がじんわりと汗ばんできた。異性に迫られた経験も記憶もなく、どうしたら良いか分からなかった。
「私、アンヌって言うの。この植物、大事にするわね」
その女性アンヌはユーリットの手を離し、梱包済の商品を手に取る。そして未だに固まったままのユーリットに軽く手を振り、店を後にした。
カラン、と呼び鈴の音が響く。ユーリットはその場に崩れ落ちた。
「あのひと、アンヌ、って名前なんだ……」
心臓の鼓動は高速のまま、治まる気配はない。彼女とのやり取りは頭の中で、何度も何度もぐるぐると再生される。ここまで心が掻き乱されたのは、初めてだった。
ユーリットはある記憶を思い出す。故郷の『家』で共に過ごした、血の繋がりのない『家族』達。兄弟とも仲間とも言える大切な人々だが、そこで出遭ったある人物に、淡い恋心を抱いたことがあった。この状況は、当時感じた『初恋』の感覚と酷似しているのだ。
ユーリットは床にぺったりと座りこんだまま、アンヌに握られた手をいつまでも見つめていた。
――
この一件以来、アンヌは頻繁に姿を見せるようになった。可愛らしい花の鉢植えを購入したり、植物の育て方を聞いたりと熱心な様子だ。
相変わらず緊張は止まらなかったが、ユーリットは次第に、彼女と打ち解けてゆく。
「ねぇユーリ、こっちの部屋は何なの?」
アンヌはリビングのドアの隣にある、別のドアを指差す。そこにはホワイトボードを取りつけているが、常にメモで真っ黒なのが気になったのだろうか。
「あぁ、そこは栽培室だよ」
ユーリットはドアに駆け寄り、メモの一部を消して新しく書きこみながら説明する。
「季節関係なく色んな植物を取り揃えたくて、自分で育ててるんだ。まぁ、上手くいくとは限らないんだけどね」
「ねぇねぇ、部屋の中、見せてくれない?」
「えっ」
突然の申し出に思わずためらう。栽培室は店内とは違い、いわば企業秘密なのだ。見たいと言われても、簡単に通す訳にはいかない。
「お願い、どうしても気になるの!」
アンヌは更に一歩すり寄った。華やかな香水の匂いが一段と濃く漂う。濡れた瞳で見つめられ、頭が痛み出した。
「……わ、わかったよ」
「ほんと? ありがとっ!」
苦し紛れに声を絞り出すと、アンヌは飛び上がって喜んだ。ユーリットは息を整えながらも仕方なく、ドアを開けた。
栽培室は店内より広く、天井部分はガラス張りになっている。太陽の光がたっぷり降り注ぎ、部屋中に敷き詰められたプランターの植物は皆生き生きとしていた。
アンヌは物珍しげに眺め回していたが、隅にある倉庫らしき小屋に目を留める。ユーリットは彼女の視線に気づき、それを指差した。
「あの部屋は、寒冷地で育つ植物専用の栽培室だよ」
ユーリットはドアを開け、アンヌを手招きする。部屋に入るとひんやりとした空気が纏わりつき、アンヌは堪らず身震いした。この部屋のみ冷房を効かせており、プランターの植物も数種類しかない。
すると、アンヌは「あ」と声を上げた。彼女の目は、水色の花に釘づけだった。
「これはね、この[島]の北の山だけで咲く花なんだ。一目見た時から気に入ってね、どうしても栽培したくて時間をかけて、ようやくいい方法が見つかったんだ!」
ユーリットはこの花を愛おしげに見つめながら、熱く語る。アンヌはしばらく黙っていたが、ふと寂しげに呟いた。
「あなたはほんとうに、心から植物が好きなのね……」
突然、鼻に何かが当てられた。ぐっと力がこめられ、意識はあっという間に遠のいてゆく。
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