3章―1
文字数 2,801文字
オズナーを雇ってから二ヶ月が経過し、暑さが和らぐ頃となった。ユーリットはオズナーと協力しながら、植物園の経営を続けていた。
あの日以来二人の関係は良好で、ユーリットの故郷、セントブロード孤児院への挨拶も済ませた。親代わりの考古学者レントは大層喜び、まるで自分の息子を嫁に、いや、婿に出すかのように『ユーリをよろしく』とオズナーに託した。幼い生徒達も、兄代わりの助手達も囃し立て、彼らの誤解を解くまで一時間はかかった訳だが。
また、オズナーの疑問である『兎』の件も解決した。いうのも、助手のトルマが実は『狐』であり、目が合った瞬間、オズナーは彼の正体を見破ったのだ。レント曰く、[獣の記憶]を持つ[獣]同士の目が合うと互いの正体が分かる、とのこと。
アルコールや薬のような化学物質に弱い、という性質も教わり、レントはオズナーに『お酒を飲む時や病院で薬をもらう時は気をつけてね』と忠告した。
その後、二人は近所に住む『家族』にも挨拶した。交番勤務の女性ウェルダはレント達同様、オズナーをユーリットの恋人と勘違いした。更に診療所の女医リベラ、その夫で薬剤師のニティアも二人を祝福し、ユーリットはうんざりと釈明した。
何で恋人だと思ったんだろう、と疑問に思うユーリットに対し、オズナーは終始、何故か嬉しそうだった。
「うーん、今日は暇だね」
時刻はもうすぐ午後三時。今日は客の入りが少ない。二人は店内で雑務をしながら、のんびりと過ごしていた。
「そろそろ三時ですし、休憩しませんか?」
オズナーは大きく伸びをする。ユーリットも品書きを書く手を止め、ペンを置く。
「そうだね。冷蔵庫に残り物のケーキがあったな、コーヒーでも淹れようか」
「やった!」
ぴょんぴょんと飛び上がって喜ぶ姿は、やはりウサギのようだ。ユーリットが席を立とうとした瞬間、店の呼び鈴が鳴る。二人は反射的に「いらっしゃいませ!」と玄関を向いたが、揃って表情が固まった。
「やっほー! ユーリ、元気にしてる?」
猫を思わせる愛くるしい笑顔に、黒いレザーのミニスカート。入店したのは、黄色の目を持つ黒い巻き毛の女性、アンヌだったのだ。
ユーリットは胸を押さえてレジ台に手をつく。怒りと恐怖が押し寄せたが、オズナーの行動が目に入り、思考が吹っ飛んでしまった。オズナーは彼女に、猛然と突っかかったのだ。
「アンヌてめぇ、どの面下げて来てんだよ! ユーリさんに近寄るな!」
「ちょっとオズナー、あんたに用はないんだからそこ退きなさいよ!」
オズナーはアンヌを玄関に押し寄せ、アンヌは彼の頬を乱暴に押し返す。ユーリットは呆然と眺めていたが、ふと、あることに気づいた。まだ名乗っていないはずなのに、何故、互いの名前を知っているのか。
「二人とも……知り合い、だったの?」
彼らの動きが止まる。振り返ったオズナーの顔は、青ざめていた。
「そうよ。オズナーは私の古い知り合い。まさか先を越されるとは思わなかったけど」
彼女から誘惑的な笑みが消える。アンヌは、ユーリットを真っ直ぐに見つめた。
「ユーリ。私はあなたのことが好きなの。今度は必ず、あなたの心を盗んでみせるわ」
ユーリットは、開いた口が塞がらなくなった。アンヌは勝ち誇ったように胸を張り、オズナーをビシッと指差した。
「そしてオズナー。あんたなんかにはぜーーーーったい、負けないんだから!」
オズナーは彼女の気迫に押され、一歩後退する。満足げに身を翻し、アンヌは「また来るわ」と、笑顔でドアを引いた。
玄関の呼び鈴が虚しく鳴る。二人は長いことその場に立ち尽くすのだった。
アンヌの宣戦布告から十分後。店を早々に閉め、ユーリットはオズナーを取り調べていた。テーブルの向かいに座るオズナーは、気まずそうに俯いたまま。言葉はなく、リビングには緊迫した空気が流れる。
「アンヌと知り合いだってこと、何で黙ってたの?」
ユーリットは険しい声で問う。オズナーは背をビクリと震わせ、更に縮こまった。その様子は、ケージの隅で怯えるウサギのようだ。
「あ、あの時『アンヌの知り合いです』って言ったら、絶対雇ってくれなかった、ですよね……」
「うーん、まぁそうだけど……でも、嘘は良くないよね?」
彼は「おっしゃる通りです」という消え入りそうな声と共に、背を丸める。ユーリットは大きく溜息をついた。
「(何か、可哀そうになってきたな)」
オズナーのことは許せなかったが、この怯えようを見ていると、自分の方が悪者に思えてくる。ユーリットはテーブルに頬杖をつき、そっと息を吐く。
彼の振る舞いに、怪しい点は何ひとつなかった。恐ろしく正確な[第六感]でさえ、無言を貫いていたのだ。それは、とんでもない嘘が発覚した今も同じで。
「充分反省してることは分かったよ。オズナー、正直に話してみて」
オズナーは恐る恐る顔を上げる。その赤い瞳は、今にも泣き出しそうに潤んでいた。
「ユ、ユーリさんと会う直前、外でアンヌと会ったんです」
思わず目が強張る。オズナーは一瞬怯んだが、構わず続けた。
「あいつ、店の窓からユーリさんを見ていて。俺も一緒に見たら、ちょうどユーリさんが過呼吸を起こした時だったんです。いてもたってもいられなくなって、気がついたら、体が動いてました」
「じゃあ、何で助けてくれたの?」
「えーと……俺、ユーリさんが好きなんです」
「は⁉」
突然の告白に、声が引っくり返ってしまった。オズナーは真っ赤になって手で口を押さえている。どうやら彼は、無意識のうちに口走ってしまったようだ。
だがユーリットは苛立ち、オズナーを叱りつけた。
「オズナー、嘘はだめだって言ったよね?」
「へっ?」
「僕が人に好かれるなんて、そんなこと有り得ないよ。それとも君も、アンヌみたいにからかってるつもりなの?」
「い、いや、俺、本気で……」
呆れたように溜息をつき、ユーリットは席を立った。
「今日はとりあえず許すけど、もう嘘はつかないでね」
必死に弁解しようとする彼から目を背け、ユーリットはリビングを後にした。
そのまま栽培室に移動し、植物の前にしゃがむ。怒りはまだ治まらなかったが、心の内は虚しさでいっぱいだった。
「(アンヌもオズナーも、いったい何なの? こんな、だめな人間が好きだなんて有り得ない。僕は、嫌われて当然なんだ)」
砂嵐のようにちらつく、古い記憶。否定され、からかわれ、『自分達と違うから』という理由だけで傷つけられた。大好きな『家族』は受け入れてくれたが、勉強でも運動でも、自分は劣っていた。これといった特技もなく、特別褒められたこともない。
『初恋』の相手だって、いつも自分の隣にいる『親友』しか見ていなかった。
ユーリットは膝を抱え、腕で顔を覆う。涙が止まらない。誰にも言えないこの気持ちに、押し潰されてしまいそうだった。
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