十七

文字数 2,084文字

 錦糸町の事務所地下にある撮影スタジオ。数人の男たちが慌ただしく撮影機材を準備している。スポットライトの熱が籠もっていた。安っぽい香水のにおいも漂っている。照明がレフ板に反射して、思わず目を瞑った。
「ヒカルさん、服を脱いで、バスローブに着替えて下さい」
 失望した。眩しいはずのスポットライトが、羞恥と屈辱に歪む心を弄ぶ道具にしか見えない。閉じた目を開けば、そこに輝く未来があるという幻想は打ち砕かれた。男の性欲を満たす道具と化した自分。事務所を移籍し、どんなに夢のある言葉を耳元で囁かれても、することは同じだった。さすがにこの歳になって、二十歳そこそこの小娘のように泣き叫びはしないが、もうウンザリだった。エリナは着替えずに二階の事務所に戻った。
「ねえ、約束が違うじゃない。この前はVシネだって言ったでしょう」
 エビサワユウジがソファに腰掛け、冷たい笑顔を作った。
「急に予定が変わったんだ、我慢しろ。それとも何か、この期に及んで撮影拒否でもするつもりか?」
 エリナが唇を噛んだ。
「だって、もうAVには出なくていいって」
 エビサワがチッと口を鳴らす。
「すでに撮影、販売まで全ての契約が済んでるんだ。今、お前が脱がなかったら、莫大な違約金が発生する。お前はそれを払えるのか?」
「そんなの勝手すぎるわ、私を表の世界に出してくれるって言うから、私」
「甘いな、お前、そんな甘チャンで、よく今まで生きて来れたな?」
「あなたが裏切るんなら、私、美華さんのやったこと警察に言ってもいいのよ」
 エビサワの顔色が変わった。額に皺が刻まれて行く。
「お前、俺を脅す気か?」
 エリナが目を逸らせた。
「そもそも美華の奴は、お前を助けようとして、アイツを殺したんだぞ」
「そうだけど」
 エリナが下を向いた。ヤマザキに背後から抱きつかれた時の恐怖が甦ってきた。男なんて皆、死んでしまえばいいのに・・・・・・。ちょっと周りより見た目が綺麗だったり、可愛かったりするだけで、ゲスな男どもが言い寄ってくる。自分が男優とセックスするのを見て性欲を発散する男たちが山ほどいる。バカな男たち。惨めな私。若い頃は自分を安売りすることが営業努力だと思っていた。その先に眩しい世界があると思ったから、辱めにも耐えた。心を殺して好きでもない男に抱かれた。けれども三十歳になって、その先の輝く世界が遠退いたと気付いた時、生まれて初めて死にたいと思った。エリナは思わず左手首を押さえた。傷の痕がざらりと触れた。
「エリナ、下でスタッフが待ってる。出るのか、出ないのか?」
 エリナがキッと睨み、唇を噛んだ。そして部屋を出て行った。エビサワは一度も目を合わせなかった。

 一時間程して、呉美華が訪れた。
「あの娘が脅迫してきたって本当なの? ユウジ」
「ああ、そのまま放っておくわけにはいかないだろ? それにアイツの高校時代のダチの彼氏が万世橋署の刑事だとさ」
 呉美華が眉をひそめた。
「で、どうするの?」
 エビサワが背を向け、窓の外を見た。猥雑な飲み屋街に人通りは疎らで、どこか地方のシャッター通りのようでもある。
「さあな、捕まるのは俺じゃなくて、お前だ、どうしたい?」
「何よ、その言い方、アンタなら簡単でしょう? そんな小娘一人黙らせるのなんて」
 エビサワが苦笑した。
「それがな、結構やっかいな相手かもしれないぞ。実はエリナの友人の彼氏とやらに、俺は一度会ったことがある」
「そうなの?」
「ミウラユキナっていうタレント知ってるだろ?」
「それは勿論、テレビでは見たことあるけど」
「数年前、ミウラユキナが売れ初めの頃、六本木のバーで偶然彼女を見かけた。男と一緒だった。男をシバいて、女を手に入れようかと声をかけたんだが、刑事だったとはな、今思えば、止めておいて正解だったというわけだ」
「何、それ、アンタらしくない」
「俺の直感は当たるんだ。姉さんにはまだまだ敵わねえが、俺もここまで商売を大きくしてきたんだ。今、サツとやり合ってる場合じゃねえ。北陽会とも上手く付き合ってきた。サツとも上手く折り合いつけないと、この商売は続けられない」
「じゃあ、何、私がどうなっても平気だって言うの?」
「そんなことは言ってない。今、考えてる。今のところ目撃者はエリナただ一人だ。だが、今アイツが姿を消したら、きっとミウラユキナが気付く。そしてきっと奴に話すだろう? そうなれば元々秋葉原の事件の第一発見者が消えたとなって、すぐにウチが疑われるのはすでに目に見えている。それに」
「どうしたの?」
「そのミウラユキナの男だが、どうも引っ掛かる。そこら辺の刑事とは違うな。俺は初めて奴を見た時、こっち側の人間かと思ったくらいだ」
 呉美華がしばらく黙っていた。
「何とかしてよ、ユウジ」
「わかってる。今、その刑事ごと何とかならないか考えてる。この先、俺たち兄妹の障害になる前に」
「刑事ごと?」
「エリナは今、下にいる。このまま帰すわけにはいかない」
「殺すの?」
「いや、しばらく地下に閉じ込めておく。ミウラユキナと奴を呼び寄せてもらわなければならないからな。殺る時は三人一緒だ」
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