文字数 5,616文字

 署に無理を言って休暇を取り、ショウは一人で盛岡に向かっていた。愛車アウディA6クワトロの低いエンジン音が響く。自宅マンションがある神田神保町を出て、飯田橋ICから首都高五号線に乗った。愛車で故郷に帰るのは初めてだった。十一月ともなれば、いつ雪がチラついてもおかしくはない。四輪駆動車なので足元は心配していないが、念のためスタッドレスを履いた。雪国育ちのショウも、雪路を走った経験が無い。しかし今回は父の絵画を運ぶために仕方がなかった。北海道では初雪が降ったと聞いていたが、岩手県内はまだのようだ。それでも岩手山麓の八幡平にある別荘の辺りは、県内でも気温が下がることで有名であり、いつ雪に見舞われるかわからない。盛岡までは飛ばしても六時間程かかる。オービスの手前で減速したとしても平均時速百五十キロで走っている。覆面パトカーはだいたいわかっている。クラウンのブラックかマークⅡのシルバー、スカイライン、最近はレガシィもある。万が一咎められそうになった場合は、パトランプを使う。県内ではそれも必要無いかもしれない。
 早朝に出て、昼過ぎには盛岡の祖父の屋敷に着いた。祖父タザキコウゾウが珍しく興奮気味にショウを迎えた。事前に父の絵画を持参すると伝えていたからだろう。祖父も八幡平の別荘に父の絵画を飾ることを喜んでくれた。セキュリティはそれほど厳重とは言えないが、祖父の信頼を得ている地元の警備会社が敷地内に常駐していた。
「よくぞ手に入れることができたな」
「ああ、かなり苦労したよ」
 弟のリュウに再会したことは言わなかった。とてもじゃないが、台湾マフィアの一員になっていると言えなかった。祖父の屋敷飾ってある『七月の八幡平』と並べてみる。やはり絵全体を包み込むホワイトが個性的だった。
「コレクターの間では『タザキの白』と言われているらしい」
「なるほどな、こうして二枚並べてみるとよくわかる」
 ショウが頷いた。
「いつ八幡平に持って行く気だ?」
「明日、持って行くよ。いつ緊急の呼び出しがあって、東京に帰らねばならなくなるかもしれないから」
「警察は、どうだ?」
「ああ、何とかやってる」
「そうか」
 タザキコウゾウはそれ以上何も言わずに、書斎に引き上げて行った。昔から必要なこと以外、口にしない人間だった。

 夜、外で飲もうと友人のノブユキが大通り商店街の居酒屋を予約してくれた。珍しく県庁に勤めるサトルも、県警にいるクミコも顔を出した。ノブユキは小学校からの友人で、市内で父親の会社の跡を継いでいる。サトルとクミコは高校時代の同級生で、サトルは東北大学を出て県庁、クミコは地元国立大学を経て県警に入っていた。あと一人、ミユキは経営する店が忙しく、今日は来ていなかった。
「ショウ、驚いたよ。お前が警視庁の刑事になっていたとはな」
 サトルが目を大きくした。
「ノブユキから聞いたのか? おしゃべりな奴だな」
「ショウ君、刑事だなんて、さすがよね。私なんか六年経つけど交通課の巡査のままよ。ショウ君の階級は?」
「ああ、一応、巡査部長だが」
「いやん、もうショウ君に追い抜かれちゃったわ」
 クミコが両手で顔を覆う。
「警察の昇任試験って、そんなに難しいの?」
「何言ってんのよノブユキ、難しいに決まってるでしょ。約百倍の狭き門なのよ。みんな仕事終わってから必死に勉強しているわ。予備校に通ってる人もいるくらいよ」
「何だ、凄げえな、学生終わっても受験から逃れられないのかよ」
「ほんと、ウンザリするけど、それが現実なのよ。まあ、ショウ君みたいに必死にならなくてもスイスイ行く人も中にはいるでしょうけどね」
 ショウが苦笑した。
「ところでサトルはどうなんだ? どうせ出世街道を突っ走っているんだろう?」
「まあな、今、県の環境生活部というところにいる。そこの環境保全課の課長補佐をしている」
「え? サトル君、もう課長補佐なの?」
 抑えた笑みを浮かべる。
「県の環境保全課って何をやってるところなの?」
「ああ、環境保全課って言ったって、それが更に細かく別れてるけど、県の土地や水などの環境調査をしてる。特に福島の原発事故があってからは、放射能の測定に力を入れているんだ。県民が安心して暮らせるように正確な情報を提示して、それをやがて県の土地利用や、企業誘致などにも生かして行きたいんだ」
「実際、あの事故以来、県内の放射能ってどうなの? 私たちの目には全く見えないし、福島のように直接原発の被害を被ったわけじゃないから、知らされなければ誰もわからないわよね」
「クミコの言う通りだな、実際は県内でも濃度が高い地域が幾つか存在する。県民に誠実に正直なデータを公表するのが、俺たちの仕事だと思ってる」
「さすがサトル君、学級委員長は言うことが違うわ」
「でもサトル、岩手には原発は一基も無いだろ?」
「そうだ、県庁に入ってから、お前のお祖父さんの凄さがよくわかったよ。お前のお祖父さんが県に原発を作らせなかったようなものだ」
「そうなのか?」
「ショウ、何だ、知らなかったのか? タザキコウゾウが原発誘致に反対したおかげで、東北電力も諦めたという話だ。当時は賛成派と反対派とで相当対立したらしいがな」
「ウチの祖父さんが・・・・・・。サトル、当時の推進派というのは誰だったんだ?」
「確か、政権与党、国民自由党の副総裁ハヤシマサオだったと思ったが、それがどうしたんだ?」
「いや、何でもない。ちょっと気になっただけだ」
「お前、自分のお祖父さんから本当に何も聞いていないのか?」
「ああ、祖父さんが昔のことを話すことは殆んど無い」
 サトルが意外な顔をした。
「当時、オイルショックなどでエネルギー不足が露呈した日本が、次世代のエネルギー源と期待したのが原発だったんだ。元々石油などのエネルギー源に乏しい日本が、外国に頼らずエネルギーを自給自足するためには原発が必要だという風潮があった。そこに経済界や何やら利権を狙う者たちが乗っかって、日本という国はどんどん原発を作っていった。現在、日本に何基の原発があるか知ってるか?」
「五十四基だろ」
「さすがショウ、正解だ。でも、この狭い国土に核プラントが五十四基も存在するなんて異常だと思わないか?」
「各県に一基以上あるって計算になるわね。どう考えたって過剰よね」
「けれども、エネルギーに乏しい我が国が自立するためには必要だと、当時は誰もが考えたんだ。チェルノブイリや福島第一原発の事故が起こるまではな。しかし当時から一部では、原発の平和利用に疑問を呈する人たちもいた。それがタザキコウゾウ。当時、国民自由党の幹事長だったお前の祖父だ。知っての通り我が県には一基の原発も無い。当時から他県に比べ水力、地熱など他のエネルギーが豊富だったということもある。けれども、実際に原発を県内に持ち込ませずに済んだのは、タザキコウゾウのお陰だと言ってよい。その恩恵を県民は、福島第一原発の事故の後で知ったんだ」
「ふうん、ショウ君のお祖父さんって、そんなに偉い人だったんだ」
「そんなんじゃないよ、ただの頑固ジジイさ」
「いや、でも俺はお前のお祖父さんを尊敬するぜ。俺が県庁の役人だからってわけじゃない。あの時代に原発に反対できた人なんて、そういるもんじゃない。それは原爆を体験した唯一の被爆国の国民であってもだ。世の中、どこに行ったって利権が絡んでくる。それに逆らうのは大変なことなんだ」
 サトルが身を乗り出した。
「おい、サトル。県庁で何かあったのか? 妙に熱っぽいぞ」
「ああ、すまん、何も無い。ただ俺も県の役人として、お前の祖父のような生き方を貫きたいと思っただけさ」
「そうか、お前らしいな」
「それよりショウ。お前、何で今更刑事になんかなったんだ?」
 両親の事件のことは、幼なじみのノブユキ以外知らないはずだ。
「ショウ君、それで前来た時に警察組織について私に聞いてきたのね。だったらもっと早く言ってくれればよかったのに」
「ああ、すまん」
 ノブユキが目を逸らしたまま、テーブルに並んだ料理を黙々と食べている。昔から嘘のつけないバカ正直な奴だった。
「ノブユキ、お前は知ってたんだろう? ショウが警察に入ったの」
「い、いや、俺も最近知ったんだ。ショウってあまり自分のこと話さないから」
「サトル、そうノブユキを責めるなよ。自分で皆に言わなかった俺が悪いんだ」
「ショウ、でも何でお前が警視庁なんだ? 俺には理解できん」
「いつもの気まぐれさ。東京で悪い奴らを見ていたら我慢できなくなって、自分の手で懲らしめたくなったのさ」
 サトルが苦笑する。
「お前らしい理由と言えば、理由だが」
「ショウ君は、どこに所属しているの?」
「ああ、俺は、警視庁万世橋署の組対にいる」
「組対?」
 クミコが目を丸くした。
「組織犯罪対策部、通称、組対。暴力団や外国人犯罪を主に扱ってる」
「暴力団か、危なくないのか?」
「危険のない捜査なんて無いさ、なあ、クミコ」
 クミコが頷く。
「ショウ君が組対にね、少し驚いちゃった。でも、よく考えてみれば合っているのかもしれないわ。奴らが最も苦手なタイプかも。冷静で頭が良くて、組対にしておくには勿体ないけど」
「買いかぶり過ぎだ、クミコ」
「でも、本当に気をつけてよね。岩手みたいな田舎と違って警視庁管内の事件は、きっと危険がいっぱいでしょう? 毎年、殉職するのは捜査一課か組対と決まってるんですもの」
「ああ、わかってる。ヤバくなったらクミコに助けてもらうよ」
 ショウが白い歯を見せる。
「もう、ショウ君ったら、冗談はよしてよね」

 翌朝、ショウは盛岡の祖父の家を出て八幡平に向かった。盛岡は小さな街だ。市内を抜けると左手に雄大な岩手山が見える。秋晴れの清々しい朝だった。カーラジオでローカル番組を聴く。自然に指がハンドルを叩く。麓の牧場を取り囲む木々の葉が赤く色付いている。牧草も深緑から黄色い絨毯に様変わりしていた。パワーウィンドウを下ろすと、冷たい風が髪を流した。吐く息が白い。空気が冬の到来を告げている。昔から八幡平の天気は変わりやすい。今、青空が見えていたとしても、あっという間に雲に覆われてしまうこともある。この辺りの初雪は十一月中頃だと聞いた。ショウのアウディが速度を上げる。後部座席に親父の絵画がある。白い布に包まれ、すでに額縁に収まっている。失った家族と共にドライブをしているようで妙な気分だった。
 松川にかかる橋を渡れば、祖父の別荘はもうすぐだ。やがて蔓植物に覆われた緑の塀が見えてきた。地元の人間でタザキの別荘を知らぬ者はいない。敷地はそんなに広くはないが、周囲を高い塀で囲まれ、中には地元の警備会社の警備員が常駐している。実はショウがまだ子供の頃は、警備が厳重ではなかった。塀も無く、太い丸太が剥きだしの極普通のログハウスがあるだけだった。塀を作り、警備員を置くようになったのは、両親がパリで殺害された後だったと思う。父の遺作を置くようになったことと、タザキコウゾウの政界での立場の変化がその背景にあったと今にして思う。
 ショウのアウディが門の前に停まる。事前に祖父から通達を受けていたためか、監視カメラの映像からショウの車を特定し、自動で門が開いた。敷地に入れば昔のままである。ログハウスの一階がコンクリート造の駐車スペースになっている。庭木はよく手入れされていた。雪の重みに耐えられるように、支え木がなされている。庭仕事の好きな祖父が自らやったものだろうか。ガレージのシャッターが降りる。地下からのエレベーターに乗り、エントランスに向かった。室内に入るためのロックを解除する。部屋はシンと静まり返っていた。誰もこんな東北の山奥に、タザキノボルの絵画があるとは思うまい。しかし、いずれはこの部屋の壁一面に親父の絵画を掛けて、世間に無料公開するつもりだ。記念すべき最初の一枚が、暗がりの街にほんのり明かりを灯したような『灯』であったというのも、これからの人生を照らしてくれているようで感慨深い。神々しい未来を期待しているわけじゃない。ただポツンと明かりさへ見えていれば前に進んで行ける。ショウは絵をリビングの中央の壁に掛けた。部屋の反対側の窓から、雄大な岩手山が見える。窓を開けた。すると、風に乗って、綿のような白いものが飛んで来た。見るとあたり一面に舞っている。「初雪か?」と思ったが違った。風に乗ってチラつく様は、確かに粉雪に似ている。けれども、すぐに東北地方では珍しい「雪虫」だとわかった。学名「トドノネオオワタムシ」カメムシ目アブラムシ科の昆虫で、ふわふわした綿状の白い「雪」を身にまとっている。ちょうど初雪が降る頃に、大群で舞う姿が雪そっくりなことからこの名前で呼ばれる。冬を前に、産卵のためにトドマツの木からヤチダモの木に移動するために飛行する時だけ、この白い妖精のような姿になる。北海道ではよく見かける光景のようだが、東北地方では滅多に見ることはない。ショウはかつて、まだ幼かった頃に一度だけ、家族と共に見たことがある。その光景を思い出した。その時は父が大喜びして、雪虫を掌に乗せたのだが、すぐに弱って死んでしまった。しばらく家族皆で外の景色を眺めながら、やがて訪れる冬を感じたのを覚えている。雪虫はその殆んどが、産卵場所であるヤチダモの木に辿り着く前に生き絶える。寿命は一週間ほどだ。雪虫に種としての生存の意味があるのかと思わず考えてしまう。けれども、すぐに、それは人間の傲慢な思い上がりだと考え直す。死に行く存在に憐れみを感じることが、すでに傲慢なことではないのか? それぞれの存在が自立して、誰かに依存することなく生きる。そこに長い短いなど無い。ショウは「灯」を見つめた。雪の夜の部屋の明かりに安らぎを覚える。家族のささやかな歓声が聞こえてくるようだった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み