ふたつのキリスト教

作者 とよね

[ノンフィクション]

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5件のファンレター

エッセイ初挑戦。
きたないキリスト教徒が見たり聞いたりしたことを、等身大の言葉で書いていきたいです。

ファンレター

10月17日、魚の風船のように空を飛び始めた、気高き鳥へ

最新話、『10月17日、中津川、金木犀の季節』を拝読しました。いつも息をのむ話が記述されていて今回もそうで、僕が感想で水を濁す真似をしてしまっていいものだろうか、とも思い逡巡したのですが、NOVEL DAYSも新規読者さんが増えている気がするので、レビューも有意義かと思い筆を執ることにしました。
同じ地球に住んでいて、同じ日本っていう国で、作家として同じ日本語によって文章を書いているのに、これほどまでに世界が違って見えるのか、と今回もこころを持っていかれました。具体的には中津川の1kがこんなにも〈澄んだ〉表現になるのか、と思ったのです。表現による〈異化効果〉と、瞳が捉えてたものを昇華させる技術と生き様に今回も息をのんだのです。〈小説があるから私は一人ではなかった〉というとよねさんが文章を書いていてくれてよかった、と思いました。描写に関して、よく「的確な表現」ていう言葉がありますが、とよねさんが描く世界は的確なんていう〈無機的〉な言葉ではあらわせないと思っていて。とよねさんの表現は〈有機的〉で〈複雑〉なものを、とよねフィルタで濾過した〈澄んだ世界〉なのだという印象を受けます。もちろん、この連載でも何度も言及があるように、ある種の〈不穏な足音〉が現実のとよねさんに迫ってくることも多々あるだろうし、それが主題に直結しているのに、作者のつらさを考慮もせずに「澄んだ世界だ!」と思うことにためらいがあります。それでも、この文章は澄んでいる、と思うのです。「なんでこんなにこの作者の瞳は澄んでいるのだろう」と小説を読んでいつも思う。このエッセイではそれがダイレクトに響く。この響きを、僕はレターにしたためるしかなかったのです。

返信(1)

るるせさん

いつもレビューをありがとうございます。
以前、別の小説に寄せていただいたレビューで『市井の人に寄り添った視点』という旨をいただきましたが、たぶん、このエッセイの視点と同じで、社会の片隅のひっそりした生活を見つめることで獲得された視点なのかもしれません。
なんだかうまく返信できなくてすみません。
光とか闇とか、つらいとか楽しいとかではなく、そういうものを超越する時の流れみたいなものを書いていきたいです。