妹の力!

[創作論・評論]

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――兄なんて、ロクなもんじゃない。
これが、世の大多数の妹の、偽らざる心境ではないだろうか。
そのくせ、世間には仲睦まじい兄妹の物語が溢れているようで……。
※表紙は、あままつ様のフリーアイコンを使用させていただきました。

ファンレター

「家族の絆」を問う分析が素晴らしいです

大変面白く読ませていただきました! 兄妹愛と家族の絆をテーマにした『鬼滅の刃』の読み解き、素晴らしいです。
兄妹愛を題材とした作品は、ラノベもマンガも極めて多く、人気がありますね。兄妹愛ものがこれだけ好まれるのは、原初的な夫婦関係に重なるからではないかと思いました。イザナギ・イザナミは兄妹婚ですし、アダムとイヴも兄妹と言って差し支えないでしょう。イスラエルの民の始祖アブラハムと妻サラも兄妹です。中国にも洪水で人類滅亡後に兄妹(または姉妹)だけが生き残り、結婚して人類を存続する神話があります。

太宰の作品を例にとって、「家族の絆」を問う指摘には本当に賛同します。「こんな不当な仕打ちを受けながら、自分を虐げていた者の死に対し、涙を流して「悲しむ」ことを期待され、求められる存在」という分析は、妹だけでなく全てのDV被害者が当てはまると思いました。
犯罪被害者は加害者を許すべきとは普通言われませんが、加害者が家族である場合にかぎって、被害者は受けた暴力や苦痛を許すことが社会的に求められますよね。DV被害者たちの手記を読むと、犯罪を告発した後に被害者が受ける二次被害(差別や不寛容)に憤りを感じます。

香山リカの『絆ストレス』(2012)は、震災後の「絆」批判の代表的な著作かと思います。「絆の名の下に自分を見失うまで他者に拘束されること」を香山は指摘しています。「絆」の語源は動物につける綱で、束縛やしがらみの意味でしたが、現在はしがらみよりも信頼関係の意味で使われますよね。「絆」を信頼関係の意味で使うのは、東日本大震災以前はなかったのでしょうか? 阪神淡路大震災後や戦時中などはどうだったのか気になります。
また、家族関係をしがらみと見なす仏教思想が前提にあったから、古来の「絆」の意味があったのかなと思いました。ブッダは「犀の角の如くただ独り歩め」と教えていますし。ブッダ自身、妻子を捨てて出家して、まさに「絆」を断ち切っていますね。

「絆」なるものの強制に嫌悪感を感じるのは、そこに暗黙の支配と服従の関係を見出しているからだと思います。
イエスは「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」(マタイ11:30)と言いました。軛は荷車を牽く二頭立ての牛のつける首輪です。二頭をつないでいるので、どちらかが動くともう一方も動かなければいけません。自分がつながれている軛のもう一方にイエスがつながれていて、自分の分の重荷を一緒に負ってくれるというメッセージです。神と自分の関係を軛にたとえるのは面白いですよね。
「絆」でつながっている自分と相手が、一方的に助けたり助けられたりする関係ではなく、一緒に重荷を担う関係であることが理想なのだろうなと思いました。
非常に考えさせられる論考を読ませていただき、ありがとうございます。

返信(1)

>mikaさま
読んで下さっただけでなく、温かく且つ大変示唆に富んだご感想をいただき、本当にありがとうございます!!…仰る通り、神話において兄妹が結婚するケースが多いのは、つまり原始社会、あるいは古代社会において兄妹が実際に婚姻関係になり得た事実を反映しているわけですよね。移動が困難で閉鎖的な社会においては、そういうことが屡々起こりうるようですが、例えば夢野久作の「瓶詰地獄」などは、近代教育を受けた兄妹であっても、無人島に漂着して原始社会と同じ環境になると、やっぱり男女関係になってしまう状況を描いていて、面白いと思います。ですから、「兄妹は恋愛関係にならない」と言ってしまうのは語弊があるのですが、そこまで踏み込むともう私の手に負えなくなってしまいますので(笑)、この辺は「近代以降の道徳観において」という文脈で捉えていただければ幸いです。あの部分を書きながら私が想定していたのは、実は村上春樹の作品だったんです。あの、男女の関係性をセックスを前提、あるいは必須なものとして捉える――逆に言うと「そのような形としてしか男女関係を捉えられない」のが「村上春樹的なもの」だと思うんですが、これはまた違ったテーマになりますので、また稿を改めて…なんて考えております。

「家族関係をしがらみと見なす仏教思想が前提」というのも、正にご指摘の通りだと思います。「しがらみ」は一種の「執着」だから、仏教的に見れば解脱すべき煩悩になるということですよね。だから、西行は子供を蹴飛ばして出家する(少なくとも仏教説話においては)わけですし、その意味では「鬼滅」の炭治郎は煩悩のかたまりと言えるかもしれません(笑)
これはちゃんと調べたわけではなくて私の印象の域を出ないのですが、そもそも近代以降の文学作品において、「絆」という言葉はあまり用いられてこなかったような気がします。純文学作品ではなく、大衆小説で、例えば、横溝正史の『仮面舞踏会』(1974年)に、金田一が犯人の罪を暴く過程で「絆」という言葉を使っている例がありますが、ここでの「絆」はエゴイスティックに他者を縛るものになっています。

もちろん、東日本大震災を機に、マイナスイメージが突如プラスイメージに変貌したというわけではないと思いますが、それまで大して注目されていなかったマイナーな言葉が(阪神淡路大震災ではこの言葉はあまり使われていなかったような気がしますが、どうでしょうか?「ボランティア」という言葉はさかんに使われましたが)俄かに脚光を浴び、非常に美しいものとして定着してしまったところに、巧妙な政治的な意図や策略があったと見て間違いないと思いますが、今回はその部分にも、あえてあまり踏み込みませんでした。

それから、マタイ伝の「軛」のお話、大変興味深く読ませていただきました。mikaさまのおかげで、私自身も、新たにいろいろ考えさせられました。本当にありがとうございます!これからもよろしくお願いいたします~!