密室灯籠

[学園・青春]

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24件のファンレター

「誰かの記憶には残っていたいからさ、書き残しておくよっ!!」
 これが僕の〈私小説〉。
 私小説とは、ほぼそのままのことを書く小説のこと。昔、僕が駆け抜けた日々を綴ったよ。  
 ハイデフなフリーキーフロウで、響けバイブス!!

表紙はくめゆる先生(@kumeyuru)に描いていただきました!!

ファンレター

見る前に跳べ

第101話まできました。
自らの人生を「私小説」として語り直す中で、るるせさんが打海文三氏の『ロビンソンの家』のモデルであった事実が語られる(す、すごい‼)……自ら語る「私」と他者が語る「私」……るるせ流「私小説」の多重構造の面白さに心が躍ります!しかも、章タイトルの「見る前に跳べ」に痺れました。
私がこの言葉を最初に知ったのは、大江健三郎の「見るまえに跳べ」を通してでした。しかもその『大江健三郎集』(たしか集英社版)は、著者の自筆を写真で巻頭に載せる(以前、そういう文学全集がよくありましたよね)形式になっていて、そこに大江は、原詩であるW.H.オーデンの「……見るのもよろしい、でもあなたは跳ばなくてはなりません」の一節を書いていたんです。
この詩は、るるせさんのこの作品の――そして、青春というものの主旋律だな、なんて感じてしまいました(*^^*)

『旅する練習』もそうでしたが、現代を描いたものが過去の文学作品とリンクし、その過去作品のイメージを読者に喚起させることによって、更に複雑な小説世界を構築していくという小説が、私は個人的にとても好きなのですが、現代ではわかりにくさを避けるためかそういう作品が少なくなっているような気がします。そういう意味でも、るるせさんの『密室灯籠』は特別な作品だと思います。
段々残りが少なくなってきたのは寂しいのですが、引き続き、心して読ませていただきます!

返信(1)

打海文三氏は若い頃、『ウルトラマンタロウ』の脚本を、何回か担当したことがあります。その回のウルトラマンタロウに感銘を覚えた大江健三郎氏がシナリオ系の雑誌に、打海文三氏の描いたウルトラマンタロウを褒めた文章を寄稿しているのですよ(検索すれば出てくると思います)。そういうこともあって、僕も大江健三郎作品を、ずいぶん読みました。

一般文芸も今はジャンル小説と呼ばれるものの作法に準じて仕掛け(ガジェット)を「わかりやすい」仕方で仕込むことも多くなった気がします。ですが、『密室灯籠』は(例えばSF的なガジェットなどを使わず)「ストレート」に書こうと決めて書きました。昔、誰かに「今は面白い『ライト文芸(キャラ文芸)』も多いのに、るるせさんはなんでつまらないラノベみたいなのや、古くさい文章を書いているのですか?」と言われたことがあります。やはりというか、そのひとはすぐにどこかへ去っていってしまいましたが、文芸の世界もまた、泡沫の夢を見ているかのように、栄枯盛衰が激しく、新しいものや人物が現れてはどこかへ消えていきます。持論になりますが、(例えば去っていったその誰かのように)たくさんのものやひとが泡のように現れては消えていくなかでサバイヴしていくにはどうしたらいいだろうか、と考えて、「根っこをこの地面に根付かせることが必要なのではないか」と思ったのです。そこで必要になるのは、歴史や文脈、だと思ったのです。そこから、僕の文芸の勉強が始まりました(密室灯籠で描いた頃の、そのあとの話ですが)。
わかにくいのを避けてわかりやすい作品を描いていても、それが文芸や、そのジャンルの伝統や文脈に根付いているかいないかはわかるもので、やっぱりそこが、自分で書く際にも重要になってくるだろうな、と思って書いています。話を戻すと、『密室灯籠』の複雑さは、文芸の伝統に則り書いていて、その上でもちろん、僕固有の表現をするよう心がけました。が、ストレートではあるのです。ある日、『密室灯籠』の梗概を書かないとならない時があって、書こうとしたら、書くのに苦労した。純文学って、梗概が上手く書けない作品って多いのですよ(だから、純文学の新人賞は梗概を付けないで送れる賞が多い)。そういう意味で〈ベタ〉に、ストレートにブンガクしてみたのが、この小説です。南ノさんの分析っていつも鋭くて、「文学を知っている方だな」と、常々思っています。僕の『密室灯籠』を特別な作品、と呼んでいただき、ありがとうございます!! 僕も、こんな作品はもう描けないと思います。最後までお付き合いいただけると嬉しいです!!