ふたつのキリスト教

作者 とよね

[ノンフィクション]

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5件のファンレター

エッセイ初挑戦。
きたないキリスト教徒が見たり聞いたりしたことを、等身大の言葉で書いていきたいです。

ファンレター

寛解ってのは決して普通の人になることではない。

こんにちは!! 僕が思うにとよねさんは勇気があるひとです。例えば、手を差し伸べることをしないひとは優しさがないかというとそうじゃなくて、あったとしても手を差し伸べる勇気が出ない(優しさや手を差し伸べる、伸べられないは、共有とは関係ない概念だと思う。優しさは他人からの尺度で見るから本当はここで優しさという言葉を出すのはためらわれるけど、ほかの言葉だと話が先に進まないので)。親と絶縁することに関しても、絶縁して悩むひとと同じくらい、「泣き寝入る」ひとが多いのはこのエッセイにも書いてある通り。介護職のひとの愚痴を聞いたら、親が弱って来たときに攻撃するひとがとても多い(具体的には書かないけど、かなりえぐいことをする)のを介護の現場で知って、そのことをこぼすひとは、何人もいました(守秘義務あるから聞けないけど、たまたま聞くことはあるし、同様に看護にしたって、言えないようなことが多く、黙殺や封殺もされる。戦う気力も矢面に立つなんて、通常はきっかけがなければしない)。
「勇気」を持ったひとって、「普通」ではない。勇気は、共有出来ない。亡くなったあと、または自分が知らない遠くで評価されることはあっても。
民俗学には〈マレビト〉と呼ばれる概念が存在します。マレビトは大抵は〈貴種流離譚〉なんだけど、流されて来た場所で〈一回的立法〉を行う。つまり、どこからか来たひとが、なにか行ってその結果、ルールを改変する。じゃあ、めでたしめでたしになるかというと、そうじゃないんですね。さらにその場所を追い出されるか、殺されるか、する。勇気がめっちゃある英雄譚などは、このかたちを取ることがとても多い。けど、その渦中で、一般のひとがそのマレビトの成したこと自体や、それで助かったとして、こころを共有出来るかというと出来ない。だからマレビトはまた追い出されるか殺されるかしてしまう。要するに、勇気があって実行する人間は、嫉妬や憎しみや羨望の対象であるばかりではなく、恐怖の対象でもある。「普通」であるということはサイレントだったり、その普通の共有出来ない価値観を持ったものを排撃したりになりがちです(普通という言葉は温厚なイメージがつきまとうけど、実際は暴力性が高い)。
今、大きな話をしちゃって「そんな大きな話はしていない」と思うだろうし僕もそう思うのですが、作品のテーマ的にもこの話をしておきたかった。とりあえず、普通は「動かないで押し黙る」し、それはときとして共有できる場所で傷の舐め合いをしたり、共有できない他者に敵意を向けたり、などになることもある。何故かと言えば、普通の人は、「自分が持たないこころ(それは時には善意や勇気という「負」じゃないものだったりもする)を持ったひと」を、自分が劣等感などをもたないように「飼い馴らす」ことをするからだと僕は思っています。「こころの防衛機能が働く」んです。勇気を持ったひとを褒めるとき、一般の、普通の人も当たり障りない表現で言うと「ばかもの、若者、よそ者から新しい価値が生まれる」です。ここで言うばかもの、とは、両義的な意味合いを持った言葉です。ばかもの……「もののわからない人」ということで、その「もの」とは、共有する暗黙の了解事項でもある。それを守ったら、勇気なんて持てないし(ばかものは了解事項を理解しない、ってこと)、それに勇気って言葉が褒め言葉なのは、そんなの持って行動に移すのは、そんなことは普通の人はしないからです。あと、日本は儒教の影響がめちゃくちゃあって、「仁・義・礼・智・信」ってのを、知らないうちに叩き込まれているので、父子・君臣・夫婦・長幼・朋友の関係を維持することが美徳なので、レールから外れないようにするけど、現実のつらい関係で悩んでPTSDになって、概念としてのひとの関係性で、もちろんそれは悩むだろうけど、それでおかしくなっちゃったら、それはかなしいことだと思う。まるで自ら自分のこころの押入れの暗闇に潜んでいるみたいになってしまう。でも、創作やこのエッセイで書いていることから、そうじゃないってこともわかる。投薬治療って対処療法で、じゃあ、対処してやり過ごしてどうするかというと、最新話「普通ってなんだろう」には、「わかっているつもりだけど〈どうしていいかわからない〉」が強く出ていて、これは複数のレイヤーが絡み合ってごちゃごちゃになっているのが見えて、医療用語で言うところの〈寛解〉に至るまでには、長い時間をかけて自分で糸を解きほぐしていく作業が必須で、その孤独な道のりで対処する必要があるから投薬なのがわかります。対処療法は解決は出来ないけど、サポートは絶対必要で。それも、とよねさんはわかって書いているのだとは思うけど、書かざるを得なかったです。見当違いなことを書き連ねていたとしたらすみません。僕も下書きなしにブラウザにベタ打ちで書いていて、でも、速攻でレターを送りたかったのです。
ちなみに今日、僕はワークマンの肌着の上にパーカー羽織って仕事してました。自転車に乗るときなど、ワークマンのレインコートは最高です!! ワークマンの、内側がもふもふのズボンも、冬は欠かせない存在です!!

返信(1)

るるせさん、こんにちは!

わかっているつもりだけどどうしていいかわからない、ほんとソレです……(悲しみ)
虐待介護の話はどこかで聞いたことがあります。自分を虐待した親を介護する、これは地獄です。かといって、自分の人生を生きるために家族を捨て去ることをすれば、そのことを知っている親しい人からは「親をおろそかにした者」の烙印を押され、現実にさまざまな社会制度の隙間にすっぽりと収まることになります。
いろいろな毒親本は、親と絶縁するのも一つの手だという勇ましいことを言いますが、本当にそれをしたらどういう孤独な思いが待っているかを決して教えません。
それでも、虐待介護をするくらいなら、せめて自分一人でも人生を全うするほうがずっといいでしょう。
私がこう言うのは、私のように声を上げる「親不孝者、メンヘラ、人でなし」の後ろには、「親不孝者、メンヘラ、人でなし」と呼ばれることを恐れて沈黙する千人の人がいるからです(千人というのは実数ではなく、たくさんの人という比喩です)。

私はなんらかの突破口が見つかるまで、対処療法を続けなければならないのかもしれません。それが一生続くなら、私は生まれて死ぬまでマレビトです。
イエスもまたマレビトでした……このことは、またいずれ書きます。

ワークマンいいですよね(*´∇`*)
女性ものの服って生地が薄かったりポケットが異常に小さいか少なかったりするので実用性に難があって。ワークマンの服は汗もしっかり吸ってくれるし、雪の日に耐滑安全靴は本当に頼りになる(笑)。

ありがとうございました。私でよければ、またお話ししてください。