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「〇」「もしかして」
かめさん、こんばんは。「〇」「もしかして」を拝読しました。
「〇」は、戦争、もっと広く「争い」をしないことを考える上での、究極的なところですよね。
しかし、人間として、尖ったところを全く持たないというのは、やはり非現実的すぎるのですよね。
それだからこそ敢えて、「理想」を表に掲げておくしかないのかもしれませんね。
中国思想も西洋哲学も、最終的にはそこにいきついているのかなあ、と思います。
「もしかして」は、場面に応じた適応とも言えるので、そうなれなければむしろ病んでしまうような気がします。
もちろん、コロナの患者数報道と同じで、慣れてしまうのは、嫌なのですが……。
ありがとうございました。
引き続き、考えていきたいですね。
返信(1)
村山さん、こんにちは!
仕事をしていた時もそうなのですが(クルマのエンジンなんかモロに人命に関わるので)、完璧を求めて、やっと完璧に近づける、というふうに仕事をしていました。
完璧はあり得ないけれど、それに近づける、近づくことしかできない、と。
それも「あり得ない」からこそ、そうすることができるんだ、と。
自分にとっての文章と同じで、どんなに自己表現しようとしたところで、完全な表現はできない、だからこそ、それに近づこうとして書ける、やろうとすることができる、というのと似ている感じがします。
現実を見れば不可能なことばかりで、よく窒息しそうになります。まったく、生きるということ自体が、不可能なことのように思えることがよくあります。だからこそ、「だからこそ」があると思うんですね。
「戦時下にて」「戦争を考える」「胎動から」と、どこに何を書いたらいいのか自分でもしっちゃかめっちゃかですが、いつもありがとうございます。
大江さんが死んでしまって、かなりきついです。
仕事をしていた時もそうなのですが(クルマのエンジンなんかモロに人命に関わるので)、完璧を求めて、やっと完璧に近づける、というふうに仕事をしていました。
完璧はあり得ないけれど、それに近づける、近づくことしかできない、と。
それも「あり得ない」からこそ、そうすることができるんだ、と。
自分にとっての文章と同じで、どんなに自己表現しようとしたところで、完全な表現はできない、だからこそ、それに近づこうとして書ける、やろうとすることができる、というのと似ている感じがします。
現実を見れば不可能なことばかりで、よく窒息しそうになります。まったく、生きるということ自体が、不可能なことのように思えることがよくあります。だからこそ、「だからこそ」があると思うんですね。
「戦時下にて」「戦争を考える」「胎動から」と、どこに何を書いたらいいのか自分でもしっちゃかめっちゃかですが、いつもありがとうございます。
大江さんが死んでしまって、かなりきついです。