りんご 

文字数 2,625文字

 
 朝のリビング。
 四人掛けの食卓。
 少し暖かい日。
 
 愛情や思いやりはそれを表現することが難しい。
 どんなに溢れそうな想いを込めても、良かれと行うことが素直に相手に伝わるとは限らない。
 努力が必要。
 たとえば母が子に作るご飯のように。
 一緒に添えられたりんごのように。
 

  
 食卓には目玉焼きとサラダが置かれていて、私は誰も居ないリビングの中でそれをさらりと流し見る。
 食パンの日付を確かめてから一枚をトースターに入れて、冷蔵庫からマーガリンとイチゴジャムを取り出した。
 テーブルに牛乳をのせる。
 椅子に座るとぼんやりと窓を眺める。
 クリーム色に染まる小さな庭。
 冬晴れの少し遅い朝。
 静かな家。
 誰も居ない家……
 
 やがてパンの焼ける香りがして、熱の余る音が漏れて、手元に朝食が揃う。
 ジャムを塗ったそれをかじりながらため息をつく。
 
 私は、この毎日にうんざりしていた。
 朝早くいなくなり夜遅くまで戻らない父と母。
 家族ってなんだろう。
 ずっと考えていた。
 顔も合わせないあの人達は、今も私を家族だと思っているのだろうか?
 いつしか忘れてしまいそう。
 二人の声も、顔さえも。
 
 時計を見ればすでに学校は始まっている。
 目玉焼きを見つめながら、全て諦めたくなってくる。
 まるで餌だけ与えられているペットのよう。
 見る間に食欲が無くなっていき、全部食べかけのまま立ち上がった。
 そこで初めて書き置きに気づいて手に取った。
 
『冷蔵庫にりんごが切ってあります。食べてね』
 
 何故だか無性に鬱陶しくなって、私はそれを苛立ちと一緒に丸めてゴミ箱へ落す。
 食卓は片付けずに、冷蔵庫を開けるとりんごを取り出して、そのまま流しに捨てた。
 貴女は母親失格だとメッセージを込めて。
 何年も続いているこの空々しい朝。
 私は別段愛されてはいない。
 父も母も私に興味はない。
 何の才能もなく、何の問題もない私なんかに。
 朝目覚めたら音一つない家と、機械が作っているかのように用意されている代わり映えのない朝食。
 それが私という存在を表しているのだろう。
 貴女は無価値だと、伝えてくれているのだろう。
 
 私は泥のような気分を胸に抱えたまま学校へ向かった。
 今日は夜中まで遊んで帰ろう……母の顔など見たくないから。
 
 放課後、友達とふらふら時間を潰した。
 お互いに親への不満を吐き出した。そうすればするほど自分の孤独が確かになっていく。
 別れる頃には生まれてこなければ良かったとまで感じていた。
 好きで生まれたわけじゃない。
 あの人達が勝手に愉しんだ挙句、副産物として産み落とされただけなんだ。
 それなのに無理やり学校なんて押しつけられたり、果ては放置されたり。
 要らなくなるのなら最初から作らないでほしかった。
 愛情がなくなるくらいなら産む前に殺してくれれば良かった。
 
 帰ると電気が消えていた。
 そっとリビングを覗くと、食卓は奇麗に片付けられていた。
 何か書き置きがあるわけでもない。やっぱり何も感じないのだろう。
 私はさっさと部屋に戻って眠りに就いた。

  
 次の日も。
 その次の日も。
 母は懲りずに代わり映えのない朝食を置いていく。
 私は毎日同じように食べかけで食卓に残し、冷蔵庫のりんごをそのまま捨てた。
 そして夜遅く帰った。
 それでもいつも繰り返される朝の光景が心の底から馬鹿馬鹿しくて堪らなかった。
 ついにある日、私は食卓の料理を手つかずで捨てると書き置きの裏にメッセージを残した。
 
『私はペットじゃない』
 
 そして学校に出かけた。
 数時間後に母が事故に遭うなんて想像もせずに……
 
 
 私は悲しくなかった。
 病院から帰りベッドに転がって真っ暗な天井を見つめていた。
 ずっと居なかった人が完全に居なくなっただけ。
 それだけだった。
 泣いていた父に虫唾が走った。
 空々しい……
 虚しい……
 だんだん眠くなって、やがて考えるのをやめた。
 
 
 いつものアラームで覚めた。
 音一つない静かな家。
 
 朝のリビング。
 食事用のテーブル。
 少し暖かい日。
 いつもと同じ、誰も居ない家。
 
 でも、何かが違う……
 
 食卓に朝食がない。
 昨日母が死んだことを思い出した。
 白くて小さい紙だけが置かれている。
「私はペットじゃない」
 母に伝え損ねた最後の言葉。
 なんだか滑稽で少し笑った。
 なんとなく裏返す。
 
『冷蔵庫にりんごが切ってあります。美味しいわよ』
 
 ……あれ?
 ちょっと変な気分……
 
 メモを置くとゆっくりキッチンに向かって、冷蔵庫を開く。
 いつもの棚にりんごがあった。
 別にお腹は空いていないけれど、それを食卓に持っていくと椅子に座る。
 ラップを取る。
 添えてあった小さなフォークで突き刺して、一口かじる。

 まだ甘かった。
 少し変色しているけれど、ほんのりと甘さが口に広がった。

 もうひとくち。
 美味しい。
 昨日はもっと甘かったのかな。
 お母さんが切った時はもっと美味しかったのかな。
 
 昨日お母さんがエプロン姿でキッチンに立って
 私が食べるところを想像しながら
 切っていた時は……
 
 たぶん笑顔を浮かべて
 今日こそは食べてくれるようにって
 願いながら
 冷蔵庫にしまって
 白くて小さい紙に
 丁寧な、字で……
 
 どうしてだろう……?
 あんなに鬱陶しかったのに、
 なんで私は泣いているんだろう。
 りんごの味が分からなくなってくる。
 お母さんの姿が目に浮かぶ。
 涙がとめられない。
 
 私は、
 もしかして愛されていたんじゃないだろうか。
 お母さんはいつも私が食べるところを想像しながらりんごを剥いていたんじゃないだろうか。
 仕事から帰ると流しに捨てられた手つかずのりんご。
 それを見てどんな顔をしただろう。
 せっかく作ったのに食べかけのまま置かれた目玉焼きもサラダも、どんな気持ちで捨てていたのだろう。
 
「おかあさん……」
 
 久しぶりに口にした言葉が儚く消えていった。
 
 
 
 
 
 愛情や思いやりはそれを表現することが難しい。
 どんなに溢れそうな想いを込めても、良かれと行うことが素直に相手に伝わるとは限らない。
 努力が必要。
 例えば母が子に作るご飯のように。
 一緒に添えられたりんごのように。
 そして受け止める側にも、努力が必要なんだ。
 
 私はそれをやっと知った。
 これからは早起きをして、
 父のために目玉焼きとサラダを作り、
 食後にりんごを切ろう。
 
 お母さんのエプロンをして。
 
 
 
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