ゴミ捨て場の補助輪 

文字数 1,688文字

 
 ゴミ捨て場の片隅に
 自転車の補助輪が捨ててあった
 
 
 
 今年の冬は暖かい。
 まだ2月に入ったばかりなのに春の予感を漂わせている。
 生まれて初めて一人暮らしを始めた私は、2度目の休日の昼間にふらっと散歩に出かけた。
 
 家の前のこの道は左右どちらを向いても遥か先まで真っ直ぐに延びる片側一車線。
 車通りは少ない。
 周囲に陽を遮るような高い建物はほとんど無く、静かな道路は何処までも明るく照らされていた。
 
 右側の歩道を歩きながら等間隔に続く街路樹を見上げていた。
 細い枝にまだ葉は付けていないが小さな蕾が見える。
 この陽気が続けば彼等は春の訪れを感じて近いうちに芽吹くかもしれない、そんな風に想いながら意識的に歩調を落として散歩をしていた。
 
 自分の蕾はどうなのだろう?
 芽吹く準備は出来ているのだろうか?
 
 自然と目線が落ちる。
 つま先を見つめながらアスファルトを踏む。
 首筋に感じる春を先取る日差しが、漠然とした不安を掻きたてている。
 
 思わず足を止める。
 
 “こんな不安を忘れたくて散歩に出たのに……”
 
 目を閉じて頬を少し強めに叩いた。
 
 自分を鼓舞しながら目蓋を持ち上げると、ふと右手に現れていたゴミ捨て場に眼がいった。
 視線を上げれば2階建てのまだ新しいアパート。
 おそらくそこから出るゴミ。
 燃えるゴミはひとつもなく、不燃物だけがいくつか捨てられていた。
 
 その片隅に置かれた自転車の補助輪。
 
 鉄の部分は錆びもあったがプラスチックのタイヤは綺麗に拭かれ艶やかに光を湛える。
 左右の分が丁寧に揃えて壁に寄り掛からされている。
 脳裏に、顔も知らない母子が補助輪に感謝をしながら置いていくシーンが浮かんだ。
 幼い子が母親と一緒に「今までありがとう」なんて言いながら立て掛けたのかもしれない。
 
 自分の想像に思わず微笑みながら見つめている内に、ふと遠い昔の記憶を思い出した……。
 
 自転車を与えられ初めて乗った時。
 補助輪は僅かに地面から浮いているため、少し傾かないと接地しない。
 漕ぎ出すと一瞬は真っ直ぐ保てるけれどすぐに倒れそうになる。
 補助輪が地に付くまでのホンの僅かな時間が初めて乗る自分にとっては未知の体験で、まるで世界中が倒れていくように感じて勢いのついた体は自転車から転げ落ちた。
 
 練習を繰り返しやがて慣れると、思いっきりペダルを踏み込んで駐車場や公園を走り回った。
 いつも母が見守っていて安心感に包まれていた。
 補助輪は私を支え続けてくれた。
 
 ついに補助輪を取った日。
 それまで優しい白馬のようだった自転車が急に冷たい鉄の塊に感じた。
 父が後ろを支え、母の合図で一歩目を踏み込む。
 父が手を離すと急に軽くなりそして一気に不安に襲われる。
 傾いてもいないのに足を着き、怖くて漕ぎ出せなくなった。
 イザというときに支えてくれる存在がなくなったこと。
 あの時、それがどうしようもなく心細く感じた……。
 
 
 ゴミ捨て場の補助輪を見つめながら、あの頃の気持ちと今抱えている不安が同じだということに気付いた。
 家族というイザというときに支えてくれる存在から離れた。
 けれど私は飛び出しただけで、踏み出してはいなかったのだ。
 
 それでも今私が座っている自転車にはたったふたつの車輪しかない……。
 
 あの頃私は何度も転びながら、ちゃんと自転車に乗れるようになった。
 そして支えられていた頃よりも速く走れるようになった。
 なら今の私だって、きっと何度も転ぶだろうけれど進んでいけるはず。
 きっと今よりももっと速く、力強く進めるようになるはず。
 この補助輪を外した子も今ごろ風を切って走っているのかもしれない。
 
 
 ……もう大丈夫。
 
 街路樹の蕾を見上げる。
 不安が全て消えたわけではない。
 でももう漠然としてはいない。
 漕ぎ出そう。
 自信を持って、一人で暮らし始めたあの部屋へ帰ろう。
 
 
 歩き出した私は一度ゴミ捨て場を振り返った。
 顔も知らない幼い子は、あの補助輪を立て掛ける時にきっとこう言ったのだろう。
 
『今までありがとう』
 
 そして
 
「がんばるからね」
 
 
 
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