第1話

文字数 1,815文字

 真紀が薄目で少し首を傾げた。耳を澄ませているのだ。
「こうやって、今日はどうかなと思って聞いてたらな……」
 真紀は突然目を開き、「新型コロナウイルスの感染防止のため——」と、町内放送を模した甲高い声を上げた。そうして、
「まだ中止やわ」
 真紀は、ひとしきり自分で唱えた放送の内容にがっかりした顔をする。
「もうずっと体操教室も陶芸教室も中止やろ。一日中誰ともしゃべってへんねんで」
「モリと(はなし)せえへんの?」
「できるかいや」
 真紀は吐き捨てた。「耳聞こえへんから、何言うても『う?』とか『あ?』とか言うだけやわ」
「せやったな」
 守男の耳が遠くなったのは、それで聞きたくないことを聞かなくて済むからだ。そんなことを思うことがある。望んでといえば言い過ぎだろうが、無意識にせよ生理的な調整が進んだのではないだろうか。守男は音に過敏だった。
 もう三十年も前、近所の保育園からは毎朝、園児が踊るための曲が流れてきた。その音量が守男には耐えられなかった。園に抗議に行こうとさえした守男を真紀は諫めた。
「小さな子たちが元気に活動するのはええことやないの。元気でええなあと喜ぶところやろ。違うか? それを文句を言いに行くやなんて、どんだけ了見が狭いんや。なあ、どない思う?」
「せやなあ」
 真紀からそんな愚痴を聞いたとき、私はまだそれを笑い話と捉えていた。冗談口に包まれた危機には迂闊にも気づけていなかったが、殊によると目を背けていたのだろうか。見ないようにしていたわけではないと言い切ることが私にはできない。
 私も暮らした家には駐車場がなかった。側溝の蓋に片側のタイヤを乗り上げ、軽自動車を停めていたが、あるとき法律の改正で、それができぬことになったらしい。早速真紀は歩いて五分ほどの近所に駐車場付きの売家を見つけ、購入した。
「度胸あるやろ」
 既に家を出ていた私に真紀はそう報告した。「モリは玄関のドアのデザインが気に入らないとか何とか、まだごにょごにょ言うとったけどな……買った言うたら、ほんまにか、とびっくりしとったわ」
 守男は車の運転はしない。駐車場が必要になるという真紀の説明を、恐らくは遠い話のように聞き、またそんな大きな買い物を即断するはずもないと高を括っていたのだろう。その頃守男はまだ週に一二回、短期大学に教えに行っていたから、鉄道駅への車の送り迎えがなくなっては都合が悪いという事情もあった。自然、真紀主導の計画に強くは反対しなかったのではないか。
 もう一軒家ができると、守男は出勤しない日も、昼間そこで授業の準備などするようになった。
 それからしばらく経って、真紀が私に告白した。
「今な、モリの本仰山あるの邪魔やろ、行くたんびに四七五のほうに運んでんねん」
 どうしたことかと私は訝った。なるほど文学部出の守男の蔵書は、いったいいつ読んだのだ、それともこれから何年掛けて読むつもりだと呆れるほど多量だ。それをまだ暦年の生活が積もっておらず、八五六と比べ空いた場所が残っている四七五に移したいのだろうか。しかし小分けにするとはいえ、重い書籍を、膨大ゆえ何度も何度も運ぶ気の遠くなるような労を厭わない、その動機の源泉は何であるのか、私には不可解だった。なお、八五六や四七五というのは番地である。
「モリのもんはもう全部、四七五のほうに集めたろ思ってな」
 と真紀は笑った。「モリのもんは四七五、わたしのは八五六、できれいに整理したいねん」
 またしばらく経って、
「モリがもうなあ、四七五で寝るようになってんで」
「帰ってけえへんの?」
 と私。
「帰ってけえへんねん、すごいやろ」
 つまりは緩やかな別居に踏み切ったということか。夫婦の危機というありきたりの言葉が私に浮かんだ。だが、真紀の口ぶりに影のようなものはみじんも差していない。むしろ楽しんでいるような軽快さがあった。
「でも一日一回は見に行かんとな、もしも冷とうなってんのに気づかんかったら、あの奥さん何しとったんやと言われるやろ。だから一日一回は見に行かんなあかん。朝、新聞持って行ってな……『起きてますか』言うて確認するねん。朝ごはん作って起きてくるまで待ってるねん」
 それでも、毎度ではないにせよ、四七五でいっしょに食事をとってはいるふうだった。
「それやったら、もしもの時も、『朝起きてけえへんからおかしいと思ったら……』と言えるやろ。そやないと、奥さん何しとったんや、と言われるからな」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み