第13話

文字数 2,021文字

 三ヶ月前から私は左耳が聞こえなかった。左側から呼ばれても気づかないことが四五度あり、それで気づいた。しばらく経てば戻るだろうかと考えたが駄目だった。突発性難聴を疑ったときには二週間が過ぎており、今更耳鼻科に行っても遅いかもしれないと思われたことが、さらにそこを訪れる気力を失わせた。
 私は右はさほどでもないのに、首の左の凝りがひどかった。そちら側の血行が悪いことが、耳の聞こえにも影響しているのではないか。私はその思いつきに縋り、気づけば左に首を傾けている姿勢の癖を変えて、できるだけそこを伸ばしておくことを心掛けた。なるほど左耳の聞こえは、ひどい時と比べれば少しはましになった気もするが、やはり左側で話されるとあまり聞こえない。私はいよいよ耳鼻科の門をくぐった。
 実はその前日、自転車のペダルが急に重くなるという現象が間欠的に発生し、上り坂ではとうとう動けなくなった。見たところ、どうも後輪のブレーキの取り付けが歪んでいるようだった。片方が常に車輪に当たっているように窺える。私はブレーキを左右に押したり引いたりした。平地ではやはり間欠的に重くなるが、走れないものでもない。私はいったん家に帰り、レンチやドライバーを探してそのブレーキの位置を調整しようかと考えたが、面倒になってやめた。そうして自転車屋に行った。
 店員はペダルを手で回し、「おかしいですね」と私に向かって会釈した。彼は「ブレーキかな」とつぶやき、後輪のブレーキを支えるアームを解体したが、それでもペダルはただただ重かった。
「おかしいですね。あまりないことですね」
 店員はまた言ったが、
「あ!」と声を上げ、「タイヤがフレームに当たってますね」
 なるほど再度見てみると、タイヤの取り付けが、フレームに当たるほどまで斜めになってしまっている。
 店員は手際よくタイヤを付け直し、ブレーキも元に戻してくれた。
「こうなるのはあまりないんですがね……」
「思い当たることはないんですが、強くぶつけたか、倒したかしたんですかね……」
「そうですね」
 ブレーキが常に当たっているのではないかという私の見立ては見当違いだった。あのまま自分でブレーキの取り付けを調整しようとしていても、徒労以外の結果は初めから望めなかったわけである。その一件があって、私は餅は餅屋を痛感した。翌日耳鼻科を訪れることを私は決めていた。

「どうされましたか?」
「三ヶ月前から左の耳が聞こえづらいんです。左から呼ばれても気づかないことが四五回あって、気づきました。シェーバーで髭を剃ると、左だけ振動するというか、何か篭った感じがするんです」
「どこかで診てもらいました?」
「いえ、診てもらってません」
 医師は、
「カメラでちょっと診てみますね」
 左耳、右耳と撮影した医師は、
「耳垢だと思います」
 と即座に言った。
「え、そうなんですか?」
 私は頓狂な声を発した。
「耳垢がたまって鼓膜が完全に見えなくなっていますから、聞こえないですね」
 医師はすぐに左耳の垢を吸い取ってくれた。
「こんな感じです」という医師の声に応じて、傍の看護師がガーゼに載せた多量の耳垢を見せてくれる。
「聞こえますか?」
 と医師が確認した。
 私は左耳のそばで指をさすった。
「はい、聞こえます!」なるほどすこぶるよく聞こえる。
「でも耳垢でよかったですね。そうじゃなければ遅かったですから」
 続いて医師は右耳の垢も吸い取ってくれようとしたが、そちらはとてもとても痛い。私が思わず顔をしかめると、
「痛いですか?」
「痛いです!」
「じゃあふやかして取れやすくするお薬処方しますから、それを説明をよく聞いて使って、また都合のよい日に来てください」
「あ、一応」
 と私は傍の看護師を見上げた。
 それだけでわかったようだ。私は左耳と、右耳の一部の垢を揃えてティッシュにくるんでくれた看護師からそれを受け取り、フリースのポケットに入れた。

 不思議だった。あれほど日々凝っていた左首が、少しも気にならない。首の凝りが耳に作用していたわけではなかった。逆だったのだ。耳垢が首を凝らせるほどひどく溜まっていたということか。昔はなかったはずの首凝りにここ数年悩まされていたのは不可思議だったが、それも一気に解決した。
 むしろ、右の首に今までは気に留めたことのなかったわずかな凝りを感じさえする。私はとにかく待ちきれなかった。早速翌日、私は病院を再訪した。

「じゃあ、ちょっと見せてもらいますね」
 医師はそう確認してから、右耳の垢を吸い取ってくれた。
「痛いですか?」
「大丈夫です」
 実際は少し痛かったが、昨日のように我慢できないものではなかった。
「少し吸い取ってしまいましたが……」と医師が残念そうに言い、看護師が耳垢を見せてくれる。
 私は看護師から、右耳の残りの垢を受け取った。
「持って帰るものじゃないですよね」
 私が笑うと、
「いえ、持って帰られる方もいますよ」
 医師がなぜか力強く答えた。
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